くじ運

  • 2017.01.25 Wednesday
  • 05:53
私はくじ運だけはからきしダメで、宝くじはもちろんのこと、スーパーの福引きでもほとんど当たったことがありません。なので、年賀葉書も切手シート以上が当たったことは一度もなく、そうこうしているうちに下3桁もなくなってしまい、ますます当たりが悪くなってしまいました。昨日郵便局に用事があったので、ぱらぱらと探してみることに。忙しさに取り紛れて、交換しない年もあったので、こういうのは思い立ったが吉日です。今は当たりが全部で4つしかないので、とても探しやすくなりました。すると14枚も当たっていたので、1/50の確率からすれば、当たりが多かったかもしれません。

当たり葉書
不思議なもので、14枚中下二桁(51)が12枚と、多分一番多かった数字が当たりになったようです。正月に息子が「おみくじ箸」というものを買ってきました。筒型の箱を振って割り箸を出すと、私は中吉で、宝くじを買うといいとありました。ここ数年しんどいことが多かったので、今年はいいことがあるのかもしれません♪

家の引き出しに、お年玉切手シートが詰め込まれているのを思い出し、出してみると昭和時代のものも入っていました。昭和62年(1987)といえば、4月に長男が生まれ、秋には植木屋からコンサルに転職した年でした。いろいろと賑やかな年だったなぁ。
昭和時代

中で一番派手なのが平成20年(2008)。なんでこの年だけこんな大きな切手になったのでしょうか?その前のねずみ年の地味さとは比べものになりません。次のねずみ年はあと3年なので、アメリカは大変なことになっていることでしょう。
ねずみ年

今年は酉年なので、どんな図柄かと楽しみだったけれど、なんかなぁ… ネットでは「カラフルで可愛いです!ちょっと北欧風でもあり、アジアっぽくもあり」なんて結構評判がよろしいようですが。だんだん玩具などもネタが尽きてきたので、苦労して作っているのでしょうから、もっと喜んであげなくてはいけないか。
酉年

ますむらひろし

  • 2017.01.18 Wednesday
  • 06:03
冬になると事務所に籠もりきりになることが多く、たいした話題もないときには、また我が家のガラクタ箱をひっくり返すことになります。かなりひっくり返したつもりですが、まだまだ湧き出て来るようです〜(^^;)

年末の新聞の書評欄に、懐かしい名前を見つけました。「ますむらひろし」という、何ともへんてこな漫画家です。彼の作品が流行ったのはまだ私が20代の終わり頃、流行ったといってもごく一部で熱狂的に持ち上げられただけで、ついぞメジャーになることなく、近作も全然なかったと思います。なので、知っている人はほとんどいないでしょう。
新聞記事
 (朝日新聞の朝刊から一部抜粋…   2016.12.4)

この頃に入りびたっていた飲み屋「エルフィンランド」では、この主人公のヒデヨシは完全にスターであり、背中に背負っている「猫正宗」まで委託して造っていたくらいですから…(^^;) マッチもすべてヒデヨシ印。洋さんは、ますむらさんにちゃんと断っていたそうなので、猫正宗も送っていたのかもしれません。
アタゴオル
(「アタゴオルは猫の森」ますむらひろし著、朝日ソノラマ刊第五版、1980)

ますむらさんの本は、ほぼすべて持っています。東北の出身だったこともあって、若い時から宮澤賢治に強く惹かれていたようです。銀鉄のあとがきには、「東京の下宿の一室で、賢治の文庫本を夜ごと読みふけっていたのは、二十歳の秋のことでした。」と書かれています。彼は私と同じ歳なので、ちょうど同じ頃、賢治の文庫本をお互い読みふけっていたことになります。いつも松山に帰省するときには、山線回りの急行宗谷で函館に行き、青函連絡船で青森に着くのがちょうど夜中の十二時。青森から上野行きの急行八甲田に乗るのが定番でした。当時の急行は、古い木製客車で堅くて狭いボックスシートに横になり、いつも賢治の文庫本を読みながら、真っ暗な東北本線を走っていたのです。
銀鉄
(「銀河鉄道の夜」 ますむらひろし著、朝日ソノラマ刊、1983)

