植木屋時代

  • 2017.12.27 Wednesday
  • 05:45
打合せの帰りに、昔勤めていた植木屋に寄ってきました。国道から坂道を登り詰めた行き止まりにあり、この向こうは札樽道になっています。私がいた頃は事務所は国道沿いにあり、ここは資材置き場として使われていた所です。もう35年以上も昔のことになりました。
元の会社

ちょうど先輩がいたので、しばし話し込んでしまいました。もう70歳を過ぎているのですが、総務の元締めとして会社にはなくてはならない方なので、無理のない範囲で出勤されているのです。昔の現場の話になったので、まだ図面が残されているのを見てみました。30数年前に書いた図面類は、私が辞める時にそれまでの資料や図面と共にきちんと整理しておいたのです。
新十津川

よく知っていた新十津川の町長から仕事をもらい、コンサルもどきの基本計画書を作っていたのですね。今読み返すと恥ずかしくなるような文章だけど、まぎれもなく30歳頃の仕業ですから仕方ない…(>_<) ちょうど出始めのワープロが欲しくなり、40万くらいしたデスクトップ型のワープロ(ナショナル製)をローンで買い、打ち込み始めた時期に当たります。5インチのフロッピーディスクに保存する形式で、夜になるとみんな自宅に見に来てましたねぇ。そのくらい珍しかったのです。結婚したてで貧乏な生活していたのに、よくもあんな高価なものを衝動買いしたものですが、そのうち社長が会社で借り上げてくれたので、ローン地獄にはならなかったのは幸いでした。
イラスト

千歳のキリンビール園温室や回りのガーデンの図面、その翌年に施工した岩見沢公園(当時は漢字)の旧温室の植栽図も出てきました。岩見沢公園の旧温室は、なぜか写真が一枚も残っていないのでとても寂しかったのですが、この図面を見ていくと、かなり記憶が甦ってきます。
岩見沢温室

昨日の昼間、手稲方面はかなりの吹雪模様。この温室の施工をやったのも真冬で、公園周辺があまりの吹雪で帰れなくなるから早く帰れと、市の担当者に言われて、吹き溜まりを乗り越えながら必死で帰ったことを思い出してしまいました。

稲尾記念館

  • 2017.11.23 Thursday
  • 05:58
別府には都合26時間しか滞在しなかったけれど、本当にみっちりと詰まった時間を過ごしたものだと思います。いよいよフェリーの時間が迫った来た時に、わずかな時間を使って案内されたのが『稲尾記念館』でした。
  記念館

私は西鉄ライオンズの大ファンだったので、西鉄グッズはずいぶんと持っています。浪人時代をわざわざ福岡で過ごしたのも、稲尾監督時代のどん底に弱かった西鉄を応援するためだったし、稲尾が死んだときには、本当にショックを受けました。
  号外
  (西日本新聞の号外  2007年11月13日)

稲尾記念館は、別府の高台にある別府市民球場(愛称:稲尾記念球場)の中にあります。入り口には稲尾の銅像があったけれど、やはり地元だから高校生くらいの顔のように見え、私の知る稲尾にはあんまり似ていなかったなぁ。
入り口

中には稲尾が獲得した様々なトロフィーやペナントがぎっしりと。でもなんか寒々しいのです。
ペナント

こういう展示品というのは、スポーツ選手の家にはぎっしりと置かれているけれど、どれも似たり寄ったりでそこにドラマを感じません。たくさんあるだけに、よけいそう思ってしまうのでしょう。
展示


あの野武士軍団の中では、中西と稲尾は別格に好きだったけれど、どちらかというと中西のファンだったので、
今でも宝物のように大切にしまっているものがあります。もちろん稲尾だって大好きだったから、パッチンや切り抜きをあれこれ持っているけれど、一つ一つ自分の思い出が染みついているものだけに、こんなちっぽけなものの方が稲尾の姿をより思いだしてくれるように思います。
パッチン1  パッチン2

街歩きをしていても、稲尾の生家ははこのあたりとか、よくお参りに来ていた神社はここだとか、地域の方には今でも生き続けているように感じられたのが嬉しかったです。

モンブラン

  • 2017.04.09 Sunday
  • 05:56
万年筆のインクがなくなったので、セントラルまで出かけてようやく入手。先日ハンズに行ったら、うちではモンブランは取り扱っておりませんといわれ、びっくりしてしまいました。ほかは全部揃っているのに、なんでこれだけないんだろう?
インクボトル

普段はボールペンやらサインペンばかり使っていますが、手紙とかちゃんとしたものは万年筆で書くようにしています。中高生の時はオヤジの確かセーラーのお下がり、浪人時代に中国の英雄(ヒーロー)を500円くらいで買って、しばらく使っていました。それがかなり片減りして書きにくくなったので、プラチナを買ったと記憶しています。ちょうど20年前、初めて技術士に合格した時に、ある方から合格祝にプレゼントされたのがこのモンブランでした。2〜3万くらいかと思っていたら、実はその倍以上もするものだったのですね・・・(^^;)
モンブラン

ペン先に何か書いていると思っていたけれど、調べもしないで今まで来てしまってました。4810と書かれているのは品番か何かと思ったら、なんとモンブランの高さだったとは… そんなことも知らずに20年も使っていたのか…(>_<)
ペン先

箱の中に入っていた取説は、9ヶ国語で書かれており、さすが国際的な商品です。たっぷりとインクを入れると再びすらすらと書けるようになりました。本当になめらかな書き味です。このペンに見合うきれいな字を書かなければといつも思いながら、悪筆が直ることはありませんねぇ…
取説

親不孝通り

  • 2017.02.22 Wednesday
  • 05:56
ニュースを見ていたら、「親不孝通り復活決定」というのが目に入りました。せっかくなので、地元西日本新聞で見てみると、初めは「親不孝通り」だったものが、イメージが悪くなったので「親富孝通り」と言い換えていたものを、再度元に戻すことにしたんだそう… この近くにに「円山豆富店」という豆腐屋があるようなものです。
  西日本新聞
  (西日本新聞より借用しました…m(__)m  2017.2.20)

