くじ運

  • 2017.01.25 Wednesday
  • 05:53
私はくじ運だけはからきしダメで、宝くじはもちろんのこと、スーパーの福引きでもほとんど当たったことがありません。なので、年賀葉書も切手シート以上が当たったことは一度もなく、そうこうしているうちに下3桁もなくなってしまい、ますます当たりが悪くなってしまいました。昨日郵便局に用事があったので、ぱらぱらと探してみることに。忙しさに取り紛れて、交換しない年もあったので、こういうのは思い立ったが吉日です。今は当たりが全部で4つしかないので、とても探しやすくなりました。すると14枚も当たっていたので、1/50の確率からすれば、当たりが多かったかもしれません。

当たり葉書
不思議なもので、14枚中下二桁(51)が12枚と、多分一番多かった数字が当たりになったようです。正月に息子が「おみくじ箸」というものを買ってきました。筒型の箱を振って割り箸を出すと、私は中吉で、宝くじを買うといいとありました。ここ数年しんどいことが多かったので、今年はいいことがあるのかもしれません♪

家の引き出しに、お年玉切手シートが詰め込まれているのを思い出し、出してみると昭和時代のものも入っていました。昭和62年(1987)といえば、4月に長男が生まれ、秋には植木屋からコンサルに転職した年でした。いろいろと賑やかな年だったなぁ。
昭和時代

中で一番派手なのが平成20年(2008)。なんでこの年だけこんな大きな切手になったのでしょうか?その前のねずみ年の地味さとは比べものになりません。次のねずみ年はあと3年なので、アメリカは大変なことになっていることでしょう。
ねずみ年

今年は酉年なので、どんな図柄かと楽しみだったけれど、なんかなぁ… ネットでは「カラフルで可愛いです!ちょっと北欧風でもあり、アジアっぽくもあり」なんて結構評判がよろしいようですが。だんだん玩具などもネタが尽きてきたので、苦労して作っているのでしょうから、もっと喜んであげなくてはいけないか。
酉年

ますむらひろし

  • 2017.01.18 Wednesday
  • 06:03
冬になると事務所に籠もりきりになることが多く、たいした話題もないときには、また我が家のガラクタ箱をひっくり返すことになります。かなりひっくり返したつもりですが、まだまだ湧き出て来るようです〜(^^;)

年末の新聞の書評欄に、懐かしい名前を見つけました。「ますむらひろし」という、何ともへんてこな漫画家です。彼の作品が流行ったのはまだ私が20代の終わり頃、流行ったといってもごく一部で熱狂的に持ち上げられただけで、ついぞメジャーになることなく、近作も全然なかったと思います。なので、知っている人はほとんどいないでしょう。
新聞記事
 (朝日新聞の朝刊から一部抜粋…   2016.12.4)

この頃に入りびたっていた飲み屋「エルフィンランド」では、この主人公のヒデヨシは完全にスターであり、背中に背負っている「猫正宗」まで委託して造っていたくらいですから…(^^;) マッチもすべてヒデヨシ印。洋さんは、ますむらさんにちゃんと断っていたそうなので、猫正宗も送っていたのかもしれません。
アタゴオル
(「アタゴオルは猫の森」ますむらひろし著、朝日ソノラマ刊第五版、1980)

ますむらさんの本は、ほぼすべて持っています。東北の出身だったこともあって、若い時から宮澤賢治に強く惹かれていたようです。銀鉄のあとがきには、「東京の下宿の一室で、賢治の文庫本を夜ごと読みふけっていたのは、二十歳の秋のことでした。」と書かれています。彼は私と同じ歳なので、ちょうど同じ頃、賢治の文庫本をお互い読みふけっていたことになります。いつも松山に帰省するときには、山線回りの急行宗谷で函館に行き、青函連絡船で青森に着くのがちょうど夜中の十二時。青森から上野行きの急行八甲田に乗るのが定番でした。当時の急行は、古い木製客車で堅くて狭いボックスシートに横になり、いつも賢治の文庫本を読みながら、真っ暗な東北本線を走っていたのです。
銀鉄
(「銀河鉄道の夜」 ますむらひろし著、朝日ソノラマ刊、1983)

なので、のちにこの賢治シリーズが出た時には、何ともいえない現実感に包まれたものでした。難解な賢治の物語が、少しは分かったような気がしたのです。

銀鉄の最後

今から思えば、二十歳の若者には、賢治の物語や詩は難解すぎます。もう一度読み返してみれば、少しは理解できるのかもしれないなぁと、この新聞記事を読みながら思ってしまいました。
風の又三郎
(「風の又三郎」 ますむらひろし著、朝日ソノラマ刊、1983)

又三郎では、ふんだんに出てくるオノマトペ(擬音語や擬態語)が、物語にリズムを付けてくれます。自然と向き合いながら、それをどう表現すれば一番身近に感じられるのか、思いを形に変えられるのか、賢治はいつも試みていたのでしょう。ますむらさんは、人間が主役になるとどぎつ過ぎてしまうことを恐れて、ネコに置き換えたのでしょうか。この試みは見事にはまっているのです。
又三郎

漫画鳥瞰圖

  • 2017.01.17 Tuesday
  • 06:00
しばらく続いた厳しい寒さがようやく緩み、少し過ごしやすくなりました。朝晩少しずつ昼間が長くなっていくのがよく分かり、まだまだ春は遠いものの、少しずつ近づいているのは確かです。

吉田発三郎による、格調高い鳥瞰図には及びもしませんが、函館の『漫画鳥瞰圖』なるものがあることを思い出しました。結婚して間もないころに、函館の義父にコピーをいただいたもので(といってもA1サイズもありますが)、大正時代末期の函館の様子がよく分かって面白いものです。1925(T14)年に、青函連絡船が直接貨車を船倉に引き込んで、貨物輸送を始めた記念の年でした。それまでははしけに積み替えて輸送していたので、ものすごく手間と時間がかかっていたのです。
漫画鳥瞰図

函館の町は、何度も大火に見舞われており、1934(S9)年の大火では、市街地の約半分、一万戸以上もの家屋を焼き尽くし、死者も2,166名を数える最大の被害を出していますが、その前が1921(T10)年の大火で、いわゆる西部地区を焼き尽くしています。その後コンクリート造の建築物が通りに面して建てられ始め、現在も数多く残って西部地区の景観を作り出しているわけです。
  函館大火
 (「函館大火と復興・再生のまちなみ」  市立函館博物館館長 田原良信氏作成資料より)

