トマソン

  • 2014.11.29 Saturday
  • 05:45
先月亡くなった赤瀬川原平さん。既成概念を徹底的にぶっ壊しながら走り続けた、前衛タイプのゲージツ家だったと言えるでしょう。その最盛期は60年代なので、直接知ることはなかったのですが、70〜80年代はこちらも闇雲に走っていたので、その意味するところに共感があることも多かったと思います。

その一つがこの「トマソン」でしょう。町中にひっそりと佇んでいるものの中から、ふと、無用な存在だけれども、なにか意味のありそうなものをつまみ上げたもの。それらを集めたのがこの本だったのです。
  トマソン
  (「超芸術 トマソン」赤瀬川原平著、白夜書房、1985)

1972年に、世界で最初に発見された‘超芸術’の第1号は、四谷にあったので「四谷階段」もしくは「純粋階段」と名付けられています。立派に建物の横に存在している階段でありながら、なんの用もなすことなく存在していることに、誰も気がつかない。壊れた手すりをちゃんと補修していながら、なんの目的のものなのか、誰も分からない。
純粋階段

そんなものを、当時教えていた美学校の生徒たちとあちこち探し回っていたころは、これらを‘超芸術’と呼んでいました。途中で切られたまま存在し続けている「阿部定電柱」や、建物の壁に隣にあった建物の名残を残している「原爆タイプ」など、様々な物件が集められていきました。
原爆タイプ

ちょうどその頃、巨人にやってきたのがゲーリー・トマソンだったのです。鳴り物入りで入団したものの、バットに球が当たらず、扇風機というあだ名が付けられていました。ちゃんとしたボディがありながら、世の中に役に立つものがなにもない、そんな物件を巨人軍は大金をかけてしっかりと保管している、ということから、‘超芸術’と名付けられていたこれらの物件に『トマソン』という名前が付けられました。
ゲーリートマソン
今でもそんな物件を見つけてはバシャバシャ写真を撮してしまうので、私のガラクタ箱は増えるばかり… でも街歩きの際には、そのような目線で回りを見ていくことは、結構大切なことだと思います。このすぐあとに出された「東京路上探検記」は、そのあたりに詳しい本かもしれません。

それにしてもトマソン入団決定の記事が載ったこの新聞は、ジョンレノンが亡くなった翌日だったのですね。ちょっと因縁を感じてしまいました。

追悼 赤瀬川原平さん

  • 2014.11.14 Friday
  • 05:51
赤瀬川原平さんが、先月26日に亡くなりました。享年77歳。
その頃はまだ現場がバタバタだったので、じっくり思いにふける暇がありませんでしたが、最近になってじわりと思い出してしまいました。家の中のあちこちに散らばっている本棚を探してみると、10冊ほどの著書やたくさんの雑誌が出てきました。まだありそうです。
蔵書

最初に出会ったのは、73年に創刊された『終末から』に載っていた「虚虚実実実話櫻画報」でしょう。その前身である朝日ジャーナルの『櫻画報』は、ちょうど予備校時代だったのですれ違いになっており、後から見た断片的な内容しか知らなかったのです。なのでここに復活したこともあり、さっそくこの雑誌を読み始めました。
終末から1 終末から2

  櫻画報
60年代に「梱包芸術」を展開していた原平さんは、大朝日新聞を徹底的にパロディ化して、朝日ジャーナルの中で櫻画報を始めたようです。これは60年代の「千円札裁判」で有罪になったきっかけが、朝日の記事だったことに対する意趣返しだったのかもしれません。
ところが、その内容が朝日の上層部の逆鱗に触れ、折からのジャーナル左翼誌批判に耐えかねたこともあり、朝日ジャーナルの自主回収と編集局の大粛正が行われたのです。そのきっかけとなった事件の周辺が、「終末から」にやんわりと触れられていました。

ニセ千円札
そこには次のように書かれています。
「ほら「自称前衛芸術派の若い画家」が出てるでしょう。まぁ警察というのは曲がりなりにも証拠がないと犯罪者を作れないものだろうけど、正義の味方の新聞社というものはニュースソースを明かさないというモラルによって、いつでも誰でも犯罪者に仕立て上げられるんですね。 …中略… あんたはさっき、実はいいことを言っていたのです。新聞記者が取材にいくのは、そこに世界をつくりに行くことなのだと。その世界を事件にいいなおせば、ボクにも分かりますよ。事件というものはまさに新聞がつくるものですからね」
今の朝日新聞のていたらくは、全くこの当時から変わっていないことがよく分かります。

「本来ならば、たとえば朝日新聞とか○○新聞とかいう題字の下にはいつも「これはフィクションであり、実在の人物・団体・事件とはなんの関係もありません」というただし書きがゴチックかなにかで印刷していないといけないんだけど、どの新聞を見てもみなそれをサボっているようですね」とまで書いています。千円札裁判で有罪となり、「犯罪者」となった原平さんは、のちに尾辻克彦の名で芥川賞を受賞していますが、その時に朝日新聞はどんな記事にしたのでしょうねぇ…

引っ張り出した本を積み上げているので、つい読んでしまい、帯広までの列車で一冊読んでしまいました。その中からいくつか紹介することになりそうです。
主旨

マッサンとベーマー

  • 2014.10.11 Saturday
  • 05:49
普段JRに乗らない方には無縁の雑誌かもしれませんが、車内誌の「THE JR Hokkaido」にはなかなか面白い特集があります。以前創成川特集の中でちらりと取りあげていただいたことがありましたが、その時にライターの北室かず子さんが取材に見えられました。四国のご出身ということやら、生家が代々医者であることやら、あれこれ話しているうちに、ルイス・ベーマーのことに話が飛びました。なんでそこに飛んだのか記憶にないのですが、北室さんが出した『赤れんが庁舎物語』からだったかな?
我が国の果樹や野菜、様々な作物などは、開拓使の植物培養方であったルイス・ベーマーによるものがほとんどなのに、その功績が忘れ去られているのはけしからんと、いつもの話で盛り上がったのです。そのことをしっかりと心に留めていただいていたのですね。10月の車内誌に、なんとマッサンと共に取りあげていたのです!先月末に送っていただき、ページをめくっていくと、なんでマッサンとベーマーがセットになっているのかな?と、思ってしまいます。ベーマーのことなんか知らない方には、(?_?)になってしまうことでしょう。さすが北室さん、少し強引に、でもうまーく繋げてくれたのです。