なので、のちにこの賢治シリーズが出た時には、何ともいえない現実感に包まれたものでした。難解な賢治の物語が、少しは分かったような気がしたのです。

銀鉄の最後

今から思えば、二十歳の若者には、賢治の物語や詩は難解すぎます。もう一度読み返してみれば、少しは理解できるのかもしれないなぁと、この新聞記事を読みながら思ってしまいました。
風の又三郎
(「風の又三郎」 ますむらひろし著、朝日ソノラマ刊、1983)

又三郎では、ふんだんに出てくるオノマトペ(擬音語や擬態語)が、物語にリズムを付けてくれます。自然と向き合いながら、それをどう表現すれば一番身近に感じられるのか、思いを形に変えられるのか、賢治はいつも試みていたのでしょう。ますむらさんは、人間が主役になるとどぎつ過ぎてしまうことを恐れて、ネコに置き換えたのでしょうか。この試みは見事にはまっているのです。
又三郎

漫画鳥瞰圖

  • 2017.01.17 Tuesday
  • 06:00
しばらく続いた厳しい寒さがようやく緩み、少し過ごしやすくなりました。朝晩少しずつ昼間が長くなっていくのがよく分かり、まだまだ春は遠いものの、少しずつ近づいているのは確かです。

吉田発三郎による、格調高い鳥瞰図には及びもしませんが、函館の『漫画鳥瞰圖』なるものがあることを思い出しました。結婚して間もないころに、函館の義父にコピーをいただいたもので(といってもA1サイズもありますが)、大正時代末期の函館の様子がよく分かって面白いものです。1925(T14)年に、青函連絡船が直接貨車を船倉に引き込んで、貨物輸送を始めた記念の年でした。それまでははしけに積み替えて輸送していたので、ものすごく手間と時間がかかっていたのです。
漫画鳥瞰図

函館の町は、何度も大火に見舞われており、1934(S9)年の大火では、市街地の約半分、一万戸以上もの家屋を焼き尽くし、死者も2,166名を数える最大の被害を出していますが、その前が1921(T10)年の大火で、いわゆる西部地区を焼き尽くしています。その後コンクリート造の建築物が通りに面して建てられ始め、現在も数多く残って西部地区の景観を作り出しているわけです。
  函館大火
 (「函館大火と復興・再生のまちなみ」  市立函館博物館館長 田原良信氏作成資料より)

この鳥瞰圖が発行された年は、大正大火から四年、まさに復興に邁進して町に活気があった時代を反映しているものと考えられます。それにしても、この大澤観文なる人がどんな方なのか全く分からず、地元新聞に挿絵でも描いていたのでしょうか?戦前は、地図は軍事機密のため、必ず軍の検閲を受けなければ発行できません。当時の絵葉書を見ても、函館山には必ず雲がかかって、見えなくされてしまっているのです。
奥付 査閲済

湯の川までは電車が開通しているけれど、千代台を過ぎる頃には町並みがなくなり、五稜郭のお堀ではスケートや氷の切り出しが行われいたようです。亀田八幡は亀田村ですが、師範学校(現教育大函館校)までがぎりぎり絵図に載っており、函館はここまでだったわけです。
五稜郭

駅前には朝市もなければ棒二さんもなく、函館の賑わいの中心はまだ十字街にありました。それでも大森稲荷の前にあった函館(大森)遊郭に向けて、両側に映画館などがたくさんたち始めていた時期でしょう。遊郭の前には大きな門柱が立っていて、それを大門と呼んでいたことから、駅前地区全体が大門と呼ばれるようになり、その呼び名だけが残されているわけです。
大門

十字街から末広町にかけては、景観地区として現在もたくさんの建造物が残されている地区となっています。この赤丸のところがかみさんの実家のあるところで、これには寺井商店となっていますねぇ…?この建物は、1907(M40)年にリューリ商会として建てられたことになっているけれど、いろいろ調べた方によると1921(T10)〜1926(T15)に建てられたものではないかとされておりました。これが1925(T14)年に描かれたところを見ると、まだできていなかったのでしょうか??絵図としてはあんまりいい出来ではないけれど、細かく見ていくといろんな情報が見つけられそうです。
末広町