この鳥瞰圖が発行された年は、大正大火から四年、まさに復興に邁進して町に活気があった時代を反映しているものと考えられます。それにしても、この大澤観文なる人がどんな方なのか全く分からず、地元新聞に挿絵でも描いていたのでしょうか?戦前は、地図は軍事機密のため、必ず軍の検閲を受けなければ発行できません。当時の絵葉書を見ても、函館山には必ず雲がかかって、見えなくされてしまっているのです。
奥付 査閲済

湯の川までは電車が開通しているけれど、千代台を過ぎる頃には町並みがなくなり、五稜郭のお堀ではスケートや氷の切り出しが行われいたようです。亀田八幡は亀田村ですが、師範学校(現教育大函館校)までがぎりぎり絵図に載っており、函館はここまでだったわけです。
五稜郭

駅前には朝市もなければ棒二さんもなく、函館の賑わいの中心はまだ十字街にありました。それでも大森稲荷の前にあった函館(大森)遊郭に向けて、両側に映画館などがたくさんたち始めていた時期でしょう。遊郭の前には大きな門柱が立っていて、それを大門と呼んでいたことから、駅前地区全体が大門と呼ばれるようになり、その呼び名だけが残されているわけです。
大門

十字街から末広町にかけては、景観地区として現在もたくさんの建造物が残されている地区となっています。この赤丸のところがかみさんの実家のあるところで、これには寺井商店となっていますねぇ…?この建物は、1907(M40)年にリューリ商会として建てられたことになっているけれど、いろいろ調べた方によると1921(T10)〜1926(T15)に建てられたものではないかとされておりました。これが1925(T14)年に描かれたところを見ると、まだできていなかったのでしょうか??絵図としてはあんまりいい出来ではないけれど、細かく見ていくといろんな情報が見つけられそうです。
末広町

ばらの勧銀

  • 2016.11.04 Friday
  • 05:57
今年の春に松山から母を連れてくることになり、家の中から必要なものを大急ぎで荷造りしました。もともと私が住んでいた家ではないので、どこに何があるのやらよく分からず、2階の物置部屋で片っ端から箱を開けて、いるものいらないものに分けていました。古い写真が一箱出てきて、よく見て行くと戦時中に結婚した両親が、軍刀を片手にした写真が出てきたり、祖父の兄は鹿児島からアメリカに移住したのですが、ある程度落ち着いてからシアトルで撮した家族写真だったりと、びっくりするようなものが出てきて、そんなものを山ほど持ってきました。

その中に懐かしいものを見つけました。ペラペラの日本手ぬぐいですが、「ばらの勧銀」とだけ描かれています。
バラの勧銀

勧銀とは日本勧業銀行の略で、私が小学生の頃、支店長がオヤジの旧制中学時代の同級生だったこともあり、何かとつきあいがありました。毎月診療報酬の書類を医師会に持っていくのですが、その時にくっついて町に出かけたことがあります。三番町にある勧銀の支店長室に通され、白いソファーに落ち着かなく座って、二人が話しているのを見ていました。そのあと銀天街から少し入った路地にある「京六」というなじみの鮨屋に行くのが楽しみだったらしく、ひとしきり飲んで、帰りはタクシーで家まで帰りました。妙にはっきりと覚えているものです。

当時都市銀行で松山に支店があるのは勧銀しかなく、北海道に来る時に銀行口座は第一勧銀にして今に至っています。(今はみずほに変わりましたが) なので勧銀には妙に思い入れがありました。シンボルがバラで、しかもカレンダーとか手帖の表紙とか、絵はずっと熊谷守一(くまがいもりかず)が描いていました。年末のカレンダーの入れ替えは私の仕事だったので、診察室のカレンダーは必ず勧銀のもの、待合室には地元の伊予銀行のものと、それぞれ置き場所が決まっていたのです。

    バラ1
  (ネットで探してみましたが、さすがに勧銀のカレンダーは出てきませんでした。)

昭和天皇が熊谷の絵を見て、「これは何歳の子が描いたものか?」と聞いた話は有名ですが、シンプルだけど、力強い絵がとても印象的です。この手ぬぐいの絵柄は、線だけでバラを表現していて見事です。よれよれの手ぬぐい一枚ですが、額に入れておこうかな。

函館駅周辺の見どころ

  • 2016.08.11 Thursday
  • 06:00
ホテルも大門だったので、駅周辺の散歩を。6時前だというのに、ヘジャブを被った観光客がカートをゴロゴロ引っ張りながら駅に向かっていました。札幌行きの始発の特急は6:10発なので、これに乗ろうとしているのでしょう。駅前にどーんと横たわっているのが「ボーニモリヤ」。正式には「中合(なかごう) 棒二森屋店」となり、福島にあるデパートに吸収されて、その支店になっているとか。
ボーニモリヤ

元々は、今も末広町に残る「金森森屋洋物店」と、「棒二萩野呉服店」とが合併して出来たために、両方から二字ずつ取って「棒二森屋」となったものです。今でもレリーフが玄関脇に残されていました。函館では、丸井さんとぼーにさんがしのぎを削ってきたところ。苦境に晒されている地方のデパートは生き残れるのでしょうか。
屋号

道路を渡って駅前広場に入ると、歩道脇に大きな標石が二つ並んでいます。「函館市国道元標」とあり、ここから札幌に向かって国道5号が、森町に向かって278号、海を渡って青森県野辺地に向かう279号、同じく海を渡って八戸に向かう338号の起点になっているのです。札幌のことを「奥」とか「奥地」と呼んでいた函館らしい標石です。
国道元標

設置されたのは20年ほど前と新しく、さすが予算をふんだんに持っていた頃の開発局、ずいぶんと豪華なものを置いたものだと感心します。札幌にあるものは、道庁の門の脇にひっそりとある素っ気ない石標なので、ちょっとびっくりです。
銘板

特設ビール園であるグルメガーデンのところからホームを見ると、「ながまれ海峡号」が止まっていました。道南ではゆっくりしてとか楽にしてという時に使うそうですが、かみさんに聞いても「しらん」とのこと。元々は青森の言葉のようです。
ながまれ

帰りに改札口のところに行くと、JRの券売機のところに大きく「道南いさりび鉄道の券売機は改札口の左にあります」とありました。見ると本当に改札口の端っこにポツンと置かれています。ついこの間までJRの線区だったのにずいぶんと冷たい仕打ちです。
券売機