なので今日は一気の公開に踏み切りました。マッサンブームに浮かれることなく、その時代背景や余市の成り立ちにも思いをはせていただきたいものです。世の中三連休の方も多いことでしょう。じっくりと読んでみて下さい。ベーマーのことは、またしっかりと紹介しようと思います。
ページ1

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ページ3

ページ4

ページ5

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Bobby Womack 追悼

  • 2014.06.30 Monday
  • 05:53
私が最も好きなシンガーである ボビー ウーマック が亡くなりました。享年70歳とは…

ハフポスト
 (The Huffington Post 日本版より)

彼のことを知ったのは70年代半ば。サムクックが好きだったけど、ちょっと軽いなぁ…という感じを持っていた時に、サムのバックバンド(Bobby Womack & The Valentinos)から独立したボビーのことを知りました。
Valentinos

70年代から80年代にかけて、精力的にアルバムを発表していたので、一気にすべてのレコードを集めてしまい、今でもよく聴いています。実に乗りがよく、格好いい歌が多いのです。今ではこれらのレコードのCD版があるので、さらに聴きやすくなりましたが、晩年大御所的になってからのものより、脂の乗りきったこの時代のものがやっぱりいいなぁ。
Safty_Zone
(「Safety Zone」(1976年))

まさに「ソウルレジェンド」として、ソウルの本流を築いてきたボビーの死により、ソウルミュージックそのものが消えていくような気がして、しんみりと聴いてしまいました。

ガルデナとの別れ

  • 2014.05.08 Thursday
  • 05:58
私は物持ちがいいので、気に入ったものはうんと長く使います。毎朝果物をむいているペティナイフは、学生の時に五番館で買ったヘンケル製で、まもなく40年になりそう。ずいぶんと細身になってしまいました。今のガラケーも今年で10年目。携帯史上最薄のP705iμなので、ほかのものに変える気がしません。

そんな中で、とうとうお別れしたものがありました。こんなもの…と恐縮ですが、ガルデナのホースジョイントです。植木屋時代ですから、今から30年以上前。仕事ではいつもホースを持ち歩いて、灌水やら掃除やら、セメント練りやらとよく使うのですが、そのたびに針金とペンチを持ち歩き、ホースをぎりぎりと金物のホース口に縛らなければなりませんでした。でもホースがねじれて水圧が上がると、いつもプシューとホースがはずれて水が噴き出す始末。それを繰り返すのですから本当に面倒でした。そんな時に、当時の札幌興農園で見つけたのがガルデナのシステムだったのです。

早速いくつかのセットを買い求め、会社で使うホースに取り付けて、実に快適に使えるようになりました。お客さんのうちにもすべてこれを取り付けてしまい、みなさんにも喜ばれたものです。
我が家で使っていたものは、結婚した頃からのものであればもう30年ですか。とうとう昨年の秋に、プラスチックが劣化してしまい、水がもれるようになったのです。困ってすぐにホー○○○に行くとガルデナはなくてK社製ばかり。でもこれがそのまま使えるので、ホースエンドだけ買ってきました。そして雪解け後早速使おうと水を出したところ、今度は蛇口にねじ込んだジョイントがひび割れて、水が噴き出してしまいました。同じ寿命だったのですねぇ。
ガルディナ
左にあるのは、今はもう発売されていない旧型の万能ジョイント。これは年に1,2度しか出番がないので、まだ新品同様です。これが出回り始めた時代は、まだまだオリジナリティーよりも、似たようなものをいかに安く大量に作るかが日本のもの作りだったのでしょう。知らぬ間にガルデナ製品は身近なところからなくなり、互換性のある安価なK社製品しかなくなっていたのです。今回は急いでいたので探すヒマがありませんでしたが、いずれまた復活させたいと思っています。
なので、このジョイントはまだ捨てられずに、事務所に飾ってあるのです。

70年代グラフィティ(その2)

  • 2014.03.15 Saturday
  • 05:24
昨日の夜は荒れ模様が予感される強風と、雪もちらついていましたが、今朝は風も止み、穏やかな夜明けを迎えようとしています。今日はこれから、先日亡くなった義父の納骨に函館へ。息子も一緒に行くので、3人で車で行くことにしました。少し運転代わってもらえるから楽になるのか、心配でハラハラすることになるのか…

明日も更新できそうにないので、先日のマッチコレクションの残りをアップさせて頂きます。実はまだたくさんあるけれど、私自身の思い入れがあるのはこの程度なので、ここまでにしておきましょう。こんな形で公表しておけば、どこか一つくらい、懐かしく思われるかとかすかな希望を持ちながら… これでようやく70年代の回顧も終わりになります。最後の一つは北大周辺の店。
北大前
北大病院前の「まこと屋」は典型的な大衆食堂で、ねずみ男そっくりの大将が威勢よく野菜炒めやチャーハンを作ってくれました。中でも感激したのがホッケの開き。干物なんてアジやカマスくらいしか知らなかったので、こんな巨大な大きさでこんなに安くていいのかな?と大感激した記憶があります。

「亭北軒」と言ってもどこの店だか分からないけれど、モツラと言えば誰もが分かる店。のれんに書かれたモツラーメンが詰められて、自然に店の名前になってしまいました。北15条の旧電車通角にあった小さな店で、恵迪寮生の御用達だったので、こ汚い風采の酔っ払いに満ちていた店でした。やたら分厚いガラスのコップなので、実質5勺もなかったような…

「みどりや」は北12条角の小さな食堂。夫婦で丁寧な作りのとんかつ定食がお奨めの店。この近くには前後1年以上住んでいたので、よく行きました。夕方行くと、よく高校生の娘さんが手伝っていて、ほんわかしていい雰囲気でした。