ばらの勧銀

  • 2016.11.04 Friday
  • 05:57
今年の春に松山から母を連れてくることになり、家の中から必要なものを大急ぎで荷造りしました。もともと私が住んでいた家ではないので、どこに何があるのやらよく分からず、2階の物置部屋で片っ端から箱を開けて、いるものいらないものに分けていました。古い写真が一箱出てきて、よく見て行くと戦時中に結婚した両親が、軍刀を片手にした写真が出てきたり、祖父の兄は鹿児島からアメリカに移住したのですが、ある程度落ち着いてからシアトルで撮した家族写真だったりと、びっくりするようなものが出てきて、そんなものを山ほど持ってきました。

その中に懐かしいものを見つけました。ペラペラの日本手ぬぐいですが、「ばらの勧銀」とだけ描かれています。
バラの勧銀

勧銀とは日本勧業銀行の略で、私が小学生の頃、支店長がオヤジの旧制中学時代の同級生だったこともあり、何かとつきあいがありました。毎月診療報酬の書類を医師会に持っていくのですが、その時にくっついて町に出かけたことがあります。三番町にある勧銀の支店長室に通され、白いソファーに落ち着かなく座って、二人が話しているのを見ていました。そのあと銀天街から少し入った路地にある「京六」というなじみの鮨屋に行くのが楽しみだったらしく、ひとしきり飲んで、帰りはタクシーで家まで帰りました。妙にはっきりと覚えているものです。

当時都市銀行で松山に支店があるのは勧銀しかなく、北海道に来る時に銀行口座は第一勧銀にして今に至っています。(今はみずほに変わりましたが) なので勧銀には妙に思い入れがありました。シンボルがバラで、しかもカレンダーとか手帖の表紙とか、絵はずっと熊谷守一(くまがいもりかず)が描いていました。年末のカレンダーの入れ替えは私の仕事だったので、診察室のカレンダーは必ず勧銀のもの、待合室には地元の伊予銀行のものと、それぞれ置き場所が決まっていたのです。

    バラ1
  (ネットで探してみましたが、さすがに勧銀のカレンダーは出てきませんでした。)

昭和天皇が熊谷の絵を見て、「これは何歳の子が描いたものか?」と聞いた話は有名ですが、シンプルだけど、力強い絵がとても印象的です。この手ぬぐいの絵柄は、線だけでバラを表現していて見事です。よれよれの手ぬぐい一枚ですが、額に入れておこうかな。

函館駅周辺の見どころ

  • 2016.08.11 Thursday
  • 06:00
ホテルも大門だったので、駅周辺の散歩を。6時前だというのに、ヘジャブを被った観光客がカートをゴロゴロ引っ張りながら駅に向かっていました。札幌行きの始発の特急は6:10発なので、これに乗ろうとしているのでしょう。駅前にどーんと横たわっているのが「ボーニモリヤ」。正式には「中合(なかごう) 棒二森屋店」となり、福島にあるデパートに吸収されて、その支店になっているとか。
ボーニモリヤ

元々は、今も末広町に残る「金森森屋洋物店」と、「棒二萩野呉服店」とが合併して出来たために、両方から二字ずつ取って「棒二森屋」となったものです。今でもレリーフが玄関脇に残されていました。函館では、丸井さんとぼーにさんがしのぎを削ってきたところ。苦境に晒されている地方のデパートは生き残れるのでしょうか。
屋号

道路を渡って駅前広場に入ると、歩道脇に大きな標石が二つ並んでいます。「函館市国道元標」とあり、ここから札幌に向かって国道5号が、森町に向かって278号、海を渡って青森県野辺地に向かう279号、同じく海を渡って八戸に向かう338号の起点になっているのです。札幌のことを「奥」とか「奥地」と呼んでいた函館らしい標石です。
国道元標

設置されたのは20年ほど前と新しく、さすが予算をふんだんに持っていた頃の開発局、ずいぶんと豪華なものを置いたものだと感心します。札幌にあるものは、道庁の門の脇にひっそりとある素っ気ない石標なので、ちょっとびっくりです。
銘板

特設ビール園であるグルメガーデンのところからホームを見ると、「ながまれ海峡号」が止まっていました。道南ではゆっくりしてとか楽にしてという時に使うそうですが、かみさんに聞いても「しらん」とのこと。元々は青森の言葉のようです。
ながまれ