しかしこの券売機、上に大きく「1万円札、5千円札は使用できません」だと。今どきこんな券売機探すのが難しいのに、わざわざこんな不便なものを設置するのはどういう了見なのでしょう。これでは、この三セク鉄道の将来は暗いと思ってしまいました。
アップ

函館駅は、連絡船がなくなったために島式ホームから頭端式ホームへと改装され、階段の上がり下りはなくなったものの、改札口の遠いこと。特急北斗の発着するホームは一番奥のホームのため、うしろの方だとかなりの距離を歩かされることになります。ホームのすぐ向こうには、春まで青森との間を走っていた白鳥の車輌(789系)がたくさん留置されていました。交流電化区間を走る特急電車は旭川室蘭間だけなので、調べてみるとスーパーカムイの古い電車の代わりにこれを改装して更新していくのだそう。スクラップにされずに、まだ活躍できる場所があってよかったなぁ。
789系電車

小樽梁川通

  • 2016.04.10 Sunday
  • 06:10
先日十勝に出張のおり、JRの車内誌を読んでいて、おやっ!と思ったことがありました。毎度楽しみにしている渡辺敏博さんの「ズゥさんのより道まわり道」を読んでいて、「年配夫婦が切り盛りしているあずましい店で、コハダと自家製の漬け物がうまかった。」とあったので、ズゥさんも『飯鮨(いいずし)』に通っていたんだ〜と懐かしくなりました。
ズウさん

以前やったマッチのコレクションでは、札幌のものだけしか載せていなかったのですが、この『飯鮨』には私もよく通っていました。初めは友達に連れられて行ったのですが、とても気に入ったので、時々電車で通うほどでした。結婚してからは、子供を連れて日曜の夕方に行くと、じいちゃんはカウンターで仕込みしながら、ぼそぼそと話をしてくれるのです。なんでも、戦後すぐに小樽の寿司職人が戦争から帰ってこれなくて手が足りず、東京の組合にSOSが来たのだそう。それに応じて何人かが小樽にやってきたうちの、私だけが残ったんだわ〜。しゃりが小振りでとても上品。特に小さなコハダを開いて酢で締めたものを、しゃりにかぶせるように握ると、雀が止まっているように見えるので、江戸前では雀鮨っていうんだよ〜。光り物大好き人間の私には、この雀鮨は本当に美味しかったなぁ。
飯鮨
残念ながらご主人が亡くなられて閉店したあとも、オタモイの市営住宅におばあちゃんに会いに行ったこともあります。子供二人連れて行っていたので、よくおばあちゃんにかわいがられていました。いろんなことが走馬燈のように頭の中をよぎってきてしまい、ちょっとうるっとなってしまいました。梁川通には、たくさんの思い出があるのです。

昨年余市で偶然手に入れたのですが、梁川通についての立派な冊子が作られています。多分古い商店で聞けばまだ手に入るかと思いますが、28ページもある解説書で、榎本武揚の号「梁川(りょうせん)」からこの通りの名前ができたことも初めて知りました。是非これを読んで散策してみて下さい。
小樽梁川通

花の切手 その後

  • 2016.01.20 Wednesday
  • 05:52
札幌の雪は、昨日朝の23cmのままでした。その後もほとんど降らず、今朝もびくびくして起きましたが、全然積もっておりませんでした。道東やオホーツク方面はまだ荒れ模様のようで、被害などなければよいのですが。今日も雪かきお疲れさまです〜

この会社を作った時から、ここから出す郵便物に貼る切手は、ほとんど花の切手にしていました。その頃は各地で花の切手をたくさん出していたので、「信州の花」とか「越後の花」といったシリーズが簡単に手に入りました。ところが、消費税が8%になってからは、これらがすべて姿を消してしまい、新しく作られるものにも花シリーズがなくなってしまったのです。どうせすぐに10%に上がるんだから、あわてて作らなくても…ということだったのでしょうが、なかなか上がらないままに… おかげでようやく手に入れたものも、52円はこんな写真ものがあったけれど、82円は全くなくなってしまい、買い貯めていた80円切手に1円切手を2枚貼っていました。
国土緑化

それもいよいよ無くなりかけてきたので、先日中央郵便局に行った時に、特殊切手の販売コーナーでようやく見つけたのがこんなど派手な記念切手です。
ハナミズキ

別に損する訳ではないけれど、紙の無駄が多くて気が引けるので1シートだけにして、結局たくさん買ったのが昔80円で出ていたものを82円に出し直したこれです。「花ロマン・花木 北海道」シリーズという変な名前ですが。
北のロマン

ついでに、52円に面白いのがないかなとみていくと、なんとこんなシリーズがありました。いくら多肉がブームだからと言って、まさか切手になっているとは… 昨年12月の発行ですからまだあると思いますので、多肉好きの方はどうぞお早めに…(笑)
多肉植物

それにしても最近は、シール方式の切手が増えてきているようです。局員に聞いてみると、最近の女性は切手を濡らして貼るのを嫌がるために、仕方なくシールにしているようですよ〜とのことでした。そんなものなのかなぁと思いますが、ちょっと味気なく感じます。

たばこ

  • 2016.01.14 Thursday
  • 05:54
先日あった業界の新年交流会の席で、ふとテーブルの上を見ると、なんと缶ピースが置かれていました。今どきこんなものを吸う人がいるのかとびっくりしたら、その隣はロングピースを吸っていてまたびっくり。なかなか止めようとしない方はいるものですねぇ…(^^;)
缶ピース

私は生まれてこの方、タバコは1本も吸ったことがありません。オヤジがチェーンスモーカーで、障子紙もすぐに黄色くなるし、掛け時計のガラスも時々拭かないと汚れて見えにくくなるほどでした。なので子供心にタバコだけは吸わないと堅く心に決めて、そのまま現在に至っています。一番つらかったのは、35歳で植木屋からコンサルに転職した時。机に座っているだけでもつらいのに、部屋の中に眼がちかちかするほど煙が充満し、向こうの方がかすむほどのひどさで、ものすごく苦痛な日々でした。二年ほど我慢してようやく緑地部門を立ち上げて別の場所に引っ越しし、その部署は禁煙にしてようやく一息。その後会社内で力を付けるにつれて、分煙化を徹底させてようやく社内環境を改善することができました。

そんな私ですが、タバコのコレクションがあるのを思いだしてまたロフトを探索し、菓子箱一杯のコレクションを掘り出してきました。自分では集めなかったのでほとんど記憶がありませんが、高校時代くらいから切符などと共に兄の友人たちが送ってきたものだと思います。
たばこ1