「唖面堂」(あめんどう)は、13条門の前にあったちっちゃなジャズ喫茶。友人がよくバイトしていたこともあり、寡黙なマスターとウマが合ったので、ジャズ喫茶では一番通った店です。10年くらい前に、一度常連で集まって楽しく飲んだことがありましたが、その数年後に急逝されてしまい、こういう機会にはなにが何でも会っておかないとなぁと、通夜で話したことを思い出します。

「ハングリーホース」も懐かしい店。北18条の地下鉄前に今もある小さなビルで、店に通ったというより、このビル掃除のバイトを卒業後もしばらくやっていました。隣の美容室のママに、若い子の試験台になってくれない?というので、しばらくカットはタダでやってもらい、その後も店を閉めるまで通っていました。このマスターはその後転職し、水産関係の業界新聞で働いている時に出会ってびっくりした記憶があります。
町中
そのほかで特に懐かしいのは「ハイチ」。大通の西14丁目の角にあったハイチ風の建物なので、よく目立ちました。独特の風味のあるハイチコーヒーと、町中のエアポケットのような静かな雰囲気が好きで、ここにもよく通ったなぁ。マミフラワーと一緒だったような記憶が。

「DUC」(デュック)はもう少し後の80年代に入ってからの店で、なくなってしまった館の向かいにありました。Akikoさんはアメリカ人と結婚してシアトルに渡り、今でも時々子どもを連れて遊びに来ます。

昔はこんな隠れ家のような小さな店が、町中にはあちこちにあったんだなぁと、しみじみと思ってしまいました。喫茶店文化がほとんど消え失せようとしている時代、あの居心地のいい体の収まり具合、ゆったりと過ぎていく時間、そして個性のあるコーヒーやお茶の香り。今のスタバでは、絶対に感じることのできないものだったんですね。

※(その1)はこちらです。

70年代グラフィティ(その1)

  • 2014.03.09 Sunday
  • 06:06
正月に発掘したものの一つに、マッチのコレクションがありました。わたしは全くタバコを吸わなかったので、マッチなんかいらないはずですが、当時は喫茶店でも飲み屋でも、レジの所に必ずマッチが置いてあり、名刺代わりについ手に取ってしまったものでした。そんなマッチが菓子箱に一つぎっしりと詰まっていたので、ちょっと危険なこともあり、中身をバラして整理してしまいました。
先日紹介したエルフィンランドの20周年記念誌『妖精時代』の中には、開店して間もない1976年当時の、南2〜3条西5丁目界隈のマップがありました。それと合わせると当時の町中の店がよく分かります。
界隈図

まだ学生の身分では、わざわざ町に飲みに行くということもほとんどなかったけれど、一浪して入ったおかげで現役組の友人たちとのつきあいが広がっていったので、連れ立って飲みに行くことはありました。その中ではやはり「MOJO」がダントツにいい店で、ケイスケさんのにこやかな顔が忘れられません。気の利いた音楽を聴きながら安く飲める店として、圧倒的な存在感を持っており、ここの常連から次々と店を出していった原点の存在だったようです。
もう一つの有名な店「トレーラー」の方は行った記憶がありませんでしたが、新しく出し直した?「蔵生地」の方にはよく行ってました。こちらのテッチャンもひげを生やしていましたが、当時はみんな鼻ひげ生やしていたような…
マッチ1
もう一つ懐かしい店が「Midori」。南4西1の南向きの角にあった細長くて狭い二階建ての店で、洋さんの映像の盟友であったASO氏の店。奥さんは皮工芸やアレンジメントなどなんでもやれる人で、このマッチもそんな手作り品でした。私のアレンジメントの先生です〜
はちみつぱいでベースを弾いていた和田博巳さんが、札幌に戻って開いた店が「和田珈琲店」。南3条通に面した日当たりのいい白亜の店は、薄暗いところで紫煙もくもくジャズを聴くというスタイルとは正反対で、タバコ嫌いの私には天国のような店でした。開店した76年はまだ研究生で学校にいたこともあり、圃場で切ってきた花をSolexに縛り付け、いつも届けてました。
ほそださんの「TOYS」は、ファイブスイートボーイズのたまり場で、『すいーとたいむず』の事務局のあった店。「犬狼都市」は飲み友達の大五郎(女性)の行きつけの店で、僕はほとんど行ってないかも。

「JAMAICA」は東映の地下にあったJAZZ屋さんのたまり場。ここよりも「B♭」(ビーフラット)の方が好きだったけど、ピエロのマッチがありませんでした。こちらの方の店にはそんなに行かなかったけれど、懐かしく思う方もいるかもしれないので。
マッチ2

※(その2)はこちらです。

エルフィンランドの時代(その7)〜妖精時代2〜

  • 2014.03.02 Sunday
  • 05:49
エルフィンランドが20年を迎えた94年の前後は、私にとっても日本にとっても大変動のあった時代でした。92年には、40歳になる直前に留萌の現場で倒れ、不覚にも入院する羽目に。過労で風邪をこじらせ、薬で抑え込もうとして肝臓がパンク、おまけに胃カメラのんで見たら胃の中が穴だらけという状態で、前厄通りの結果になりました。
翌93年は自民党政権が崩壊して細川内閣が誕生、大冷害によって米が全くできず、タイ米を輸入した年でした。この冷害を引き起こした強いヤマセ(東風)によって、大島の調査班が島の裏側から帰れなくなり、救難船を仕立ててぎりぎりで救出に成功したこともありました。なんだかこのあたりから、一年中目一杯忙しくなっていったように思います。

そんな中での20年だったので、自分的には息抜きというか、ふと立ち止まるいい機会だったのかもしれません。20年目は4月6日で、その日は静かに乾杯しただけ。せっかくなので思い切りにぎやかにやろうと、裏返して6月4日に盤渓スキー場を借り切って、野外のパーティーをやることにしました。
20年チラシ
当日はとても肌寒い天気で、思い切り酒をあおりながら、どんちゃん騒ぎのにぎやかなパーティーでした。この時も実行委員長としててんてこ舞い。それでもあのエルフィンにしては、小綺麗な飲み方だったかもしれません。酔っぱらいたちのいい顔が並んでいました。最前列で足を伸ばしているのが私です。
集合写真