帰りに改札口のところに行くと、JRの券売機のところに大きく「道南いさりび鉄道の券売機は改札口の左にあります」とありました。見ると本当に改札口の端っこにポツンと置かれています。ついこの間までJRの線区だったのにずいぶんと冷たい仕打ちです。
券売機

しかしこの券売機、上に大きく「1万円札、5千円札は使用できません」だと。今どきこんな券売機探すのが難しいのに、わざわざこんな不便なものを設置するのはどういう了見なのでしょう。これでは、この三セク鉄道の将来は暗いと思ってしまいました。
アップ

函館駅は、連絡船がなくなったために島式ホームから頭端式ホームへと改装され、階段の上がり下りはなくなったものの、改札口の遠いこと。特急北斗の発着するホームは一番奥のホームのため、うしろの方だとかなりの距離を歩かされることになります。ホームのすぐ向こうには、春まで青森との間を走っていた白鳥の車輌(789系)がたくさん留置されていました。交流電化区間を走る特急電車は旭川室蘭間だけなので、調べてみるとスーパーカムイの古い電車の代わりにこれを改装して更新していくのだそう。スクラップにされずに、まだ活躍できる場所があってよかったなぁ。
789系電車

小樽梁川通

  • 2016.04.10 Sunday
  • 06:10
先日十勝に出張のおり、JRの車内誌を読んでいて、おやっ!と思ったことがありました。毎度楽しみにしている渡辺敏博さんの「ズゥさんのより道まわり道」を読んでいて、「年配夫婦が切り盛りしているあずましい店で、コハダと自家製の漬け物がうまかった。」とあったので、ズゥさんも『飯鮨(いいずし)』に通っていたんだ〜と懐かしくなりました。
ズウさん

以前やったマッチのコレクションでは、札幌のものだけしか載せていなかったのですが、この『飯鮨』には私もよく通っていました。初めは友達に連れられて行ったのですが、とても気に入ったので、時々電車で通うほどでした。結婚してからは、子供を連れて日曜の夕方に行くと、じいちゃんはカウンターで仕込みしながら、ぼそぼそと話をしてくれるのです。なんでも、戦後すぐに小樽の寿司職人が戦争から帰ってこれなくて手が足りず、東京の組合にSOSが来たのだそう。それに応じて何人かが小樽にやってきたうちの、私だけが残ったんだわ〜。しゃりが小振りでとても上品。特に小さなコハダを開いて酢で締めたものを、しゃりにかぶせるように握ると、雀が止まっているように見えるので、江戸前では雀鮨っていうんだよ〜。光り物大好き人間の私には、この雀鮨は本当に美味しかったなぁ。
飯鮨
残念ながらご主人が亡くなられて閉店したあとも、オタモイの市営住宅におばあちゃんに会いに行ったこともあります。子供二人連れて行っていたので、よくおばあちゃんにかわいがられていました。いろんなことが走馬燈のように頭の中をよぎってきてしまい、ちょっとうるっとなってしまいました。梁川通には、たくさんの思い出があるのです。

昨年余市で偶然手に入れたのですが、梁川通についての立派な冊子が作られています。多分古い商店で聞けばまだ手に入るかと思いますが、28ページもある解説書で、榎本武揚の号「梁川(りょうせん)」からこの通りの名前ができたことも初めて知りました。是非これを読んで散策してみて下さい。
小樽梁川通

花の切手 その後

  • 2016.01.20 Wednesday
  • 05:52
札幌の雪は、昨日朝の23cmのままでした。その後もほとんど降らず、今朝もびくびくして起きましたが、全然積もっておりませんでした。道東やオホーツク方面はまだ荒れ模様のようで、被害などなければよいのですが。今日も雪かきお疲れさまです〜

この会社を作った時から、ここから出す郵便物に貼る切手は、ほとんど花の切手にしていました。その頃は各地で花の切手をたくさん出していたので、「信州の花」とか「越後の花」といったシリーズが簡単に手に入りました。ところが、消費税が8%になってからは、これらがすべて姿を消してしまい、新しく作られるものにも花シリーズがなくなってしまったのです。どうせすぐに10%に上がるんだから、あわてて作らなくても…ということだったのでしょうが、なかなか上がらないままに… おかげでようやく手に入れたものも、52円はこんな写真ものがあったけれど、82円は全くなくなってしまい、買い貯めていた80円切手に1円切手を2枚貼っていました。
国土緑化