この四つは沖縄のタバコ。米軍統治下の民間タバコ会社をそのまま引き継いだので、独自のブランドが流通していたものですが、うるまとバイオレットは今もあるそうです。私が大学に入った72年に沖縄が日本に復帰し、この箱が専売公社ブランドになっているところを見ると、大学時代に誰かからもらったもののよう。
たばこ2

チェリーはオヤジが最後に吸っていたタバコなので、SL好きの私のために取っておいてくれたものかもしれません。おおぞらなんてタバコがあったのですねぇ。
たばこ3

飲み屋に入りびたり始めると、回りには格好付けて洋モクを吸うのが結構いて、ジタンやゲルベゾルテが流行っていたような。なんとロシアのタバコまでありました。このほかにも葉巻からパイプタバコまで、すべてスキャンしてデータ化したのでがさばらなくなりました。それにしても、なんでも集めていたものですねぇ…(^_^;)
たばこ4

あれだけ受動喫煙していても、もう完全に分煙化されてしばらく経つので、体の中もすっかりきれいになっていることでしょう。あの紫煙たなびくひどい環境を、よく生き延びたものだと思います。

昔の広告

  • 2015.12.19 Saturday
  • 05:46
先日『面白半分』などを引っ張り出して見ていたら、記事の内容はともかく、雑誌に掲載されている広告に思わず夢中になってしまいました。なにせ約40年前の雑誌ですから、当時の世相を反映している訳です。一番ビックリしたのはなんといってもこれでしょう。(1975年9月号)

ビデオテレビ
カラーテレビが出始めたのが64年の東京オリンピックあたりとして、それから約10年。ソニーがβ方式のビデオを発売したのが75年5月なので、これはその直後の広告ということに。ビデオデッキにはまだベータとかベータマックスとも書いていないので、まだ恐る恐る売り出したところのようです。なにせ価格がものすごい。テレビが22万、デッキが23万、合わせて45万円。30分のカセットが3千円ですからね。今の金銭価値に換算すれば2〜3倍になるでしょう。

サニークーペの広告も懐かしいというか、こんな車が走り回っていたのですねぇ。まだアメ車信仰があったのでしょうか。クーペというジャンルも今はほとんど消えてしまいました。この頃までは日産サニーではなく、ダットサンサニー(DATSUN SUNNY)だったのです。(1973年10月増刊号)
サニー
ちなみに、ダットサンの由来はWikiによると「橋本増治郎が創業した 快進社自働車工場(のちに日産コンツェルンに吸収)の支援メンバーである、田健治郎の「D」、青山禄朗の「A」、竹内明太郎の「T」と、それぞれの頭文字を採り、早く走ることのたとえに使われる「脱兎(だっと)」に掛けた、「脱兎号(DAT CAR)」を始祖とする。1930年に、DATの「息子」を意味する「DATSON」を商標として掲げたが、日本語読みで「損」を連想させるため、音が同じで太陽を意味する「DATSUN」に改められた。」とのことです。海外ではいまだに「DATSUN」(発音はダッツン)の方が有名な地域もあるようです。

かつて堤清二が率いたセゾングループの中核である西武百貨店。ちょうどこの頃から高級ブランド志向が強まっていった時期でしょう。それにしてもこの広告の意欲は分かるけれど、超‘クサイ’コピーやら、ソーサーにタバコの吸い殻を放り込むなんて…すごいセンスだなぁと思ってしまいます。(1973年10月増刊号)
西武デパート

最後は思わず笑ってしまうような広告。三文雑誌じゃあるまいに、よくもこんな広告を載せたものです。500ページもの男性の医学書が無料!先着順に急送!と書いてあるので、さっそくこの「申込券」をハガキにはって今スグ出した人が何人いたのでしょうね?よく見ると、急送するのは医学書の無料進呈規定と実験者の体験記となっているのですが。この頃ならまだガリ版刷りだってあり得ますからねぇ。時代を感じさせる広告と言えるでしょうか…(笑)  (1978年1月号)
医学書

コレクションの未来…(>_<)

  • 2015.03.26 Thursday
  • 06:00
甲子園のセンバツでは、82年振りに出場した松山東が初勝利。21世紀枠での出場校ながら、しぶとく勝ってくれました。正岡子規が野球を伝えた超伝統校ではありますが、公立では愛媛一の進学校なので、いいところまでは行くものの、なかなか甲子園には手が届かなかったようです。私の父は前身の松山中学の卒業なのでOBにあたり、前回出場した82年前にちょうど卒業したばかり(その翌年?)なので、野球好きの父だけにあの世で大喜びしていることでしょう。
選抜

昨日届いた年金受給者の情報誌をめくったら、ドキッとするような特集記事がありました。今は全くコレクションには手を出していませんが、こんな日記を書いたばかりでもあるし、これまで溜め込んできたガラクタ類は、そろそろ処分しなくてはいけないかなぁ…と考えていたこともあり、この特集は耳の痛いことがいろいろありました。

コレクター1

ここに出てくるご老人たちは、お金をかけて今も溜め込み続けている方達なので、「生前整理」なんてことは絶対に難しいでしょう。それこそ生きがいが消えて、老け込んでしまうのがオチですから。私の場合は、レコードと本以外のガラクタ類は、必要なものだけスキャンしてデータ化し、できるだけ捨てていくことにしています。モノはやはり場所を取るので、最低限それだけはやっておこうと思っています。

コレクター2

切符のコレクションは、一番開けたくなかった私鉄・船関係の箱を昨日とうとう開いてしまいました。多分十数年振りのことだと思います。白い煙と共に冥界に引き込まれてしまい、なかなか抜け出すことができなくて困ってしまいました。
こんなもので苦労していたら、手強い本やレコードには手がつけられそうもなく、まだまだ生前整理にはたどり着けそうもありません。

切符コレクション(国鉄編-2)