私が福岡で浪人生活をしていたのが、1971年4月から72年1月まで。札幌は遠かったし、東京や大阪はいやなので、九大のある福岡なら予備校もしっかりしてると両親を説得して、やって来たのでした。本当は西鉄ライオンズの応援ができる!!というのが一番の目的でもあったのですが…(笑) 下宿は、福岡の西の端にある姪浜(めいのはま)。当時は西鉄の市内電車の貫線という路線が、姪浜から東の端の九大前まで走っており、中心市街である天神の一つ手前の「西鉄グランドホテル前」で下りて、北に向かって細い道をぞろぞろと歩いて行きました。
マップ

当時はこの道に名前なんかついていなかったのですが、その何年か後にもう一つの予備校が近くに移転してきたことから、浪人生が一日中ぞろぞろ歩くので、「親不孝通り」という名前がついたのだそうです。私の「母校」は九州英数学舘という、大阪以西では最大の予備校で、一体何人いたんだろう?ものすごい数の浪人が西日本各地から集まっていました。調べてみると、大手予備校が進出してきて成り立たなくなり、今では外国語教育の専修学校に。札幌も似たような感じでした。

英数学館
  (Wikipediaより)

当時は那の津通りに面した大きなビルだったので、年末に走る福岡朝日マラソンの中継を見ていると、「浪人生たちが声援を送っています〜」と紹介されて懐かしかったものですが。ストリートビューで見てみると、今は空き地になってセブンが立っており、奥にあった別館だけが残っているようです。卒業生の欄を見ると、タモリや陽水が。陽水は4年上、タモリは7年上なので、意外と近かったんだ。あんまりここに出ていないところを見ると、浪人したことは誰も明かさないからなんでしょう。

  卒業生

数年前、熊本に墓参りに行ったついでに一回りして
、やっぱり懐かしい町でしたが、こんな通りには行ってみたくないですねぇ…(^^;)

ネクタイピン

  • 2017.01.31 Tuesday
  • 06:00
この時期は、それほど仕事がぎちぎちに詰まっていないため、少しは余裕があります。ちょうどかみさんが実家に帰って不在だし、ラグビーの決勝もあったので、日曜日は昼過ぎには帰宅しました。こまめもひとりぽっちで留守番させると、ものすごく寂しがるのです。ラグビーが終わってから、久しぶりに書棚などの整理を始めましたが、そういえばタンスの小物入れの引き出しがグチャグチャだったなぁと、開けてびっくり。使い古したベルトのような到底使わないものがたくさん詰まっていました。それらを片付けていくと、中からネクタイピンがいくつも出てきました。

今はネクタイも滅多にしないし、使うピンも一つあれば十分なので、こんなところを開けることもありませんでした。これは、北大の創基百周年記念に農学部でもらったものです。
百周年

卒業した年(1976(S51)年)が、札幌農学校が開校してからちょうど百年に当たっていたので、農学部を中心に結構盛り上がりました。私は一年だけ研究生で残っていたので、この式典にも参加することができたのです。ネクタイピンの形は、この時に作成した農学部の紋章から作られています。
紋章

これを作ったのは、作物育種学を習った高橋萬右衛門先生で、のちに学士院賞をもらった大先生です。でもこの謂われを見るとかなりこじつけだなぁ…と思わず苦笑してしまいました。
由来

もう一つは、それから10年後の1987(S62)年に百周年を迎えた、札幌同窓会が作ったものです。札幌同窓会というのは、出来た時には「札幌農学校同窓会」でしたが、1907(M40)年に東北帝国大学農科大学に名称が変わったときに、札幌同窓会となりました。道庁の西側にある道庁西ビルの底地をかなり持っていたため、その賃貸料があるのでこういうものを作ることができたのでしょう。最近までずっとこの名前で通していましたが、他の学部から農学部の同窓会なのに、なんで札幌なんだとか、たくさん入ってくる賃貸料は、本来全学で使うべきだから少しよこせとか、いろいろ言われ続けてきました。名前は法人改革の際に「札幌農学同窓会」と変えたけれど、賃貸料は奨学金や海外留学の支援金など、農学同窓会だけでいまだに確保しているようです…(^^;)
同窓会記念

この模様は、北大にあるクラーク像の台座に取り付けられているレリーフ。クラークは、イギリスのキューガーデンの温室でオオオニバスを見て感動し、それまでの鉱物学から植物学に転じたと言われています。
クラーク像

もう一つ出てきたのが、1990(H2)年に大阪鶴見緑地で開かれた国際花と緑の博覧会の記念品です。こんなのをもらっていたのもすっかり忘れていました。コンサルに転職してすぐ、挨拶に植物園の辻井先生の所に行ったら、ちょうどよかった、あんたに手伝ってもらいたいことがあるんだと、いきなり花博に巻き込まれてしまいました。それはまたあとで紹介するとして、私はカフスなんかしないので、一度も使っていないものですが。
花博

こういうものも、一つ一つ眺めているといろんな思い出が蘇ってくるのですが、私が死んだら形見になるようなものでもないし、やっぱりガラクタになってしまうのでしょうかねぇ。

くじ運

  • 2017.01.25 Wednesday
  • 05:53
私はくじ運だけはからきしダメで、宝くじはもちろんのこと、スーパーの福引きでもほとんど当たったことがありません。なので、年賀葉書も切手シート以上が当たったことは一度もなく、そうこうしているうちに下3桁もなくなってしまい、ますます当たりが悪くなってしまいました。昨日郵便局に用事があったので、ぱらぱらと探してみることに。忙しさに取り紛れて、交換しない年もあったので、こういうのは思い立ったが吉日です。今は当たりが全部で4つしかないので、とても探しやすくなりました。すると14枚も当たっていたので、1/50の確率からすれば、当たりが多かったかもしれません。

当たり葉書
不思議なもので、14枚中下二桁(51)が12枚と、多分一番多かった数字が当たりになったようです。正月に息子が「おみくじ箸」というものを買ってきました。筒型の箱を振って割り箸を出すと、私は中吉で、宝くじを買うといいとありました。ここ数年しんどいことが多かったので、今年はいいことがあるのかもしれません♪

家の引き出しに、お年玉切手シートが詰め込まれているのを思い出し、出してみると昭和時代のものも入っていました。昭和62年(1987)といえば、4月に長男が生まれ、秋には植木屋からコンサルに転職した年でした。いろいろと賑やかな年だったなぁ。
昭和時代

