フロッピーディスク

  • 2018.01.15 Monday
  • 05:54
先日捜し物をして、滅多に上がらないロフトのキャビネットや机の引き出しを開けてました。そうしたら懐かしいものが。5インチのフロッピーディスクです(正式には5.25インチですが)。これを開発したIBMは「Diskette」を正式名にしていたけれど、通称のフロッピー(柔らかい)ディスクのの方が通用してしまったそうです。
5インチ

30年以上前の植木屋時代、冬のヒマな時に見に行った事務用品の展示会で、当時出始めのワープロに釘付けになり、40万以上もするマシンを衝動買いしてしまいました。もちろんローンでしたが、当時の月給の何ヶ月分もするものを、よくもまぁ買ったものです。この画像の機種とは違いますが、頭にプリンターが乗っかっている、どでかいワープロでした。これにはフロッピードライブが二つ付いていて、まず左にシステムフロッピー(右の2HD、多分容量1.2MBくらい)を差し込んで起動し、次にもう1枚の記録用フロッピー(左の2DD)を差し込んで使うしくみでした。

  ワープロ

その後転職して入った会社は、コンサル部門だけでなく、オフコン部という、当時最先端のコンピューターの販売とリースも行っている会社でした。NECの代理店をしていたので、企業向けのオフィスコンピューター(オフコン)と、個人向けのパーソナルコンピューター(パソコン)の二本立てで、オフコンはこのN5200、パソコンは出たばかりのPC9800が主力でした。
N5200

N5200にはなんと8インチのフロッピー(同 1.6MB)が使われていたのです。こんな大きさで、なよなよしたディスクを扱うのですから、よくも傷ついたりほこりで読めなくなったりする事故が起きなかったものです。
8インチ

さすがにこんなディスクでは危険なので、ソニーが開発したのが3.5インチのフロッピー(同 1.44MB)でした。私はマイクロソフトが大嫌いだったので、会社の中で1人Macを使っていましたが、アップルは容量の小さなフロッピーでは対応できないと、まもなくCD(同 650MB)に移行してしまったので、3.5インチを使ったのもほんのわずかな期間だったかと。このMacフォーマットのディスクは、今となっては貴重なものかもしれません。
3.5インチ

今ではCDやDVDドライブのないノートパソコンは当たり前になっており、持ち歩いているUSBだって4GB(ギガバイト)もあるのですから、本当に隔世の感があります。私の世代は幼少時にテレビや洗濯機、冷蔵庫などが出現し、あらゆる電化製品の誕生を体現してきましたが、コンピューターの世界もずっと翻弄され続けてきたものだと、あらためて感じてしまいました。

植木屋時代

  • 2017.12.27 Wednesday
  • 05:45
打合せの帰りに、昔勤めていた植木屋に寄ってきました。国道から坂道を登り詰めた行き止まりにあり、この向こうは札樽道になっています。私がいた頃は事務所は国道沿いにあり、ここは資材置き場として使われていた所です。もう35年以上も昔のことになりました。
元の会社

ちょうど先輩がいたので、しばし話し込んでしまいました。もう70歳を過ぎているのですが、総務の元締めとして会社にはなくてはならない方なので、無理のない範囲で出勤されているのです。昔の現場の話になったので、まだ図面が残されているのを見てみました。30数年前に書いた図面類は、私が辞める時にそれまでの資料や図面と共にきちんと整理しておいたのです。
新十津川

よく知っていた新十津川の町長から仕事をもらい、コンサルもどきの基本計画書を作っていたのですね。今読み返すと恥ずかしくなるような文章だけど、まぎれもなく30歳頃の仕業ですから仕方ない…(>_<) ちょうど出始めのワープロが欲しくなり、40万くらいしたデスクトップ型のワープロ(ナショナル製)をローンで買い、打ち込み始めた時期に当たります。5インチのフロッピーディスクに保存する形式で、夜になるとみんな自宅に見に来てましたねぇ。そのくらい珍しかったのです。結婚したてで貧乏な生活していたのに、よくもあんな高価なものを衝動買いしたものですが、そのうち社長が会社で借り上げてくれたので、ローン地獄にはならなかったのは幸いでした。
イラスト

千歳のキリンビール園温室や回りのガーデンの図面、その翌年に施工した岩見沢公園(当時は漢字)の旧温室の植栽図も出てきました。岩見沢公園の旧温室は、なぜか写真が一枚も残っていないのでとても寂しかったのですが、この図面を見ていくと、かなり記憶が甦ってきます。
岩見沢温室

昨日の昼間、手稲方面はかなりの吹雪模様。この温室の施工をやったのも真冬で、公園周辺があまりの吹雪で帰れなくなるから早く帰れと、市の担当者に言われて、吹き溜まりを乗り越えながら必死で帰ったことを思い出してしまいました。

稲尾記念館

  • 2017.11.23 Thursday
  • 05:58
別府には都合26時間しか滞在しなかったけれど、本当にみっちりと詰まった時間を過ごしたものだと思います。いよいよフェリーの時間が迫った来た時に、わずかな時間を使って案内されたのが『稲尾記念館』でした。
  記念館

私は西鉄ライオンズの大ファンだったので、西鉄グッズはずいぶんと持っています。浪人時代をわざわざ福岡で過ごしたのも、稲尾監督時代のどん底に弱かった西鉄を応援するためだったし、稲尾が死んだときには、本当にショックを受けました。
  号外
  (西日本新聞の号外  2007年11月13日)