  • 2015.03.25 Wednesday
  • 06:08
私的コレクションは、当人にしか面白味は分からないのは承知の上で、国鉄関係の箱の中をもう少しめくってみます。よくこんなものが残っていたなぁと思ったのがこの切符でした。1958(S33)年10月9日の「平和」の特急券です。ネットで調べてみると特急平和は10月1日に誕生したばかりの寝台特急で、長崎と東京を結んでいた「さちかぜ」が、「あさかぜ」と似ているので誤乗車が続発したため、車名変更で生まれた特急とのこと。しかし翌年7月には、のちのブルートレインになる20系寝台車の導入と共に、「さくら」に改名されてしまった短命な列車だったのです。
硬券
この時私は6歳になったばかり、母の父、つまり私の祖父が亡くなったために、当時住んでいた群馬県の高崎まで父母と葬儀に行きました。母の実家は東京淀橋(現在の新宿)でしたが、戦時中の疎開で高崎に移っていたのでした。この時兄二人は小学生だったので、私だけが付いて行ったのでしょう。もちろん初めての大旅行でした。今治まで汽車で行き、瀬戸内海汽船で尾道に渡って普通列車で岡山まで行き、そこで「平和」に乗り替えています。夜中の1時20分ですから、それまでよく起きていたものです。船に乗ったのも、夜の電車に乗ったのも、もちろん寝台車に乗るのも初めてのことでした。
ベッドの幅が狭いので、母と入れ子になって足に抱きついて寝たことや、翌朝父を起こそうとカーテンをめくったら違うおじさんで、父は上段に寝ていたり、大井川や天竜川など鉄橋を渡るたびに「この川はなに川というの?」と聞きまくっていたことや、既に上の方が白かった富士山に感激したことなども鮮明に覚えています。東京では、できたばかりの東京タワー(10月14日竣工)がめちゃくちゃ格好よかったなぁ。途切れ途切れながら様々な記憶が蘇り、切符一枚でタイムマシンに乗ってしまいました…(^^;)

時代が新しくなると、厚紙でできた硬券から、印字できる軟券が増えてきます。受験の時にも松山から特急を乗り継ぎ、36時間かけてようやく札幌に着いた時には、腰が痛いとかいうのではなく、いわゆるエコノミー症候群のように体がむくんでしまったような変な状態になりました。これは試験からの帰りの切符のようですが、日本海回りの「白鳥」や急行「きたぐに」に何度乗ったことか。トワイライトのような豪華列車はまだなかったし、貧乏学生には縁がありませんでしたからねぇ。
軟券
いつも使っていたのが四国周遊券。急行までは乗り放題、有効期間20日で8,500円ですから、メチャお得でした。(以前4,800円と言ったことがありましたが、8,500円だったようです。)これは大学2年の正月に帰省した時のもので、大阪から高松まで関西汽船に乗ることもできたのです。
四国周遊券

まだ橋のなかった四国から本州に渡るのは、高松まで行って宇野までの宇高連絡船に乗るのがメインルートでした。でも松山から関西に行くのには、夜に松山港から関西汽船に乗ると、翌朝6時くらいに神戸の中突堤に着くので、これが安くて便利なルートだったように思います。あんまり宇高連絡船に乗った回数はなく、まして1時間のためにグリーン券を買うことはなかったはずなので、これは私のものではないでしょう。
宇高連絡船
上野発の急行「八甲田」に乗ると、朝の4時ころ青森に着きます。青函連絡船は4時間かかっていましたが、ここでもグリーンに乗ったことはなかったなぁ?駅に着くとみんな荷物を担いで走り始め、長い桟橋を息を切らせて駆け込んで、寝る場所を確保しなければならなかったのです。やはり急行列車ではあんまり寝られず、足を伸ばして少しでも寝られる連絡船は貴重な存在でした。
青函連絡船
今回は国鉄の箱だけ開けましたが、まだ私鉄や雑多な乗り物もあるので、開けるのを躊躇してしまいます。思い出のあるものが出てくると、その前後の記憶がいくらでも湧きだしてくるのが不思議なもの。コレクション恐るべしです。

切符コレクション(国鉄編-1)

  • 2015.03.24 Tuesday
  • 06:11
ロフトの片付けをしていて、開けてしまうと収拾がつかなくなるパンドラの箱というのは、切符のコレクションでした。台紙に貼り付けて、10cmほどの厚さの紙箱に三つ、かなりの量があります。集め始めたのは中学生の頃からで、大学生だった兄からもらった切符がきっかけだったような気がします。学校のある松山まで蒸気機関車の煤にまみれながらデッキにぶら下がって通っていたので、自然にSL好きにもなり、いわば鉄ちゃんの走りだったのでしょう。兄の友人から全国の入場券や途中下車していらなくなった切符が、続々と集まり始めました。

自分で記念切符を買い始めたのは高校になってからで、多分これあたりからのような気がします。この頃は入場券が20円、急行券でも200円と、今考えればとても安いのですが、小遣いなんかほとんどもらっていなかったので、結構高い買い物だったのでしょう。
四国鉄道80年

この頃はちょうどSLが廃止になっていく時で、毎日乗っていた列車を牽引していたC58型テンダ機関車が一番の好みでした。Cというのは動輪が三つで高速運転に向いている客車用、D51のような貨物を牽引する機関車は小径で粘着力を発揮する動輪が四つあります。テンダというのは炭水車が別になっている型式で、機関車にくっついているものをタンク車と区別していました。
消えゆくSL

そして高校3年の春に四国からはSLがすべて廃止され、ディーゼル車に置き換わってしまいました。目も開けられないほど煤にまみれていたけれど、やはりあの臭いが懐かしいです。
四国無煙化

浪人して予備校に選んだのは福岡の町。札幌は遠いし、大阪には行きたくないし、町の規模が札幌と同じくらいで予備校のレベルが高いので選んだことになっていましたが、その実は西鉄ライオンズの応援に行けるということにありました…(^^;)
電化10年
福岡の町は、黒田藩の城下の福岡と、商人の町博多が一緒になった町なので、市の名前は福岡にする代わりに、駅の名前は博多になったという経緯があります。なので、記念切符を買いに行くのは博多駅でした。

九州でもSLの廃止がどんどん進んでおり、この記念切符はかつて九州で活躍したSLが、10枚入りでずらりと載っている大変お得な記念入場券でした。
小倉駅80年

そんな福岡に行った時の切符も残っています。私の住んでいた伊予和氣から隣の堀江駅まで行き、当時まだあった国鉄仁堀(にほり)連絡船で呉の隣の仁方(にがた)に渡り、呉から特急で博多まで移動。そこから、今はなくなって地下鉄に乗り入れた筑肥線というローカルで線で、福岡の西の端にあった姪浜(めいのはま)駅までの切符です。駅員さんが時刻表とそろばん片手に苦労して作ってくれた切符でした。
姪浜行き
初めて家を離れることになるので、とても心細い旅でした。家からすぐのところにある駅に向かって歩いていて、ふと振り返ったら庭先から母がずっと見送っているいるものですから、ぐっと来てしまいました。私にとって18の春は、楽しい思い出一つなかったなぁ…