中で一番派手なのが平成20年(2008)。なんでこの年だけこんな大きな切手になったのでしょうか?その前のねずみ年の地味さとは比べものになりません。次のねずみ年はあと3年なので、アメリカは大変なことになっていることでしょう。
ねずみ年

今年は酉年なので、どんな図柄かと楽しみだったけれど、なんかなぁ… ネットでは「カラフルで可愛いです!ちょっと北欧風でもあり、アジアっぽくもあり」なんて結構評判がよろしいようですが。だんだん玩具などもネタが尽きてきたので、苦労して作っているのでしょうから、もっと喜んであげなくてはいけないか。
酉年

ますむらひろし

  • 2017.01.18 Wednesday
  • 06:03
冬になると事務所に籠もりきりになることが多く、たいした話題もないときには、また我が家のガラクタ箱をひっくり返すことになります。かなりひっくり返したつもりですが、まだまだ湧き出て来るようです〜(^^;)

年末の新聞の書評欄に、懐かしい名前を見つけました。「ますむらひろし」という、何ともへんてこな漫画家です。彼の作品が流行ったのはまだ私が20代の終わり頃、流行ったといってもごく一部で熱狂的に持ち上げられただけで、ついぞメジャーになることなく、近作も全然なかったと思います。なので、知っている人はほとんどいないでしょう。
新聞記事
 (朝日新聞の朝刊から一部抜粋…   2016.12.4)

この頃に入りびたっていた飲み屋「エルフィンランド」では、この主人公のヒデヨシは完全にスターであり、背中に背負っている「猫正宗」まで委託して造っていたくらいですから…(^^;) マッチもすべてヒデヨシ印。洋さんは、ますむらさんにちゃんと断っていたそうなので、猫正宗も送っていたのかもしれません。
アタゴオル
(「アタゴオルは猫の森」ますむらひろし著、朝日ソノラマ刊第五版、1980)

ますむらさんの本は、ほぼすべて持っています。東北の出身だったこともあって、若い時から宮澤賢治に強く惹かれていたようです。銀鉄のあとがきには、「東京の下宿の一室で、賢治の文庫本を夜ごと読みふけっていたのは、二十歳の秋のことでした。」と書かれています。彼は私と同じ歳なので、ちょうど同じ頃、賢治の文庫本をお互い読みふけっていたことになります。いつも松山に帰省するときには、山線回りの急行宗谷で函館に行き、青函連絡船で青森に着くのがちょうど夜中の十二時。青森から上野行きの急行八甲田に乗るのが定番でした。当時の急行は、古い木製客車で堅くて狭いボックスシートに横になり、いつも賢治の文庫本を読みながら、真っ暗な東北本線を走っていたのです。
銀鉄
(「銀河鉄道の夜」 ますむらひろし著、朝日ソノラマ刊、1983)

なので、のちにこの賢治シリーズが出た時には、何ともいえない現実感に包まれたものでした。難解な賢治の物語が、少しは分かったような気がしたのです。

銀鉄の最後

今から思えば、二十歳の若者には、賢治の物語や詩は難解すぎます。もう一度読み返してみれば、少しは理解できるのかもしれないなぁと、この新聞記事を読みながら思ってしまいました。
風の又三郎
(「風の又三郎」 ますむらひろし著、朝日ソノラマ刊、1983)

又三郎では、ふんだんに出てくるオノマトペ(擬音語や擬態語)が、物語にリズムを付けてくれます。自然と向き合いながら、それをどう表現すれば一番身近に感じられるのか、思いを形に変えられるのか、賢治はいつも試みていたのでしょう。ますむらさんは、人間が主役になるとどぎつ過ぎてしまうことを恐れて、ネコに置き換えたのでしょうか。この試みは見事にはまっているのです。
又三郎

漫画鳥瞰圖

  • 2017.01.17 Tuesday
  • 06:00
しばらく続いた厳しい寒さがようやく緩み、少し過ごしやすくなりました。朝晩少しずつ昼間が長くなっていくのがよく分かり、まだまだ春は遠いものの、少しずつ近づいているのは確かです。

吉田発三郎による、格調高い鳥瞰図には及びもしませんが、函館の『漫画鳥瞰圖』なるものがあることを思い出しました。結婚して間もないころに、函館の義父にコピーをいただいたもので(といってもA1サイズもありますが)、大正時代末期の函館の様子がよく分かって面白いものです。1925(T14)年に、青函連絡船が直接貨車を船倉に引き込んで、貨物輸送を始めた記念の年でした。それまでははしけに積み替えて輸送していたので、ものすごく手間と時間がかかっていたのです。
漫画鳥瞰図

函館の町は、何度も大火に見舞われており、1934(S9)年の大火では、市街地の約半分、一万戸以上もの家屋を焼き尽くし、死者も2,166名を数える最大の被害を出していますが、その前が1921(T10)年の大火で、いわゆる西部地区を焼き尽くしています。その後コンクリート造の建築物が通りに面して建てられ始め、現在も数多く残って西部地区の景観を作り出しているわけです。
  函館大火
 (「函館大火と復興・再生のまちなみ」  市立函館博物館館長 田原良信氏作成資料より)

この鳥瞰圖が発行された年は、大正大火から四年、まさに復興に邁進して町に活気があった時代を反映しているものと考えられます。それにしても、この大澤観文なる人がどんな方なのか全く分からず、地元新聞に挿絵でも描いていたのでしょうか?戦前は、地図は軍事機密のため、必ず軍の検閲を受けなければ発行できません。当時の絵葉書を見ても、函館山には必ず雲がかかって、見えなくされてしまっているのです。
奥付 査閲済

湯の川までは電車が開通しているけれど、千代台を過ぎる頃には町並みがなくなり、五稜郭のお堀ではスケートや氷の切り出しが行われいたようです。亀田八幡は亀田村ですが、師範学校(現教育大函館校)までがぎりぎり絵図に載っており、函館はここまでだったわけです。
五稜郭

駅前には朝市もなければ棒二さんもなく、函館の賑わいの中心はまだ十字街にありました。それでも大森稲荷の前にあった函館(大森)遊郭に向けて、両側に映画館などがたくさんたち始めていた時期でしょう。遊郭の前には大きな門柱が立っていて、それを大門と呼んでいたことから、駅前地区全体が大門と呼ばれるようになり、その呼び名だけが残されているわけです。
大門