それもいよいよ無くなりかけてきたので、先日中央郵便局に行った時に、特殊切手の販売コーナーでようやく見つけたのがこんなど派手な記念切手です。
ハナミズキ

別に損する訳ではないけれど、紙の無駄が多くて気が引けるので1シートだけにして、結局たくさん買ったのが昔80円で出ていたものを82円に出し直したこれです。「花ロマン・花木 北海道」シリーズという変な名前ですが。
北のロマン

ついでに、52円に面白いのがないかなとみていくと、なんとこんなシリーズがありました。いくら多肉がブームだからと言って、まさか切手になっているとは… 昨年12月の発行ですからまだあると思いますので、多肉好きの方はどうぞお早めに…(笑)
多肉植物

それにしても最近は、シール方式の切手が増えてきているようです。局員に聞いてみると、最近の女性は切手を濡らして貼るのを嫌がるために、仕方なくシールにしているようですよ〜とのことでした。そんなものなのかなぁと思いますが、ちょっと味気なく感じます。

たばこ

  • 2016.01.14 Thursday
  • 05:54
先日あった業界の新年交流会の席で、ふとテーブルの上を見ると、なんと缶ピースが置かれていました。今どきこんなものを吸う人がいるのかとびっくりしたら、その隣はロングピースを吸っていてまたびっくり。なかなか止めようとしない方はいるものですねぇ…(^^;)
缶ピース

私は生まれてこの方、タバコは1本も吸ったことがありません。オヤジがチェーンスモーカーで、障子紙もすぐに黄色くなるし、掛け時計のガラスも時々拭かないと汚れて見えにくくなるほどでした。なので子供心にタバコだけは吸わないと堅く心に決めて、そのまま現在に至っています。一番つらかったのは、35歳で植木屋からコンサルに転職した時。机に座っているだけでもつらいのに、部屋の中に眼がちかちかするほど煙が充満し、向こうの方がかすむほどのひどさで、ものすごく苦痛な日々でした。二年ほど我慢してようやく緑地部門を立ち上げて別の場所に引っ越しし、その部署は禁煙にしてようやく一息。その後会社内で力を付けるにつれて、分煙化を徹底させてようやく社内環境を改善することができました。

そんな私ですが、タバコのコレクションがあるのを思いだしてまたロフトを探索し、菓子箱一杯のコレクションを掘り出してきました。自分では集めなかったのでほとんど記憶がありませんが、高校時代くらいから切符などと共に兄の友人たちが送ってきたものだと思います。
たばこ1

この四つは沖縄のタバコ。米軍統治下の民間タバコ会社をそのまま引き継いだので、独自のブランドが流通していたものですが、うるまとバイオレットは今もあるそうです。私が大学に入った72年に沖縄が日本に復帰し、この箱が専売公社ブランドになっているところを見ると、大学時代に誰かからもらったもののよう。
たばこ2

チェリーはオヤジが最後に吸っていたタバコなので、SL好きの私のために取っておいてくれたものかもしれません。おおぞらなんてタバコがあったのですねぇ。
たばこ3

飲み屋に入りびたり始めると、回りには格好付けて洋モクを吸うのが結構いて、ジタンやゲルベゾルテが流行っていたような。なんとロシアのタバコまでありました。このほかにも葉巻からパイプタバコまで、すべてスキャンしてデータ化したのでがさばらなくなりました。それにしても、なんでも集めていたものですねぇ…(^_^;)
たばこ4

あれだけ受動喫煙していても、もう完全に分煙化されてしばらく経つので、体の中もすっかりきれいになっていることでしょう。あの紫煙たなびくひどい環境を、よく生き延びたものだと思います。

昔の広告

  • 2015.12.19 Saturday
  • 05:46
先日『面白半分』などを引っ張り出して見ていたら、記事の内容はともかく、雑誌に掲載されている広告に思わず夢中になってしまいました。なにせ約40年前の雑誌ですから、当時の世相を反映している訳です。一番ビックリしたのはなんといってもこれでしょう。(1975年9月号)