記念誌の方はこの時にはとうとう間に合わず、完成したのが7月の末に。20年を振り返りながらの記念誌づくりは、私なりに楽しむことができたと思います。記念誌には、立派な金色の腰巻きまで付いていました。
腰巻き1

腰巻き2

編集後記には、「20年間の年譜づくりは、改めて自分のスタンスを確認する大変な作業であった。それにしても94年は、愛猫『なな』の18歳での死によって忘れられないものとなってしまった。」とありました。私は建設コンサルタントとして、40代は三度も過労で倒れながらも全力で駆け抜けた10年であり、最も充実していた時期といえるでしょう。
洋さんも飲み屋から本来の映像の道を進み始め、キノに移行していく時期です。それぞれの道を、踏み出すきっかけになったのかもしれません。そんな飲み屋があったことを、長々と紹介してしまいましたが、お付き合いありがとうございました〜

あとがき

エルフィンランドの時代(その6)〜妖精時代1〜

  • 2014.02.28 Friday
  • 05:48
今日で2月も終わり。そろそろ暖かくなってきたので、70〜80年代グラフィティもそろそろ終わりにしなければ。札幌に来て40年余りのうち、前半の20年はある意味激浪に翻弄されながらも、必死に生き抜いていたように思います。引っ越しもたくさんやりましたが、職を転々としながらも、少しでも自分の目指すものに近づこうと、もがき続けた20年だったかもしれません。

その中で、エルフィンランドという飲み屋の存在は、たくさんの友人との出合いや、酒をあおりつつかわした議論の数々によって、私のヤワな頭も少しずつしっかりしていったように思います。その店が20周年を迎えるにあたり、何かしようかとの飲み話の中で、ただパーティーやるよりも何か冊子にまとめようということになりました。常連だということより、‘まめな’性格が災いし、編集長をやることになってしまいました。半年以上の苦闘の末、20周年には間に合いませんでしたが、8月になってようやく完成。200ページにもなる立派な本になってしまいました。

   妖精時代

なにせ常連には、コピーライターやデザイナーやあらゆる職種のプロがいるので、当然の如く本格的になっていきます。この本が1,200円でできたというのもすごかった。

道新

20年間に関わった人達にそれぞれのジャンルで書いてもらうことになり、65人もの執筆陣。今でもこの本は時代の記録としてとても貴重なものになっていると思います。
 目次1  目次2
私の前書きにあるように、エルフィンという「場」があり続けたこと、そこに立ち寄る一人一人が、みんなそれぞれの道を模索しながら、お互いにシンクロしつつ刺激を受け続けたことが、この「場」を魅力ある空間に維持し続けたことになったのでしょう。
はじめに1

はじめに2
店は東映仲町から南3条に移転し、おんぼろの店がすっかり小綺麗になったとしても、まだ新鮮さを失わないでたくさんの刺激を発信し続けていた20周年だったのです。(つづく)

エルフィンランドの時代(その5)〜ブルース編〜

  • 2014.02.23 Sunday
  • 05:26
この時代で、もう一つ忘れられない動きがブルースです。エルフィンランドが4月に開店した74年の暮れに、もう一つ今も流れが続く大切な店『神経質な鶏』がオープンしています。場所は北海学園裏の住宅地のど真ん中で、私の恩師がすぐ近くの水車町だったこともあり、大学を出たあたりからよく行くことになりました。前の道路は学園で行き止まりだし、幅が広かったこともあって、ブルースの店というより、オープンカフェのような雰囲気でした。
マッチ
当時の私の音楽傾向はジャズボーカルがメインで、ビリーホリデーやエラフィッツなんかではなく、もっとR&Bに寄ったダイナ・ワシントンが一番の好みでした。なのでブルースには、すんなり入って行けたのかもしれません。当時はもちろんレコードの時代で、札幌では気の効いた洋盤は全然手に入らないから、松山との往復ついでに東京や神戸の専門店で仕入れたレコードを、重たい思いをして集めていました。ダイナはもちろんのこと、その一派のレコードコレクションも、今では貴重なのかもしれません。

神経質な鶏は、開店1周年を記念して12月に「ブルース収穫祭」を行っています。これは以降年末の恒例行事として定着していきました。ここでメインをやった地元バンドの「スカイドッグブルースバンド」のメンバーとは、いまだにつきあいが続く仲に。毎度めちゃくちゃ酒を飲み、にぎやかな時間を過ごしていました。
第1回収穫祭

鶏をやっていた梶原さんは、店の経営がうまいというか、次々と新しい基軸を求めた店を出していきます。町中に「GEE」や「BESSIE」を出店し、良質のボーカルが聞けるこぢんまりしたいい店で、よく通いました。

収穫祭のチラシはたくさんありますが、10周年のものが当時のバンドがよく分かるので、備忘録的にアップしておくことにします。初期の収穫祭は地元バンドの発表会的なイベントでしたが、だんだんと本場のブルースマンを呼んで来るようになり、これが来ないと一年が終わらないというイベントになっていくのです。
第10回収穫祭1
第10回収穫祭2

つい先日も、円山でばったり梶原さんに出会ったばかり。たまにはうちにも飲みに来いよ〜と言われてしまいました。最近はほとんど外で飲まなくなってしまってますが、いい音楽と楽しい酒は、やっぱり切らしてはいけないですねぇ…(つづく)

2月下旬に突入です〜

  • 2014.02.21 Friday
  • 06:05
2月は、本当にあっという間に逃げていきます。今日から下旬とはいえ、たった8日しかないので、すぐに終わってしまいそうです〜 いろいろ賑わせているオリンピックも、そろそろ最終盤。たくさんのドラマがありましたが、こんなアホな会長の下では選手もやりきれないでしょうね。