十字街から末広町にかけては、景観地区として現在もたくさんの建造物が残されている地区となっています。この赤丸のところがかみさんの実家のあるところで、これには寺井商店となっていますねぇ…?この建物は、1907(M40)年にリューリ商会として建てられたことになっているけれど、いろいろ調べた方によると1921(T10)〜1926(T15)に建てられたものではないかとされておりました。これが1925(T14)年に描かれたところを見ると、まだできていなかったのでしょうか??絵図としてはあんまりいい出来ではないけれど、細かく見ていくといろんな情報が見つけられそうです。
末広町

ばらの勧銀

  • 2016.11.04 Friday
  • 05:57
今年の春に松山から母を連れてくることになり、家の中から必要なものを大急ぎで荷造りしました。もともと私が住んでいた家ではないので、どこに何があるのやらよく分からず、2階の物置部屋で片っ端から箱を開けて、いるものいらないものに分けていました。古い写真が一箱出てきて、よく見て行くと戦時中に結婚した両親が、軍刀を片手にした写真が出てきたり、祖父の兄は鹿児島からアメリカに移住したのですが、ある程度落ち着いてからシアトルで撮した家族写真だったりと、びっくりするようなものが出てきて、そんなものを山ほど持ってきました。

その中に懐かしいものを見つけました。ペラペラの日本手ぬぐいですが、「ばらの勧銀」とだけ描かれています。
バラの勧銀

勧銀とは日本勧業銀行の略で、私が小学生の頃、支店長がオヤジの旧制中学時代の同級生だったこともあり、何かとつきあいがありました。毎月診療報酬の書類を医師会に持っていくのですが、その時にくっついて町に出かけたことがあります。三番町にある勧銀の支店長室に通され、白いソファーに落ち着かなく座って、二人が話しているのを見ていました。そのあと銀天街から少し入った路地にある「京六」というなじみの鮨屋に行くのが楽しみだったらしく、ひとしきり飲んで、帰りはタクシーで家まで帰りました。妙にはっきりと覚えているものです。

当時都市銀行で松山に支店があるのは勧銀しかなく、北海道に来る時に銀行口座は第一勧銀にして今に至っています。(今はみずほに変わりましたが) なので勧銀には妙に思い入れがありました。シンボルがバラで、しかもカレンダーとか手帖の表紙とか、絵はずっと熊谷守一(くまがいもりかず)が描いていました。年末のカレンダーの入れ替えは私の仕事だったので、診察室のカレンダーは必ず勧銀のもの、待合室には地元の伊予銀行のものと、それぞれ置き場所が決まっていたのです。

    バラ1
  (ネットで探してみましたが、さすがに勧銀のカレンダーは出てきませんでした。)

昭和天皇が熊谷の絵を見て、「これは何歳の子が描いたものか?」と聞いた話は有名ですが、シンプルだけど、力強い絵がとても印象的です。この手ぬぐいの絵柄は、線だけでバラを表現していて見事です。よれよれの手ぬぐい一枚ですが、額に入れておこうかな。

函館駅周辺の見どころ

  • 2016.08.11 Thursday
  • 06:00
ホテルも大門だったので、駅周辺の散歩を。6時前だというのに、ヘジャブを被った観光客がカートをゴロゴロ引っ張りながら駅に向かっていました。札幌行きの始発の特急は6:10発なので、これに乗ろうとしているのでしょう。駅前にどーんと横たわっているのが「ボーニモリヤ」。正式には「中合(なかごう) 棒二森屋店」となり、福島にあるデパートに吸収されて、その支店になっているとか。
ボーニモリヤ

元々は、今も末広町に残る「金森森屋洋物店」と、「棒二萩野呉服店」とが合併して出来たために、両方から二字ずつ取って「棒二森屋」となったものです。今でもレリーフが玄関脇に残されていました。函館では、丸井さんとぼーにさんがしのぎを削ってきたところ。苦境に晒されている地方のデパートは生き残れるのでしょうか。
屋号

道路を渡って駅前広場に入ると、歩道脇に大きな標石が二つ並んでいます。「函館市国道元標」とあり、ここから札幌に向かって国道5号が、森町に向かって278号、海を渡って青森県野辺地に向かう279号、同じく海を渡って八戸に向かう338号の起点になっているのです。札幌のことを「奥」とか「奥地」と呼んでいた函館らしい標石です。
国道元標

設置されたのは20年ほど前と新しく、さすが予算をふんだんに持っていた頃の開発局、ずいぶんと豪華なものを置いたものだと感心します。札幌にあるものは、道庁の門の脇にひっそりとある素っ気ない石標なので、ちょっとびっくりです。
銘板

特設ビール園であるグルメガーデンのところからホームを見ると、「ながまれ海峡号」が止まっていました。道南ではゆっくりしてとか楽にしてという時に使うそうですが、かみさんに聞いても「しらん」とのこと。元々は青森の言葉のようです。
ながまれ

帰りに改札口のところに行くと、JRの券売機のところに大きく「道南いさりび鉄道の券売機は改札口の左にあります」とありました。見ると本当に改札口の端っこにポツンと置かれています。ついこの間までJRの線区だったのにずいぶんと冷たい仕打ちです。
券売機

しかしこの券売機、上に大きく「1万円札、5千円札は使用できません」だと。今どきこんな券売機探すのが難しいのに、わざわざこんな不便なものを設置するのはどういう了見なのでしょう。これでは、この三セク鉄道の将来は暗いと思ってしまいました。
アップ

函館駅は、連絡船がなくなったために島式ホームから頭端式ホームへと改装され、階段の上がり下りはなくなったものの、改札口の遠いこと。特急北斗の発着するホームは一番奥のホームのため、うしろの方だとかなりの距離を歩かされることになります。ホームのすぐ向こうには、春まで青森との間を走っていた白鳥の車輌(789系)がたくさん留置されていました。交流電化区間を走る特急電車は旭川室蘭間だけなので、調べてみるとスーパーカムイの古い電車の代わりにこれを改装して更新していくのだそう。スクラップにされずに、まだ活躍できる場所があってよかったなぁ。
789系電車