サルビアの花

  • 2015.03.23 Monday
  • 06:01
家の辺りはまだまだ雪に埋まっていますが、町中からはほぼ雪が消えてしまいました。彼岸も過ぎたので、あとは一気に暖かくなっていくのでしょうか。

このところ頭を痛めていた懸案事項に目途が付いてきたことから、精神的にも少し余裕ができました。数年間ほったらかしになっていたロフトの片付けをしたり、音楽を聴く余裕もできたので、あれこれCDを聞いていた中に、早川義夫の「サルビアの花」がありました。音楽活動を休止して本屋さんをやっていた彼が、94年に23年振りに活動を開始した時のCDに入っているものです。
この世で一番
これは、琴似のペーニーレイン24でやった復活ライブの時に、その場で買ってサインしてもらったものです。あれからもう20年も経っていたなんてと、ちょっとびっくりでしたが、久しぶりの早川さんの声にしびれたことを、昨日のように思い出してしまいました。

そうなるとオリジナルを聴かなくちゃと、本などに埋もれてしまっているレコードを掘り起こし、40年前のURC盤を探し出しました。LPも400枚以上あるので、今でもプレーヤーは生かしており、だいぶほこりが積もっていたものをきれいにして、久しぶりに聞き惚れてしまいました。今はたいていのものがYouTubeで聴けるようになっているので、興味のある方はこちらからどうぞ
  LP表
URCレーベルとは、アングラレコードクラブの略で、岡林信康や高石友也、五つの赤い風船、はっぴいえんどなどのレコードを出していたものです。今の言葉で言えばインディーズになるのでしょうが、貴重な音源ばかりなので、今でも復刻が続けられています。ジャックス時代は東芝から出していたけれど、一部では熱狂的なファンがいたもののコマーシャルベースでは全然売れず、バンド解散後は大手からは出せなくて、ここからようやく細々と出すことができたのでしょう。ジャケットの紙質や印刷もかなりひどく、やはりマイナーな存在だったのです。

  LP裏

この中に入っていたサルビアの花は、72年に「もとまろ」という女性グループからリメイクされてヒットしました。このシングルの発売が72年4月なので、ちょうど私が札幌に住み始めた時だったのです。残念ながら家のブレーやーではドーナツ盤が聴けなかったのですが、YouTubeにはちゃんとアップされていました
  もとまろ

ドーナツ盤を知っている方は多分50代以降なんでしょうか…(^。^;; いつ頃廃止になったのか分かりませんが、まだ手元に100枚くらい持っています。フォークやグループサウンズ中心なので、ブルコメやタイガース、中山千夏から和田アキ子なんてのもありますよ。参考までにこんな形のシングルレコードで、回転数はLPが33 1/3回転なのに対して45回転で、中にアダプターの円盤を入れて使っていました。いつかネタが無くなってきたら、ドーナツ盤特集があるかもしれませんよ〜
ドーナツ盤

花と野菜の切手

  • 2015.03.04 Wednesday
  • 05:51
昨日郵便局に行った際、ようやく野菜とくだものシリーズNo.3の切手を手に入れました。先日見つけたものの、窓口がメチャ混んでいたので、空いている時まで我慢と思っていたのです。手に取ってあれっと思ったのは、糊式ではなく、全部がシールになっていたのでちょっとがっかり。切手はやはり、ぴりぴりと切り離して使わなくちゃ。

野菜・花切手

この会社を作った12年前から、使用する切手はなるべく花関係のものを使うようにしています。普通の郵便局にはないので、中央郵便局の専用コーナーでまとめ買いしていました。当時は各地方の花シリーズが豊富なので、そんなに困ったことはないのですが、葉書用の50円切手はたくさん出てくるのに、封書用の80円切手が少ないのが困りもの。

   花切手50円

それでも、なんとか途切れないように、まとめ買いして使っていました。
 花切手80円
ところが、昨年消費税が上がってから、50円80円切手はこのコーナーから全く姿を消してしまったのです。2円切手はたくさん用意していたのに、肝心の切手が補充できず、52円82円の花切手も発売されないままでした。ようやく見つけたのが、国土緑化のシリーズですが、やはり写真ものは味気ないのです… 左にある春の花シリーズのボタニカルアートものは、これまでで一番素晴らしかった。これだけハイレベルの切手は、世界のどこに出してもひけはとらなかったはずです。

  花切手52円
あんまり種類を出さないのは、いずれ消費税が上がるので、その時までは適当にしのいでおけということなのでしょう。切手ごときにそんなにこだわる人もいないかもしれませんが、こんなささやかな楽しみだってあるのです〜

ガラケー復活?

  • 2015.02.12 Thursday
  • 05:58
数日前の朝日新聞に、「ガラケー復活?出荷台数7年振り増 スマホから出戻りも」なんて記事がありました。出荷台数のグラフが付いているのを見ると、ガラケーがどんどん減っているのに対し、スマホが右肩上がりで増えているのかと思いきや、12年からはなんと減少しているのにびっくり。これはちょっと意外でした。

新聞記事
 (朝日新聞DISITALから拝借)

もう一つ意外だったのが、ここに来てガラケーの出荷台数が増加し始めたということです。一昨日飲んだ友人も、とうとうスマホにしたけど便利やわぁ!とゆうてたばかり。そんなにスマホが頭打ちで、ガラケーが増えている実感は全然ありませんからねぇ。

私もガラケー+iPad(Wi-Fi)派。老眼ではないので、細かい文字を読むのは苦にならないのですが、それにしてもわざわざ出先で細かい情報を調べることもないだろうにと思っています。携帯電話は出始めからずっと使っていますが、基本的にあんまり使いたくない道具という意識がありました。ところ構わずかかってくるし、出先でも対応しなくちゃならないので、会社にいた時にはとにかく面倒という意識が染みついているのです。今ではそんなに切迫した用事も少ないし、現場以外ではほとんど事務所にいるので、あまり必要性がなくなりました。自分からはほとんどかけないし、携帯からネットに接続することも最近ではほとんどないので、存在価値は非常用電話という感じです。使用料金も多くて1,500円くらいですから、何千円もかかるスマホに代える気なんか全くありません。記事にもあるように、ガラケー人気の理由はやはり「低価格」なんでしょうねぇ。