30年以上も前のことをほじくり出しているうちに、おぼろげな記憶が少しずつ鮮明になってきました。コメントへの回答に、ちょっと追加の情報を。80年の9月に、芝木先生は東京で公演を行っています。その時は裏方というか、記録係でカメラ片手にうろうろしていました。この時のポジはたくさん残っているはずですが、肝心のリーフレットが見当たりませんでした…
札幌でも指導していただいていた五木田勲さん(右端)が、東京の若手ダンサーを選りすぐり、とても素敵なステージに仕上がっていました。この時の先生は、キャリアの集大成ともいえる渾身の演技だったと思います。
東京公演

と、これで終わるのも味気ないので、本日の誕生花を見てみるとネモフィラ(Nemophila menziesii)でした。道内では春播きの一年草ですが、本州では秋播きなので、この日付でもおかしくはないのでしょう。
ネモフィラ
まるでオオイヌノフグリをさらに大きくしたような花ですが、アメリカ原産のか弱い一年草。この間まではハゼリソウ科、これからはムラサキ科に変わってしまいます。本州の国営公園では、これの大花壇を作るのが流行っており、ひたち海浜公園の花壇は有名です。昨年行って来た福岡の海の中道国営公園にも、結構大きな花壇が作られていましたが、色が淡いブルーなので、少しインパクトが弱く感じます。天気がよければもっときれいに見えたのでしょうが。
海の中道
花言葉には、その草姿らしい「可憐」や「私はあなたを許す」なんかはいいとして、「愛国心」なんてのまであるので、そのうちシンゾーによって、全国の学校花壇はネモフィラに埋め尽くされかねませんねぇ…

エルフィンランドの時代(その4)〜モダンダンス編〜

  • 2014.02.20 Thursday
  • 07:05
今日はついにモダンダンス編。北方舞踏派が小樽にやってきたころ、道内の舞踊界もいろいろと動き始めていました。当時から活発に活動していた能藤伶子さんからの呼びかけに応じて、中島洋、国松明日香、麻生知宏など多彩な活動家や芸術家たちが参加して「近松の女 お初」の公演を75年と76年に行っています。(このチラシが見つかりませんでした…)
私の場合は、うーーんちょっと違うかなぁ、もう少し舞踏寄りかなぁと、土方巽とも活動していた若松美黄(みき)に師事した芝木厚子先生のところに行くことになりました。79年頃のことだったかと思います。
私のような体の硬い者が、モダンダンスのレッスンをこなすというのはかなり大変で、それでも日々特訓しながら、とうとう79年12月2日には初舞台を迎えることになってしまいました。(この年は、まだ豊平公園の緑のセンターにいた時です。)
79年公演
写真は何枚か持っているはずですが、そちらの箱はまだ発掘していないので、プログラムしかありません。無我夢中だったので、舞台のことは全く記憶にも残っていませんが…(^。^;;

その次は、82年2月27日の公演ですが、このくらいになると体も動いてくるし、ある程度周りを見渡す余裕もありましたので、割と記憶に残っています。その時の写真は、次の年の公演のプログラムに使われています。
83年公演

私が舞台に立ったのはこの二回だけで、レッスンに通ったのは3年余りだったかと。83年以降は裏方に回っていました。どうしても女性だけだし、車を持ってある程度自由に動ける立場でしたから。83年の公演は、山下洋介トリオのドラマーの森山さんが生出演。空港への送迎や仕込みなど、裏方の方もてんてこ舞いでしたが、とてもユニークで素敵な公演でした。

83年チラシ
今でも歩いていると、後ろから「背中!!」とか、「足!!」とか鋭い声が飛んでくるような気がして、思わず背筋を伸ばしてしまいます。歩き方は一番厳しく鍛えられました。モデルさんもよくレッスンに来てましたから。こういうことは死ぬまで忘れないのでしょうね。

なんでこういうことになったのか、今から思えば不思議ですが、あの頃はとにかくなんでも挑戦してみることが大前提でした。傍観者でいてはいけない。知ったかぶりはもってのほか。体でぶつかってみて初めて分かるものがあると固く信じていたのです。ちょうど30歳になった頃のことでした。(つづく)

エルフィンランドの時代(その3)〜舞踏編〜

  • 2014.02.12 Wednesday
  • 05:21
このブログにはカウンターが付いていませんが、一応アクセスログを確認することができます。先月末には、そろそろだなぁ…と思っていたのですが、身内に不幸がありバタバタになってしまいました。ふと、どうだったかなと確認してみたら、2月2日の11時10分頃に300,000アクセスに達していたようです。
このブログを始めたのが2012年4月24日なので、足かけ650日で30万アクセスにもなったということ。こんなブログに毎度おつきあいいただき、感謝の言葉もありません。こんな感じでしか続けて行くことはできませんが、これからもどうかよろしくお願いいたします。

先日いただいたコメントの返事になりますが、70年代の暗黒舞踏のお話を。
土方巽(ひじかたたつみ)が始めたといわれる暗黒舞踏は、大野一雄や笠井叡(かさいあきら)、田中泯、麿赤兒(まろあかじ)の大駱駝館などに幅を広げつつ、さらなる分派として天児牛大(あまがつうしお)が始めた山海塾と共に、北を目指したのがビショップ山田の北方舞踏派。1975(S50)年に山形県鶴岡で活動を初め、結成記念公演「塩首」の公演が行われています。
塩首

この時に札幌でもエルフィンが主催で公演をやった縁で、小樽に本拠を移すことになり、みんなで手伝いながら海猫屋を造っていきました。そして翌76年には、鶴岡と札幌で二回目の公演として「酢爪坂 -闇の手本-」の公演が行われています。この時から、飲み友達だったかっちゃんが北方舞踏派に参加しています。
酢爪坂

海猫屋は、一階は喫茶と飲み屋、二階には立派な練習場がありました。しっかりした軟石造の倉庫の活用例として、以降運河周辺のトレンドになっていったのです。
募集

北方舞踏派が何年間ここで活動していたのか記憶もありませんが、パートナーの雪雄子さんを中心にした女性たちの鈴蘭党も何度か公演を行っています。
鈴蘭党

その後の北方舞踏派の消息は、ネットで調べてみてもどうもはっきりとわかりませんでした。でも昨年、ビショップ山田は慶応大学で舞踏講座をやっているし、雪雄子さんも活動を継続しているようなので、さすがだなぁと改めて思いました。新宿で北方舞踏派が公演をしたのかは不明ですが、83年に全国縦断ツアーとあるので、その時かもしれません。(つづく)