小樽梁川通

  • 2016.04.10 Sunday
  • 06:10
先日十勝に出張のおり、JRの車内誌を読んでいて、おやっ!と思ったことがありました。毎度楽しみにしている渡辺敏博さんの「ズゥさんのより道まわり道」を読んでいて、「年配夫婦が切り盛りしているあずましい店で、コハダと自家製の漬け物がうまかった。」とあったので、ズゥさんも『飯鮨(いいずし)』に通っていたんだ〜と懐かしくなりました。
ズウさん

以前やったマッチのコレクションでは、札幌のものだけしか載せていなかったのですが、この『飯鮨』には私もよく通っていました。初めは友達に連れられて行ったのですが、とても気に入ったので、時々電車で通うほどでした。結婚してからは、子供を連れて日曜の夕方に行くと、じいちゃんはカウンターで仕込みしながら、ぼそぼそと話をしてくれるのです。なんでも、戦後すぐに小樽の寿司職人が戦争から帰ってこれなくて手が足りず、東京の組合にSOSが来たのだそう。それに応じて何人かが小樽にやってきたうちの、私だけが残ったんだわ〜。しゃりが小振りでとても上品。特に小さなコハダを開いて酢で締めたものを、しゃりにかぶせるように握ると、雀が止まっているように見えるので、江戸前では雀鮨っていうんだよ〜。光り物大好き人間の私には、この雀鮨は本当に美味しかったなぁ。
飯鮨
残念ながらご主人が亡くなられて閉店したあとも、オタモイの市営住宅におばあちゃんに会いに行ったこともあります。子供二人連れて行っていたので、よくおばあちゃんにかわいがられていました。いろんなことが走馬燈のように頭の中をよぎってきてしまい、ちょっとうるっとなってしまいました。梁川通には、たくさんの思い出があるのです。

昨年余市で偶然手に入れたのですが、梁川通についての立派な冊子が作られています。多分古い商店で聞けばまだ手に入るかと思いますが、28ページもある解説書で、榎本武揚の号「梁川(りょうせん)」からこの通りの名前ができたことも初めて知りました。是非これを読んで散策してみて下さい。
小樽梁川通

花の切手 その後

  • 2016.01.20 Wednesday
  • 05:52
札幌の雪は、昨日朝の23cmのままでした。その後もほとんど降らず、今朝もびくびくして起きましたが、全然積もっておりませんでした。道東やオホーツク方面はまだ荒れ模様のようで、被害などなければよいのですが。今日も雪かきお疲れさまです〜

この会社を作った時から、ここから出す郵便物に貼る切手は、ほとんど花の切手にしていました。その頃は各地で花の切手をたくさん出していたので、「信州の花」とか「越後の花」といったシリーズが簡単に手に入りました。ところが、消費税が8%になってからは、これらがすべて姿を消してしまい、新しく作られるものにも花シリーズがなくなってしまったのです。どうせすぐに10%に上がるんだから、あわてて作らなくても…ということだったのでしょうが、なかなか上がらないままに… おかげでようやく手に入れたものも、52円はこんな写真ものがあったけれど、82円は全くなくなってしまい、買い貯めていた80円切手に1円切手を2枚貼っていました。
国土緑化

それもいよいよ無くなりかけてきたので、先日中央郵便局に行った時に、特殊切手の販売コーナーでようやく見つけたのがこんなど派手な記念切手です。
ハナミズキ

別に損する訳ではないけれど、紙の無駄が多くて気が引けるので1シートだけにして、結局たくさん買ったのが昔80円で出ていたものを82円に出し直したこれです。「花ロマン・花木 北海道」シリーズという変な名前ですが。
北のロマン

ついでに、52円に面白いのがないかなとみていくと、なんとこんなシリーズがありました。いくら多肉がブームだからと言って、まさか切手になっているとは… 昨年12月の発行ですからまだあると思いますので、多肉好きの方はどうぞお早めに…(笑)
多肉植物

それにしても最近は、シール方式の切手が増えてきているようです。局員に聞いてみると、最近の女性は切手を濡らして貼るのを嫌がるために、仕方なくシールにしているようですよ〜とのことでした。そんなものなのかなぁと思いますが、ちょっと味気なく感じます。

たばこ

  • 2016.01.14 Thursday
  • 05:54
先日あった業界の新年交流会の席で、ふとテーブルの上を見ると、なんと缶ピースが置かれていました。今どきこんなものを吸う人がいるのかとびっくりしたら、その隣はロングピースを吸っていてまたびっくり。なかなか止めようとしない方はいるものですねぇ…(^^;)
缶ピース

私は生まれてこの方、タバコは1本も吸ったことがありません。オヤジがチェーンスモーカーで、障子紙もすぐに黄色くなるし、掛け時計のガラスも時々拭かないと汚れて見えにくくなるほどでした。なので子供心にタバコだけは吸わないと堅く心に決めて、そのまま現在に至っています。一番つらかったのは、35歳で植木屋からコンサルに転職した時。机に座っているだけでもつらいのに、部屋の中に眼がちかちかするほど煙が充満し、向こうの方がかすむほどのひどさで、ものすごく苦痛な日々でした。二年ほど我慢してようやく緑地部門を立ち上げて別の場所に引っ越しし、その部署は禁煙にしてようやく一息。その後会社内で力を付けるにつれて、分煙化を徹底させてようやく社内環境を改善することができました。

そんな私ですが、タバコのコレクションがあるのを思いだしてまたロフトを探索し、菓子箱一杯のコレクションを掘り出してきました。自分では集めなかったのでほとんど記憶がありませんが、高校時代くらいから切符などと共に兄の友人たちが送ってきたものだと思います。
たばこ1

この四つは沖縄のタバコ。米軍統治下の民間タバコ会社をそのまま引き継いだので、独自のブランドが流通していたものですが、うるまとバイオレットは今もあるそうです。私が大学に入った72年に沖縄が日本に復帰し、この箱が専売公社ブランドになっているところを見ると、大学時代に誰かからもらったもののよう。
たばこ2

チェリーはオヤジが最後に吸っていたタバコなので、SL好きの私のために取っておいてくれたものかもしれません。おおぞらなんてタバコがあったのですねぇ。
たばこ3

飲み屋に入りびたり始めると、回りには格好付けて洋モクを吸うのが結構いて、ジタンやゲルベゾルテが流行っていたような。なんとロシアのタバコまでありました。このほかにも葉巻からパイプタバコまで、すべてスキャンしてデータ化したのでがさばらなくなりました。それにしても、なんでも集めていたものですねぇ…(^_^;)
たばこ4