私が使っているのはDOCOMOのP705iμという機種で、確か2008年に機種変したはずです。バッテリーは何度も交換し、外見はご覧に入れられないほど傷だらけですが、今のところ何も調子が悪くなったことがありません。
P705
この機種は、携帯史上最薄の9.8mmという薄さ軽さが最大の魅力です。普通の携帯のフタくらいの厚さしかなく、P特有のワンタッチオープンなのでとても使い勝手がいいのです。こんな機種はもう発売されそうもないので、大事にこれからも使っていこうと思っています。

山頭火に想う

  • 2015.01.08 Thursday
  • 08:19
なんともすさまじい吹雪でした。交通機関がメチャクチャになり、あちこちで大混乱になっています。昨夜は業界関係の新年交礼会があり、終わって事務所に帰ろうとしたら小樽方面のバスはすべて運休、手稲方面のJRバスは超満員となって、汗だくになりました。小樽から来ていた方達は、無事に帰れたのでしょうか…? 積雪量はたいしたことないけれど、強風による吹きだまりがひどく、除雪車が来たのがようやく7時過ぎ。やっとの思いで下りて来たものの、いやはや大変な朝でした。

ところで長い正月休み、家にいるとつい本棚の本を手に取ってしまいます。目が行ったのは種田山頭火の本でした。山頭火との出会いは、大学に入った夏休み、松山に帰省する途中に立ち寄って倉敷の友人宅で、二日ほどあちこちうろついたり、酒を酌み交わしていました。当時の倉敷はまだ昔のまんまで、そんなに観光地になっていなかったのがとてもよかったです。友人の母が俳人で、たくさんの句集がある中で見つけたのが山頭火の全集だったのです。
今手元にある『あの山越えて』山頭火行乞記(大山澄太編、潮文社新書、1969)を見ると、1972.8.15 松山明屋(はるや)書店となっているので、そのまま家に帰った時に手に入れたもののようです。

山頭火 分け入っても

山頭火は、この代表句に見られるよう、新傾向(自由律)の俳人です。子規の弟子のうち、高浜虚子がホトトギスに拠って正調の俳句を継承したのに対し、河東碧梧桐は新傾向(自由律)の俳句に傾倒していきました。碧梧桐と共に新傾向俳句誌「層雲」を起こしたのが荻原井泉水(せいせんすい)で、山頭火はその弟子になります。

山頭火は山口の人でしたが、放浪の末にたどり着いたのが子規の故郷松山で、ここに「一草庵」を結んで行乞と俳句の日々を過ごします。やはり子規の故郷という意識があったのかもしれないし、最大の理解者であった大山澄太氏が松山にいたことも大きかったのでしょう。しかし長年の無理がたたり、翌年(1940(S15)年)10月8日にこの世を去ってしまいます。享年58歳。こまめに書き続けていた日記は、この日が絶筆となりました。
絶筆2絶筆1
(「一草庵日記」山頭火の本12、春陽堂刊、1980 より)

一草庵はその後、顕彰会の手によって何とか維持され、最終的には松山市に移管されて回りもすっかり観光地化してしまいました。昔行った時には、本当に草庵の風情のある鄙びたたたずまいだったのに、これでは幻滅もいいところ。
サイン
建物も改修とされていますが、ほとんど建て替えてしまったようなビカビカのものになり、山頭火の思いをどれだけ汲んで整備したのやらと嘆かわしいやら腹が立つやら…
一草庵

こんな生き方は誰もできないけれど、気持ちの細やかさ、人につい甘えてしまい、それを後悔し続けるいじいじした弱さなど、身につまされる日誌となっています。引き籠もることの多い冬の間、行乞記である「あの山越えて」など、ぼちぼちと読み進むことになりそうです。

溜めてしまった古切手

  • 2014.12.14 Sunday
  • 05:48
私は性格が貧乏性なせいか、何でも捨てられなくて溜め込んでしまう癖があります。昨日ふと引き出しから出てきたのが使い古しの切手の山。たくさん来る郵便物に貼られている切手の中には、記念切手のようなきれいなものが混じっています。これが捨てられない…
切り取って封筒に入れていたものが、2〜3年すると一杯になるので、ある程度溜まると家に持って帰り、ケースに溜め込んでいます。どれだけ溜まっているのか見るのも怖いくらいです。確かに子どもの頃には一度夢中になったことがあったけれど、すぐに飽きてしまいました。なのでコレクションをしているつもりはないのだけれど、溜まったものをどこかに寄付するのも面倒なので溜まる一方に。

自分で出すものは、わざわざ中央郵便局に行って、各地の花の切手を買ってきたものを貼るようにしています。なので、花系のものはやはり気になってしまうのです。
花系
道内のレブンアツモリやスズラン、ハマナスは結構な数があるのであまり集めませんが、カリステモン、ヘレボルス、ハナショウブ、アカヤシオ、雲仙ツツジ、ハナミズキなどなど、結構面白いものがあります。真ん中にある洋梨は、新潟県の‘ル・レクチェ’だそう。東京タワーとロウバイなんてのは、いったいどんな関係があるのやら?

次に目を引くのが、浮世絵や絵画、工芸品などの芸術系のものでしょう。やたら金泥を使って高級そうなものが多いのです。
芸術系
問題はこれが一体何なのかがよく分からない。書いてあるものは、ルーペでよく見るとなんとか分かるものの、さっぱり?というものもかなりあります。

最近意外と多いのがご当地切手。岡山県のキジ、小樽運河、京都円山公園のサクラ、沖縄の識名園、函館のハリストス正教会、今治城、二条城、勝沼のブドウ園 などなど。
ご当地系
こういうものは、集めると面白いかもしれませんね。

意外にあるのにびっくりしたのがマンガ系。ハローキティやディック・ブルーナのふみの日切手くらいは知っていたけれど、ちびまる子ちゃんやベルばら?その他はさっぱり…こんなものがたくさん出ていたのですねぇ。まぁ自分の顔まで切手にできる時代ですから、誰かの顔の切手が送られてきたらどないしょ…(^^;)
マンガ系

さぁ今日は投票日。日本の進路を本当に託せるか、よく考えて必ず投票しましょうね〜

トマソン

  • 2014.11.29 Saturday
  • 05:45
先月亡くなった赤瀬川原平さん。既成概念を徹底的にぶっ壊しながら走り続けた、前衛タイプのゲージツ家だったと言えるでしょう。その最盛期は60年代なので、直接知ることはなかったのですが、70〜80年代はこちらも闇雲に走っていたので、その意味するところに共感があることも多かったと思います。

その一つがこの「トマソン」でしょう。町中にひっそりと佇んでいるものの中から、ふと、無用な存在だけれども、なにか意味のありそうなものをつまみ上げたもの。それらを集めたのがこの本だったのです。
  トマソン
  (「超芸術 トマソン」赤瀬川原平著、白夜書房、1985)