エルフィンランドの時代 (その2)

  • 2014.02.07 Friday
  • 05:44
エルフィンランドが開店した70年代は、ガキのアイドルが幅を効かせている今とは違い、もっともっと過激で猥雑な時代でした。必然的に店でかかっている音楽や、壁に貼られている芝屋、舞踏、映像やコンサートなどの情報も大変にぎやかで、しかもただ観客でいるのではなく、コンサートの裏方や芝居の仕込み、あるいは直接劇団に入ってしまうものもたくさんいたように思います。今日はチラシの残っている70年代の音楽シーンを振り返ってみましょう。

エルフィン開店一年目(1975.4.1)にあったカルメンマキのコンサート。このあと10日間もススキノのディスコ・55に出演していたので、ステージの合間によく来店して酔っ払ってました。うぶな私はとても近寄れなかったなぁ。
カルメンマキ

京都の勇造さんを初めて呼んだのが、2年目の1976年5月6日。アコースティックのええブルースを聴かせてくれる勇造さんのとりこになってしまいました。去年40周年記念の2枚組『蜂鳥よブンブン飛べ』が出て、いつも車で聴いてます〜
豊田勇造

あの頃の淺川マキの人気はすごかった。私もLPを何枚も持っていますが、これが札幌で初めてのコンサートではなかったかと(1976.11.5)。エルフィンで呼んだわけではありませんが、飲み友達から手が足りないので手伝ってくれと、会場整理やら裏方をやっていました。開演前から道新ホールに上がる階段に、下からぎっしりと詰めかけたファンが並んでいて、その整理をやっていたのですが、なんとその中にかみさんがいたというのであとでびっくり…(^。^;;
淺川マキ

初期のエルフィンでは、はっぴいえんどやディラン(セカンド)、パンタ、上田正樹、ジャックス、荒井由実などが大人気。中でもファンの多かった大塚まさじは、その後何度も呼んでいるはずです。
大塚まさじ

極めつけは、ミルクの前田さんが代表で行われた『ツーアウト・フルベースコンサート』。3〜4日間ぶっ続けでたくさんのバンドが出演して盛り上がってました。基本的には大谷会館ホールですが、78年の最終日は中島公園の野外でやっています。この時には勇造さんも来ており、お盆時期なのでめちゃ暑かった記憶がありますねぇ。ロック、カントリー、ブルースなどごった煮の盛りだくさんなコンサート。こんな感じで、開店5年間はにぎやかに過ぎていきました〜 (つづく)
ツーアウトフルベース

エルフィンランドの時代(その1)

  • 2014.02.05 Wednesday
  • 05:49
今日から雪まつりだそうですが、この寒さなら雪像が融けたなんて話題とは無縁でしょう。アメダスを見ると先ほど−12.5℃になっているので、このあたりでは−15℃くらいになっているでしょうか。新聞配達の方達の苦労が偲ばれます。

この時期には、さすがに植物ネタが少なくなってしまうので、しばしガラクタ箱をひっくり返して出てきたものを、今年も紹介していくことにしましょう。
その昔エルフィンランドという飲み屋が、南2条西5丁目の仲通、のちには‘オヨヨ通り’なんてへんてこな名前で呼ばれた通りがありました。そこには東映仲町という恐ろしくおんぼろな飲み屋街があり、狭い路地の両側に傾きかけた木造がぎっちりと詰まっていて、しかも突き当たりの細い路地を抜けると、当時あった東映劇場の裏に出られるという猥雑さ。
東映仲町
(昼間の写真しかありませんが、このほうがよく雰囲気が分かります。 1980.7.29)

大学3年になったばかりの1974年4月初め、この店を始めた三人のうち一人を知っていたので、開店三日目くらいに恐る恐る行ったのです。路地にはうずたかく雪が残り、店に入るのに雪の階段を下り、引き戸をガタピシ開けて入った店を見て唖然。そんな店でした。‘くじら’‘とこ’‘YO’の三人が始めた店で、この時が中島洋さんとの初めての出会いだったのです。
カウンター
(開店時には黒板のところになぜか牛の頭蓋骨があり、よく頭をぶつけた。 1980.9.11)

まだ学生だったので、そんなに飲み屋に入りびたっていたわけではないけれど、でもよく行きました。ボトルは初めのうちはホワイトで、そのうちゴードーの25度になり、ロックでがんがん飲んでました。いろいろあって息詰まるような高校生活、福岡での浪人生活、学生運動に明け暮れた二年間の教養時代、そしてようやく学部に移行したばかり。掛け金が弾け飛んだように酒を飲み、そしてたくさんの学生以外の飲み友達ができました。この店でのたくさんの議論やケンカや出合いがなかったら、フツーのサラリーマンになっていたかもしれません。確かにここでいろんな生き方を知ることにより、自分がどう進んでいけばいいのか、死ぬほど考えていたように思います。間違いなく、私の人生を変えてしまった飲み屋といえるでしょう。久しぶりに当時の写真を見ると、やっぱり懐かしいなぁ。
席
(この頃はランチ営業をしていたので、昼間の写真です。 1980.9.11)

エルフィンのことを書き始めれば、キリがないくらいの話題がありますので、ぼちぼちと続けて行くことにしましょう。正月に掘り出したものにマッチのコレクションが。タバコも吸わないのに、何となく集めていたものがカンカンに一箱ありました。それもぼちぼちと。
マッチ
右の二つは、南3条に移転したあとのものですが、左のマッチは、開店直後に友人が手作りで20個くらい作ったレアものの一つです。(つづく)