ビデオテレビ
カラーテレビが出始めたのが64年の東京オリンピックあたりとして、それから約10年。ソニーがβ方式のビデオを発売したのが75年5月なので、これはその直後の広告ということに。ビデオデッキにはまだベータとかベータマックスとも書いていないので、まだ恐る恐る売り出したところのようです。なにせ価格がものすごい。テレビが22万、デッキが23万、合わせて45万円。30分のカセットが3千円ですからね。今の金銭価値に換算すれば2〜3倍になるでしょう。

サニークーペの広告も懐かしいというか、こんな車が走り回っていたのですねぇ。まだアメ車信仰があったのでしょうか。クーペというジャンルも今はほとんど消えてしまいました。この頃までは日産サニーではなく、ダットサンサニー(DATSUN SUNNY)だったのです。(1973年10月増刊号)
サニー
ちなみに、ダットサンの由来はWikiによると「橋本増治郎が創業した 快進社自働車工場(のちに日産コンツェルンに吸収)の支援メンバーである、田健治郎の「D」、青山禄朗の「A」、竹内明太郎の「T」と、それぞれの頭文字を採り、早く走ることのたとえに使われる「脱兎(だっと)」に掛けた、「脱兎号(DAT CAR)」を始祖とする。1930年に、DATの「息子」を意味する「DATSON」を商標として掲げたが、日本語読みで「損」を連想させるため、音が同じで太陽を意味する「DATSUN」に改められた。」とのことです。海外ではいまだに「DATSUN」(発音はダッツン)の方が有名な地域もあるようです。

かつて堤清二が率いたセゾングループの中核である西武百貨店。ちょうどこの頃から高級ブランド志向が強まっていった時期でしょう。それにしてもこの広告の意欲は分かるけれど、超‘クサイ’コピーやら、ソーサーにタバコの吸い殻を放り込むなんて…すごいセンスだなぁと思ってしまいます。(1973年10月増刊号)
西武デパート

最後は思わず笑ってしまうような広告。三文雑誌じゃあるまいに、よくもこんな広告を載せたものです。500ページもの男性の医学書が無料!先着順に急送!と書いてあるので、さっそくこの「申込券」をハガキにはって今スグ出した人が何人いたのでしょうね?よく見ると、急送するのは医学書の無料進呈規定と実験者の体験記となっているのですが。この頃ならまだガリ版刷りだってあり得ますからねぇ。時代を感じさせる広告と言えるでしょうか…(笑)  (1978年1月号)
医学書

コレクションの未来…(>_<)

  • 2015.03.26 Thursday
  • 06:00
甲子園のセンバツでは、82年振りに出場した松山東が初勝利。21世紀枠での出場校ながら、しぶとく勝ってくれました。正岡子規が野球を伝えた超伝統校ではありますが、公立では愛媛一の進学校なので、いいところまでは行くものの、なかなか甲子園には手が届かなかったようです。私の父は前身の松山中学の卒業なのでOBにあたり、前回出場した82年前にちょうど卒業したばかり(その翌年?)なので、野球好きの父だけにあの世で大喜びしていることでしょう。
選抜

昨日届いた年金受給者の情報誌をめくったら、ドキッとするような特集記事がありました。今は全くコレクションには手を出していませんが、こんな日記を書いたばかりでもあるし、これまで溜め込んできたガラクタ類は、そろそろ処分しなくてはいけないかなぁ…と考えていたこともあり、この特集は耳の痛いことがいろいろありました。

コレクター1

ここに出てくるご老人たちは、お金をかけて今も溜め込み続けている方達なので、「生前整理」なんてことは絶対に難しいでしょう。それこそ生きがいが消えて、老け込んでしまうのがオチですから。私の場合は、レコードと本以外のガラクタ類は、必要なものだけスキャンしてデータ化し、できるだけ捨てていくことにしています。モノはやはり場所を取るので、最低限それだけはやっておこうと思っています。

コレクター2

切符のコレクションは、一番開けたくなかった私鉄・船関係の箱を昨日とうとう開いてしまいました。多分十数年振りのことだと思います。白い煙と共に冥界に引き込まれてしまい、なかなか抜け出すことができなくて困ってしまいました。
こんなもので苦労していたら、手強い本やレコードには手がつけられそうもなく、まだまだ生前整理にはたどり着けそうもありません。

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