あれだけ受動喫煙していても、もう完全に分煙化されてしばらく経つので、体の中もすっかりきれいになっていることでしょう。あの紫煙たなびくひどい環境を、よく生き延びたものだと思います。

昔の広告

  • 2015.12.19 Saturday
  • 05:46
先日『面白半分』などを引っ張り出して見ていたら、記事の内容はともかく、雑誌に掲載されている広告に思わず夢中になってしまいました。なにせ約40年前の雑誌ですから、当時の世相を反映している訳です。一番ビックリしたのはなんといってもこれでしょう。(1975年9月号)

ビデオテレビ
カラーテレビが出始めたのが64年の東京オリンピックあたりとして、それから約10年。ソニーがβ方式のビデオを発売したのが75年5月なので、これはその直後の広告ということに。ビデオデッキにはまだベータとかベータマックスとも書いていないので、まだ恐る恐る売り出したところのようです。なにせ価格がものすごい。テレビが22万、デッキが23万、合わせて45万円。30分のカセットが3千円ですからね。今の金銭価値に換算すれば2〜3倍になるでしょう。

サニークーペの広告も懐かしいというか、こんな車が走り回っていたのですねぇ。まだアメ車信仰があったのでしょうか。クーペというジャンルも今はほとんど消えてしまいました。この頃までは日産サニーではなく、ダットサンサニー(DATSUN SUNNY)だったのです。(1973年10月増刊号)
サニー
ちなみに、ダットサンの由来はWikiによると「橋本増治郎が創業した 快進社自働車工場(のちに日産コンツェルンに吸収)の支援メンバーである、田健治郎の「D」、青山禄朗の「A」、竹内明太郎の「T」と、それぞれの頭文字を採り、早く走ることのたとえに使われる「脱兎(だっと)」に掛けた、「脱兎号(DAT CAR)」を始祖とする。1930年に、DATの「息子」を意味する「DATSON」を商標として掲げたが、日本語読みで「損」を連想させるため、音が同じで太陽を意味する「DATSUN」に改められた。」とのことです。海外ではいまだに「DATSUN」(発音はダッツン)の方が有名な地域もあるようです。

かつて堤清二が率いたセゾングループの中核である西武百貨店。ちょうどこの頃から高級ブランド志向が強まっていった時期でしょう。それにしてもこの広告の意欲は分かるけれど、超‘クサイ’コピーやら、ソーサーにタバコの吸い殻を放り込むなんて…すごいセンスだなぁと思ってしまいます。(1973年10月増刊号)
西武デパート

最後は思わず笑ってしまうような広告。三文雑誌じゃあるまいに、よくもこんな広告を載せたものです。500ページもの男性の医学書が無料!先着順に急送!と書いてあるので、さっそくこの「申込券」をハガキにはって今スグ出した人が何人いたのでしょうね?よく見ると、急送するのは医学書の無料進呈規定と実験者の体験記となっているのですが。この頃ならまだガリ版刷りだってあり得ますからねぇ。時代を感じさせる広告と言えるでしょうか…(笑)  (1978年1月号)
医学書

コレクションの未来…(>_<)

  • 2015.03.26 Thursday
  • 06:00
甲子園のセンバツでは、82年振りに出場した松山東が初勝利。21世紀枠での出場校ながら、しぶとく勝ってくれました。正岡子規が野球を伝えた超伝統校ではありますが、公立では愛媛一の進学校なので、いいところまでは行くものの、なかなか甲子園には手が届かなかったようです。私の父は前身の松山中学の卒業なのでOBにあたり、前回出場した82年前にちょうど卒業したばかり(その翌年?)なので、野球好きの父だけにあの世で大喜びしていることでしょう。
選抜

昨日届いた年金受給者の情報誌をめくったら、ドキッとするような特集記事がありました。今は全くコレクションには手を出していませんが、こんな日記を書いたばかりでもあるし、これまで溜め込んできたガラクタ類は、そろそろ処分しなくてはいけないかなぁ…と考えていたこともあり、この特集は耳の痛いことがいろいろありました。

コレクター1

ここに出てくるご老人たちは、お金をかけて今も溜め込み続けている方達なので、「生前整理」なんてことは絶対に難しいでしょう。それこそ生きがいが消えて、老け込んでしまうのがオチですから。私の場合は、レコードと本以外のガラクタ類は、必要なものだけスキャンしてデータ化し、できるだけ捨てていくことにしています。モノはやはり場所を取るので、最低限それだけはやっておこうと思っています。

コレクター2

切符のコレクションは、一番開けたくなかった私鉄・船関係の箱を昨日とうとう開いてしまいました。多分十数年振りのことだと思います。白い煙と共に冥界に引き込まれてしまい、なかなか抜け出すことができなくて困ってしまいました。
こんなもので苦労していたら、手強い本やレコードには手がつけられそうもなく、まだまだ生前整理にはたどり着けそうもありません。

切符コレクション(国鉄編-2)

  • 2015.03.25 Wednesday
  • 06:08
私的コレクションは、当人にしか面白味は分からないのは承知の上で、国鉄関係の箱の中をもう少しめくってみます。よくこんなものが残っていたなぁと思ったのがこの切符でした。1958(S33)年10月9日の「平和」の特急券です。ネットで調べてみると特急平和は10月1日に誕生したばかりの寝台特急で、長崎と東京を結んでいた「さちかぜ」が、「あさかぜ」と似ているので誤乗車が続発したため、車名変更で生まれた特急とのこと。しかし翌年7月には、のちのブルートレインになる20系寝台車の導入と共に、「さくら」に改名されてしまった短命な列車だったのです。
硬券
この時私は6歳になったばかり、母の父、つまり私の祖父が亡くなったために、当時住んでいた群馬県の高崎まで父母と葬儀に行きました。母の実家は東京淀橋(現在の新宿)でしたが、戦時中の疎開で高崎に移っていたのでした。この時兄二人は小学生だったので、私だけが付いて行ったのでしょう。もちろん初めての大旅行でした。今治まで汽車で行き、瀬戸内海汽船で尾道に渡って普通列車で岡山まで行き、そこで「平和」に乗り替えています。夜中の1時20分ですから、それまでよく起きていたものです。船に乗ったのも、夜の電車に乗ったのも、もちろん寝台車に乗るのも初めてのことでした。
ベッドの幅が狭いので、母と入れ子になって足に抱きついて寝たことや、翌朝父を起こそうとカーテンをめくったら違うおじさんで、父は上段に寝ていたり、大井川や天竜川など鉄橋を渡るたびに「この川はなに川というの?」と聞きまくっていたことや、既に上の方が白かった富士山に感激したことなども鮮明に覚えています。東京では、できたばかりの東京タワー(10月14日竣工)がめちゃくちゃ格好よかったなぁ。途切れ途切れながら様々な記憶が蘇り、切符一枚でタイムマシンに乗ってしまいました…(^^;)