すいーとたいむずの終焉

  • 2014.01.26 Sunday
  • 05:44
先日発掘した「すいーとたいむず」のつづきです。
全部で14号分あるし、手書き文字なのでとても全部は読み切れませんが、一通りどんな記事があったのか、さらっと目を通してみました。元文学青年の黒川さんの連載「飲み屋でおしるこを語るとき」は人気がありました。音楽好きの小野くん、イベント好きのまっちゃんも精力的に書いてます。細田さんのお菓子作りの記事は、とても役に立つとの定評がありました。それに比べて私のはどう見ても雑文ばかり・・・かなり自己嫌悪に陥ってしまいました。まぁ若さのいたりということで。
一つだけおっと思ったのが、『青柳庵』の由来を書いてあるもの。私はずっと、札幌で三つ目に住んだ北13条の部屋にいるときのことだと思っていたら、その前の南12条東屯田通のボロアパート時代に名付けていたのですね。
最終号
(広告もまた懐かしく、小樽の海猫屋、前田さんの店ミルク。学生時代の中島みゆきが入り浸り、
歌にもうたわれた店です。そしててっちゃんの店蔵生地)
つづき

これを出している時には、何と六つ目の住処となった、藻岩山麓界川のてっぺんに住んでいました。4年間に5回も引っ越していたのですから、確かに落ち着きがありませんが、住むところにはこだわろうと思っていたのでしょう。この一軒家は、林一つ隔てた隣に住んでいた北大医学部の平井先生からの紹介で、この頃会員だった「藻岩山を守る会」の会長だったのです。一人では家賃が払えないので、同期のTと二人で、その後一年先輩のIさんを加えて三人で住んでいました。ここのことはそのうちまた紹介したいくらい、思い出の多い場所でした。

その年の元旦の新聞の特集号にも、また取り上げられています。
朝日新聞
  (朝日新聞の元旦特集の中から  1978.1.1)

この年の6月に、最終号となる通巻14号を出して、すいーとたいむずは消えていきました。私がリーダーだったわけではありませんが、印刷の手配や郊外への配達などはすべて私がやっていたので、仕事が忙しくなるにつれ、そんな暇もなくなってしまったことと、ちょうどいい潮時でもあったのです。
今こうやって見直してみると、70年代当時のスイーツ事情はもちろんのこと、飲み屋や喫茶店、音楽や芝居、映画などの事情も実によく分かります。私が持っているものがこの世で唯一のセットなので、国立図書館にでも納めようかなぁ…(^。^;;

すいーとたいむず

  • 2014.01.22 Wednesday
  • 05:50
とうとう掘り出してしまいました。私のガラクタ箱の中で最も強烈で甘美なもの、それがこの『すいーとたいむず』です。このまか不思議なミニコミ誌は、1977(S52)年3月の創刊準備号から、1978(S53)年5・6月合併号まで、計14号が世の中に出ていきました。普通の音楽系とかタウン系のミニコミは珍しくなかったけれど、むさい男が飲み屋に5人集まり、○○のチーズケーキはレアがいいけど、△△のはカスタードの方がいいね!!とかいいながら、グビグビお酒を飲んでいるのだから、相当な変態集団と思われていたはずです。
 すいーとたいむず1
  (1977年4月の創刊号の表紙。この号は6ページでした。)

ちょうどこの時には、大学を離れて就職もせず、中古の軽バンを親に買ってもらって、自営業を始めたばかり。すでに何軒か庭の管理をやっていたのと、ある先輩から庭の管理や作りかけの物件などを引き継いで、細々と食べていました。ちょうど道新の園芸欄や園芸ガイド等、原稿書きも多かったので、なんとかやっていけたのですね。親元から遠く離れていたのでできたのでしょうが、こんな無鉄砲な生き方をするなんて、今じゃとても考えられないので、子供のやっていることを全然平気で見ていられるのです…

それにしても結構センセーショナルなミニコミで、たくさんの喫茶店や飲み屋などに置いていただき、広告もそれなりに付いてきました。初めは千部くらい、ピーク時には二千部くらい刷っていたように思います。札幌だけでなく、小樽にも毎月配達に走っていたので、40〜50軒ほどはあったでしょうか。多い時には10〜12ページもの厚みがあり、よくこんな汚い手書きの文章を読んでいただいたものだと、今さらながら感謝したい気持ちになりました。
  細田さん
最後のページは、最年長ほそださんのお菓子コーナー。洋菓子職人だったので、事務局のあったほそださんの店「TOYS」は入りびたっていました。5人の個性が全く違っていたので、書いている内容もバラバラ、それが面白かったのでしょうか。早速新聞にでかでかと掲載されてしまいました。
読売新聞
これを見ると、左から二人目のKさんだけがひげを生やしていなくて、右の3人は鼻ひげ。当時の私はソルジェニツィンひげと呼ばれた額縁ひげだったのです。Toy'sでコーヒーを飲んでいた時に、カウンターの中からほそださんが、りゅうちょっと!と声をかけられた時にパシャリ。あとでその写真を焼いてくれたものが残っています。間もなく26歳になろうとする若者が、一体その時何を考えていたものなのか、この写真からはうかがい知れないのです。

  自画像
  (ほそださんによって残された、セピア色の自画像  1978.5.22 TOYSにて)

(つづく)

切り抜きの謎

  • 2013.12.16 Monday
  • 06:09
新聞の切り抜きを始めてから、35年ほどになります。最近はよほど気になるものだけにしているし、すぐにpdfファイルにしているので、それほどかさばらなくなりましたが、昔のものはジャンルに分けて封筒やファイルに入れ、キャビネット一杯に溜まっています。全然見ないジャンルのものもありますが、緑関係のものは時折ひっくり返し、必要なものを使っては、やはりデータ化しているのですが、なかなか興味深いものが出てきて結構面白いのです。
先日の国際芸術祭のワークショップでは、1988年の安藤忠雄氏による「都市に必要な隙間」という記事を参考資料として配付しました。今の札幌の町中で行われようとしている再開発に対し、実に鋭い指摘がこの時にされているのです。
北3条広場の整備に当たっている三井不動産の担当者には、当時の会長であった江戸英雄氏の「都会に緑を」という1987年の記事を送ったところ、入社した時の会長なので、とても懐かしいです。いい空間になるようにがんばります〜とメールが来ました。