1972年に、世界で最初に発見された‘超芸術’の第1号は、四谷にあったので「四谷階段」もしくは「純粋階段」と名付けられています。立派に建物の横に存在している階段でありながら、なんの用もなすことなく存在していることに、誰も気がつかない。壊れた手すりをちゃんと補修していながら、なんの目的のものなのか、誰も分からない。
純粋階段

そんなものを、当時教えていた美学校の生徒たちとあちこち探し回っていたころは、これらを‘超芸術’と呼んでいました。途中で切られたまま存在し続けている「阿部定電柱」や、建物の壁に隣にあった建物の名残を残している「原爆タイプ」など、様々な物件が集められていきました。
原爆タイプ

ちょうどその頃、巨人にやってきたのがゲーリー・トマソンだったのです。鳴り物入りで入団したものの、バットに球が当たらず、扇風機というあだ名が付けられていました。ちゃんとしたボディがありながら、世の中に役に立つものがなにもない、そんな物件を巨人軍は大金をかけてしっかりと保管している、ということから、‘超芸術’と名付けられていたこれらの物件に『トマソン』という名前が付けられました。
ゲーリートマソン
今でもそんな物件を見つけてはバシャバシャ写真を撮してしまうので、私のガラクタ箱は増えるばかり… でも街歩きの際には、そのような目線で回りを見ていくことは、結構大切なことだと思います。このすぐあとに出された「東京路上探検記」は、そのあたりに詳しい本かもしれません。

それにしてもトマソン入団決定の記事が載ったこの新聞は、ジョンレノンが亡くなった翌日だったのですね。ちょっと因縁を感じてしまいました。

追悼 赤瀬川原平さん

  • 2014.11.14 Friday
  • 05:51
赤瀬川原平さんが、先月26日に亡くなりました。享年77歳。
その頃はまだ現場がバタバタだったので、じっくり思いにふける暇がありませんでしたが、最近になってじわりと思い出してしまいました。家の中のあちこちに散らばっている本棚を探してみると、10冊ほどの著書やたくさんの雑誌が出てきました。まだありそうです。
蔵書

最初に出会ったのは、73年に創刊された『終末から』に載っていた「虚虚実実実話櫻画報」でしょう。その前身である朝日ジャーナルの『櫻画報』は、ちょうど予備校時代だったのですれ違いになっており、後から見た断片的な内容しか知らなかったのです。なのでここに復活したこともあり、さっそくこの雑誌を読み始めました。
終末から1 終末から2

  櫻画報
60年代に「梱包芸術」を展開していた原平さんは、大朝日新聞を徹底的にパロディ化して、朝日ジャーナルの中で櫻画報を始めたようです。これは60年代の「千円札裁判」で有罪になったきっかけが、朝日の記事だったことに対する意趣返しだったのかもしれません。
ところが、その内容が朝日の上層部の逆鱗に触れ、折からのジャーナル左翼誌批判に耐えかねたこともあり、朝日ジャーナルの自主回収と編集局の大粛正が行われたのです。そのきっかけとなった事件の周辺が、「終末から」にやんわりと触れられていました。

ニセ千円札
そこには次のように書かれています。
「ほら「自称前衛芸術派の若い画家」が出てるでしょう。まぁ警察というのは曲がりなりにも証拠がないと犯罪者を作れないものだろうけど、正義の味方の新聞社というものはニュースソースを明かさないというモラルによって、いつでも誰でも犯罪者に仕立て上げられるんですね。 …中略… あんたはさっき、実はいいことを言っていたのです。新聞記者が取材にいくのは、そこに世界をつくりに行くことなのだと。その世界を事件にいいなおせば、ボクにも分かりますよ。事件というものはまさに新聞がつくるものですからね」
今の朝日新聞のていたらくは、全くこの当時から変わっていないことがよく分かります。

「本来ならば、たとえば朝日新聞とか○○新聞とかいう題字の下にはいつも「これはフィクションであり、実在の人物・団体・事件とはなんの関係もありません」というただし書きがゴチックかなにかで印刷していないといけないんだけど、どの新聞を見てもみなそれをサボっているようですね」とまで書いています。千円札裁判で有罪となり、「犯罪者」となった原平さんは、のちに尾辻克彦の名で芥川賞を受賞していますが、その時に朝日新聞はどんな記事にしたのでしょうねぇ…

引っ張り出した本を積み上げているので、つい読んでしまい、帯広までの列車で一冊読んでしまいました。その中からいくつか紹介することになりそうです。
主旨

マッサンとベーマー

  • 2014.10.11 Saturday
  • 05:49
普段JRに乗らない方には無縁の雑誌かもしれませんが、車内誌の「THE JR Hokkaido」にはなかなか面白い特集があります。以前創成川特集の中でちらりと取りあげていただいたことがありましたが、その時にライターの北室かず子さんが取材に見えられました。四国のご出身ということやら、生家が代々医者であることやら、あれこれ話しているうちに、ルイス・ベーマーのことに話が飛びました。なんでそこに飛んだのか記憶にないのですが、北室さんが出した『赤れんが庁舎物語』からだったかな?
我が国の果樹や野菜、様々な作物などは、開拓使の植物培養方であったルイス・ベーマーによるものがほとんどなのに、その功績が忘れ去られているのはけしからんと、いつもの話で盛り上がったのです。そのことをしっかりと心に留めていただいていたのですね。10月の車内誌に、なんとマッサンと共に取りあげていたのです!先月末に送っていただき、ページをめくっていくと、なんでマッサンとベーマーがセットになっているのかな?と、思ってしまいます。ベーマーのことなんか知らない方には、(?_?)になってしまうことでしょう。さすが北室さん、少し強引に、でもうまーく繋げてくれたのです。

なので今日は一気の公開に踏み切りました。マッサンブームに浮かれることなく、その時代背景や余市の成り立ちにも思いをはせていただきたいものです。世の中三連休の方も多いことでしょう。じっくりと読んでみて下さい。ベーマーのことは、またしっかりと紹介しようと思います。
ページ1

ページ2

ページ3

ページ4

ページ5

ページ6

calendar

S M T W T F S
1234567
891011121314
15161718192021
22232425262728
293031    
<< December 2019 >>

selected entries

categories

archives

recent comment

links

profile

search this site.

others

mobile

qrcode

powered

無料ブログ作成サービス JUGEM