時代が新しくなると、厚紙でできた硬券から、印字できる軟券が増えてきます。受験の時にも松山から特急を乗り継ぎ、36時間かけてようやく札幌に着いた時には、腰が痛いとかいうのではなく、いわゆるエコノミー症候群のように体がむくんでしまったような変な状態になりました。これは試験からの帰りの切符のようですが、日本海回りの「白鳥」や急行「きたぐに」に何度乗ったことか。トワイライトのような豪華列車はまだなかったし、貧乏学生には縁がありませんでしたからねぇ。
軟券
いつも使っていたのが四国周遊券。急行までは乗り放題、有効期間20日で8,500円ですから、メチャお得でした。(以前4,800円と言ったことがありましたが、8,500円だったようです。)これは大学2年の正月に帰省した時のもので、大阪から高松まで関西汽船に乗ることもできたのです。
四国周遊券

まだ橋のなかった四国から本州に渡るのは、高松まで行って宇野までの宇高連絡船に乗るのがメインルートでした。でも松山から関西に行くのには、夜に松山港から関西汽船に乗ると、翌朝6時くらいに神戸の中突堤に着くので、これが安くて便利なルートだったように思います。あんまり宇高連絡船に乗った回数はなく、まして1時間のためにグリーン券を買うことはなかったはずなので、これは私のものではないでしょう。
宇高連絡船
上野発の急行「八甲田」に乗ると、朝の4時ころ青森に着きます。青函連絡船は4時間かかっていましたが、ここでもグリーンに乗ったことはなかったなぁ?駅に着くとみんな荷物を担いで走り始め、長い桟橋を息を切らせて駆け込んで、寝る場所を確保しなければならなかったのです。やはり急行列車ではあんまり寝られず、足を伸ばして少しでも寝られる連絡船は貴重な存在でした。
青函連絡船
今回は国鉄の箱だけ開けましたが、まだ私鉄や雑多な乗り物もあるので、開けるのを躊躇してしまいます。思い出のあるものが出てくると、その前後の記憶がいくらでも湧きだしてくるのが不思議なもの。コレクション恐るべしです。

切符コレクション(国鉄編-1)

  • 2015.03.24 Tuesday
  • 06:11
ロフトの片付けをしていて、開けてしまうと収拾がつかなくなるパンドラの箱というのは、切符のコレクションでした。台紙に貼り付けて、10cmほどの厚さの紙箱に三つ、かなりの量があります。集め始めたのは中学生の頃からで、大学生だった兄からもらった切符がきっかけだったような気がします。学校のある松山まで蒸気機関車の煤にまみれながらデッキにぶら下がって通っていたので、自然にSL好きにもなり、いわば鉄ちゃんの走りだったのでしょう。兄の友人から全国の入場券や途中下車していらなくなった切符が、続々と集まり始めました。

自分で記念切符を買い始めたのは高校になってからで、多分これあたりからのような気がします。この頃は入場券が20円、急行券でも200円と、今考えればとても安いのですが、小遣いなんかほとんどもらっていなかったので、結構高い買い物だったのでしょう。
四国鉄道80年

この頃はちょうどSLが廃止になっていく時で、毎日乗っていた列車を牽引していたC58型テンダ機関車が一番の好みでした。Cというのは動輪が三つで高速運転に向いている客車用、D51のような貨物を牽引する機関車は小径で粘着力を発揮する動輪が四つあります。テンダというのは炭水車が別になっている型式で、機関車にくっついているものをタンク車と区別していました。
消えゆくSL

そして高校3年の春に四国からはSLがすべて廃止され、ディーゼル車に置き換わってしまいました。目も開けられないほど煤にまみれていたけれど、やはりあの臭いが懐かしいです。
四国無煙化

浪人して予備校に選んだのは福岡の町。札幌は遠いし、大阪には行きたくないし、町の規模が札幌と同じくらいで予備校のレベルが高いので選んだことになっていましたが、その実は西鉄ライオンズの応援に行けるということにありました…(^^;)
電化10年
福岡の町は、黒田藩の城下の福岡と、商人の町博多が一緒になった町なので、市の名前は福岡にする代わりに、駅の名前は博多になったという経緯があります。なので、記念切符を買いに行くのは博多駅でした。

九州でもSLの廃止がどんどん進んでおり、この記念切符はかつて九州で活躍したSLが、10枚入りでずらりと載っている大変お得な記念入場券でした。
小倉駅80年

そんな福岡に行った時の切符も残っています。私の住んでいた伊予和氣から隣の堀江駅まで行き、当時まだあった国鉄仁堀(にほり)連絡船で呉の隣の仁方(にがた)に渡り、呉から特急で博多まで移動。そこから、今はなくなって地下鉄に乗り入れた筑肥線というローカルで線で、福岡の西の端にあった姪浜(めいのはま)駅までの切符です。駅員さんが時刻表とそろばん片手に苦労して作ってくれた切符でした。
姪浜行き
初めて家を離れることになるので、とても心細い旅でした。家からすぐのところにある駅に向かって歩いていて、ふと振り返ったら庭先から母がずっと見送っているいるものですから、ぐっと来てしまいました。私にとって18の春は、楽しい思い出一つなかったなぁ…

サルビアの花

  • 2015.03.23 Monday
  • 06:01
家の辺りはまだまだ雪に埋まっていますが、町中からはほぼ雪が消えてしまいました。彼岸も過ぎたので、あとは一気に暖かくなっていくのでしょうか。