きりぬき

なんでもネットからの情報に頼ってしまう今の人達にとっては、こんな切り抜きなんて作業は馬鹿らしくて、やる人は絶対にいないでしょう。ネット配信の記事から「切り抜き」も確かにできるでしょうが、切り抜きをしながらあれこれ考える作業に、とても大きな意味があったと思っています。自分で切り抜いた記事は、かなり時間が経ってからでも、必ず頭の隅に残っていて、いろいろと仕事の方向性で悩んでいる時なんか、これを見直しているうちに、引っかかっていたものがほぐれることが多々ありました。

そんな切り抜きの中には、一体何でこんな記事を切り抜いたんだろう??と思われるものも出てきます。これなんか、いくら思い出そうとしても、さっぱり…(^。^;;
北喜常

月形町北農場にある北喜常(きたきつね)とは、コテージガーデン旧店舗の、国道挟んだ向かいにある喫茶店。でもこの日付は1988年8月31日なので、梅木さんに出会う10年も前のことです。月形にはまだ行ったこともないのに、一体何が気になってこれを切り抜いたものだか?
そんな不思議なこともあるので、時々ガラクタ箱をひっくり返しているのです〜

ダブルファンタジー

  • 2013.12.10 Tuesday
  • 06:17
その昔、『写楽』(しゃがく)という雑誌がありました。30年以上も昔のことです。そんなにカメラに凝っていたわけではなかったけれど、気になる記事を見つけると買っていたので、今でも数冊が手元に残っています。その中にこんな表紙の号がありました。1981年1月号となっています。
写楽
ここに写っているジョン・レノンが射殺されたのは、1980年12月8日(日本時間では9日)でした。この1月号の発売は12月になってからですから、この雑誌を買ったのは数日前のことです。何か予感があったのでしょうね…当時はまだ植木屋時代で、12月初めは冬囲いの真っ最中、確か宮の森の豪邸の冬囲いをやっていたと思います。いつも飯を食べていた裏参道の食堂で、定食を食べながら見ていたテレビから、レノンが亡くなったことを知り、箸を落とすほどびっくりしてしまいました。

ダブルファンタジー
音楽活動から完全に遠ざかり、主夫(ハウスハズバンド)として炊事やショーンの育児をやってきた5年の沈黙の後、満を持して「ダブルファンタジー」の製作を始めていた時期でした。アルバムの写真を篠山紀信氏に依頼し、レコーディングの合間に撮されたもののレポートですが、アルバムに使われた写真が、折り込みの付録に付いている、今となっては超レアものの雑誌になってしまいました。
レノン
それにしても、このような‘予感’というか、‘胸騒ぎ’が当たってしまうと、かなり落ち込んでしまいます。今読み返しても、このアルバムを出した後どれほどやりたいことがあったのか、今でも虚しさが募るばかりです。


なお「ダブルファンタジー」とは、このレコーディングの前に家族で行ったバミューダ植物園で、ちょうど咲いていたフリージアの八重咲き(ダブル)品種‘ファンタジー’だったということを突き止め、柳生真吾さんが立ち上げたプロジェクトで、その品種を再現することになりました。(詳しくは、このページのあらすじをご覧になって下さい。)
もちろんこの雑誌のコピー一式を、真吾さんに送ったことはいうまでもありません。みんなにとって、まさにファンタジックな取り組みになりました。
  ファンタジー
  (「朝日園芸百科 12 秋植え主要球根」 朝日新聞社、1985)

中西 太なんて知らないか…

  • 2013.11.26 Tuesday
  • 06:41
先日は、西鉄ライオンズの昔話なんかしてしまい、なんのこっちゃ…と思われてしまったことでしょうが、実はその時に更に古いものを発掘してしまいました。また埋もれさせるのもかわいそうなので、迷惑承知で紹介してしまいます…(^。^;;

世は巨人ファンばかりだった時代に、弱小西鉄なんか応援する人は、九州を除いて少なかったことでしょうね。私が子どもの頃の遊びといえば、まずパッチンです。(関東ではメンコというのかな?)なんだかんだと100枚近く集めていたと思いますが、野球選手とお相撲さんは記憶があるのに、歌手とか芸能人もあったのかなぁ?全く記憶がありません。大事なものは取られないように、順番を並び替えながら、遊んだものでした。そんなパッチンが出てきたのです。
パッチン1  パッチン2

出てきたのは西鉄ライオンズの選手のものばかり。同じく大好きだった若乃花のは残ってませんでした。西鉄の選手の中では、なんといっても中西が一番のアイドルだったので、あれこれ残っています。兄が大洋ファンで、高校の頃にはスポーツ誌を買ってきて、中西のグラビアを切り抜いてくれたものもありました。
  プロフィール

私が多分小学校の4年か5年頃、手紙出してサインもらえばいいのにと兄に言われ、確かお菓子の箱に入っていたボール紙を入れて手紙を送ったのです。ややしばらくしてサインが送られてきました。いやーうれしかったですねぇ。もちろん私の一番の宝物になりました♪
サイン

今にして思えば、とても達筆な筆跡です。中西といえば、史上最強のスラッガーとして知られていました。当時はプロ野球に助っ人外人はほとんどおらず、阪急のバルボンくらいしか記憶がありません。そんな時代に、平和台球場のスコアボードをはるかに超えていった史上最大のホームランとか、ショートの頭を越えたライナーを処理しようとしたセンターが、思わずバンザイをしたら、そのままホームランになったとか、いくつもの伝説が知られています。
ところが性格はいたって細やかで、見た目の豪快さとは全く違っていたと言われており、この文字を見るとそんな気がしてしまいます。
  住所  パッチン3

しかし、50年前のものを後生大事に持っている人間も珍しいでしょうねぇ…(^_^;) その頃のことがいろいろと思い浮かんでしまい、しばらく心がなごんでしまいました。一人でにやにやしていればいいのに、おつきあいさせて申し訳ありませんでした。m(__)m

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