このところ頭を痛めていた懸案事項に目途が付いてきたことから、精神的にも少し余裕ができました。数年間ほったらかしになっていたロフトの片付けをしたり、音楽を聴く余裕もできたので、あれこれCDを聞いていた中に、早川義夫の「サルビアの花」がありました。音楽活動を休止して本屋さんをやっていた彼が、94年に23年振りに活動を開始した時のCDに入っているものです。

この世で一番

これは、琴似のペーニーレイン24でやった復活ライブの時に、その場で買ってサインしてもらったものです。あれからもう20年も経っていたなんてと、ちょっとびっくりでしたが、久しぶりの早川さんの声にしびれたことを、昨日のように思い出してしまいました。

そうなるとオリジナルを聴かなくちゃと、本などに埋もれてしまっているレコードを掘り起こし、40年前のURC盤を探し出しました。LPも500枚以上あるので、今でもプレーヤーは生かしており、だいぶほこりが積もっていたものをきれいにして、久しぶりに聞き惚れてしまいました。

  LP表

URCレーベルとは、アングラレコードクラブの略で、岡林信康や高石友也、五つの赤い風船、はっぴいえんどなどのレコードを出していたものです。今の言葉で言えばインディーズになるのでしょうが、貴重な音源ばかりなので、今でも復刻が続けられています。ジャックス時代は東芝から出していたけれど、一部では熱狂的なファンがいたもののコマーシャルベースでは全然売れず、バンド解散後は大手からは出せなくて、ここからようやく細々と出すことができたのでしょう。ジャケットの紙質や印刷もかなりひどく、やはりマイナーな存在だったのです。

  LP裏

この中に入っていたサルビアの花は、72年に「もとまろ」という女性グループからリメイクされてヒットしました。このシングルの発売が72年4月なので、ちょうど私が札幌に住み始めた時だったのです。残念ながら家のプレーヤーではドーナツ盤が聴けないのが残念…

  もとまろ

ドーナツ盤を知っている方は多分50代以降なんでしょうか…(^。^;; いつ頃廃止になったのか分かりませんが、まだ手元に70枚くらい持っています。フォークやグループサウンズ中心なので、ブルコメやタイガース、中山千夏から和田アキ子なんてのもありますよ。参考までにこんな形のシングルレコードで、回転数はLPが33 1/3回転なのに対して45回転で、中にアダプターの円盤を入れて使っていました。いつかネタが無くなってきたら、ドーナツ盤特集があるかもしれませんよ〜
ドーナツ盤

花と野菜の切手

  • 2015.03.04 Wednesday
  • 05:51
昨日郵便局に行った際、ようやく野菜とくだものシリーズNo.3の切手を手に入れました。先日見つけたものの、窓口がメチャ混んでいたので、空いている時まで我慢と思っていたのです。手に取ってあれっと思ったのは、糊式ではなく、全部がシールになっていたのでちょっとがっかり。切手はやはり、ぴりぴりと切り離して使わなくちゃ。

野菜・花切手

この会社を作った12年前から、使用する切手はなるべく花関係のものを使うようにしています。普通の郵便局にはないので、中央郵便局の専用コーナーでまとめ買いしていました。当時は各地方の花シリーズが豊富なので、そんなに困ったことはないのですが、葉書用の50円切手はたくさん出てくるのに、封書用の80円切手が少ないのが困りもの。

   花切手50円

それでも、なんとか途切れないように、まとめ買いして使っていました。
 花切手80円
ところが、昨年消費税が上がってから、50円80円切手はこのコーナーから全く姿を消してしまったのです。2円切手はたくさん用意していたのに、肝心の切手が補充できず、52円82円の花切手も発売されないままでした。ようやく見つけたのが、国土緑化のシリーズですが、やはり写真ものは味気ないのです… 左にある春の花シリーズのボタニカルアートものは、これまでで一番素晴らしかった。これだけハイレベルの切手は、世界のどこに出してもひけはとらなかったはずです。

  花切手52円
あんまり種類を出さないのは、いずれ消費税が上がるので、その時までは適当にしのいでおけということなのでしょう。切手ごときにそんなにこだわる人もいないかもしれませんが、こんなささやかな楽しみだってあるのです〜

ガラケー復活?

  • 2015.02.12 Thursday
  • 05:58
数日前の朝日新聞に、「ガラケー復活?出荷台数7年振り増 スマホから出戻りも」なんて記事がありました。出荷台数のグラフが付いているのを見ると、ガラケーがどんどん減っているのに対し、スマホが右肩上がりで増えているのかと思いきや、12年からはなんと減少しているのにびっくり。これはちょっと意外でした。

新聞記事
 (朝日新聞DISITALから拝借)

もう一つ意外だったのが、ここに来てガラケーの出荷台数が増加し始めたということです。一昨日飲んだ友人も、とうとうスマホにしたけど便利やわぁ!とゆうてたばかり。そんなにスマホが頭打ちで、ガラケーが増えている実感は全然ありませんからねぇ。

私もガラケー+iPad(Wi-Fi)派。老眼ではないので、細かい文字を読むのは苦にならないのですが、それにしてもわざわざ出先で細かい情報を調べることもないだろうにと思っています。携帯電話は出始めからずっと使っていますが、基本的にあんまり使いたくない道具という意識がありました。ところ構わずかかってくるし、出先でも対応しなくちゃならないので、会社にいた時にはとにかく面倒という意識が染みついているのです。今ではそんなに切迫した用事も少ないし、現場以外ではほとんど事務所にいるので、あまり必要性がなくなりました。自分からはほとんどかけないし、携帯からネットに接続することも最近ではほとんどないので、存在価値は非常用電話という感じです。使用料金も多くて1,500円くらいですから、何千円もかかるスマホに代える気なんか全くありません。記事にもあるように、ガラケー人気の理由はやはり「低価格」なんでしょうねぇ。

私が使っているのはDOCOMOのP705iμという機種で、確か2008年に機種変したはずです。バッテリーは何度も交換し、外見はご覧に入れられないほど傷だらけですが、今のところ何も調子が悪くなったことがありません。
P705
この機種は、携帯史上最薄の9.8mmという薄さ軽さが最大の魅力です。普通の携帯のフタくらいの厚さしかなく、P特有のワンタッチオープンなのでとても使い勝手がいいのです。こんな機種はもう発売されそうもないので、大事にこれからも使っていこうと思っています。

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