稲尾記念館は、別府の高台にある別府市民球場(愛称:稲尾記念球場)の中にあります。入り口には稲尾の銅像があったけれど、やはり地元だから高校生くらいの顔のように見え、私の知る稲尾にはあんまり似ていなかったなぁ。
入り口

中には稲尾が獲得した様々なトロフィーやペナントがぎっしりと。でもなんか寒々しいのです。
ペナント

こういう展示品というのは、スポーツ選手の家にはぎっしりと置かれているけれど、どれも似たり寄ったりでそこにドラマを感じません。たくさんあるだけに、よけいそう思ってしまうのでしょう。
展示


あの野武士軍団の中では、中西と稲尾は別格に好きだったけれど、どちらかというと中西のファンだったので、
今でも宝物のように大切にしまっているものがあります。もちろん稲尾だって大好きだったから、パッチンや切り抜きをあれこれ持っているけれど、一つ一つ自分の思い出が染みついているものだけに、こんなちっぽけなものの方が稲尾の姿をより思いだしてくれるように思います。
パッチン1  パッチン2

街歩きをしていても、稲尾の生家ははこのあたりとか、よくお参りに来ていた神社はここだとか、地域の方には今でも生き続けているように感じられたのが嬉しかったです。

モンブラン

  • 2017.04.09 Sunday
  • 05:56
万年筆のインクがなくなったので、セントラルまで出かけてようやく入手。先日ハンズに行ったら、うちではモンブランは取り扱っておりませんといわれ、びっくりしてしまいました。ほかは全部揃っているのに、なんでこれだけないんだろう?
インクボトル

普段はボールペンやらサインペンばかり使っていますが、手紙とかちゃんとしたものは万年筆で書くようにしています。中高生の時はオヤジの確かセーラーのお下がり、浪人時代に中国の英雄(ヒーロー)を500円くらいで買って、しばらく使っていました。それがかなり片減りして書きにくくなったので、プラチナを買ったと記憶しています。ちょうど20年前、初めて技術士に合格した時に、ある方から合格祝にプレゼントされたのがこのモンブランでした。2〜3万くらいかと思っていたら、実はその倍以上もするものだったのですね・・・(^^;)
モンブラン

ペン先に何か書いていると思っていたけれど、調べもしないで今まで来てしまってました。4810と書かれているのは品番か何かと思ったら、なんとモンブランの高さだったとは… そんなことも知らずに20年も使っていたのか…(>_<)
ペン先

箱の中に入っていた取説は、9ヶ国語で書かれており、さすが国際的な商品です。たっぷりとインクを入れると再びすらすらと書けるようになりました。本当になめらかな書き味です。このペンに見合うきれいな字を書かなければといつも思いながら、悪筆が直ることはありませんねぇ…
取説

親不孝通り

  • 2017.02.22 Wednesday
  • 05:56
ニュースを見ていたら、「親不孝通り復活決定」というのが目に入りました。せっかくなので、地元西日本新聞で見てみると、初めは「親不孝通り」だったものが、イメージが悪くなったので「親富孝通り」と言い換えていたものを、再度元に戻すことにしたんだそう… この近くにに「円山豆富店」という豆腐屋があるようなものです。
  西日本新聞
  (西日本新聞より借用しました…m(__)m  2017.2.20)

私が福岡で浪人生活をしていたのが、1971年4月から72年1月まで。札幌は遠かったし、東京や大阪はいやなので、九大のある福岡なら予備校もしっかりしてると両親を説得して、やって来たのでした。本当は西鉄ライオンズの応援ができる!!というのが一番の目的でもあったのですが…(笑) 下宿は、福岡の西の端にある姪浜(めいのはま)。当時は西鉄の市内電車の貫線という路線が、姪浜から東の端の九大前まで走っており、中心市街である天神の一つ手前の「西鉄グランドホテル前」で下りて、北に向かって細い道をぞろぞろと歩いて行きました。
マップ

当時はこの道に名前なんかついていなかったのですが、その何年か後にもう一つの予備校が近くに移転してきたことから、浪人生が一日中ぞろぞろ歩くので、「親不孝通り」という名前がついたのだそうです。私の「母校」は九州英数学舘という、大阪以西では最大の予備校で、一体何人いたんだろう?ものすごい数の浪人が西日本各地から集まっていました。調べてみると、大手予備校が進出してきて成り立たなくなり、今では外国語教育の専修学校に。札幌も似たような感じでした。

英数学館
  (Wikipediaより)

当時は那の津通りに面した大きなビルだったので、年末に走る福岡朝日マラソンの中継を見ていると、「浪人生たちが声援を送っています〜」と紹介されて懐かしかったものですが。ストリートビューで見てみると、今は空き地になってセブンが立っており、奥にあった別館だけが残っているようです。卒業生の欄を見ると、タモリや陽水が。陽水は4年上、タモリは7年上なので、意外と近かったんだ。あんまりここに出ていないところを見ると、浪人したことは誰も明かさないからなんでしょう。

  卒業生

数年前、熊本に墓参りに行ったついでに一回りして
、やっぱり懐かしい町でしたが、こんな通りには行ってみたくないですねぇ…(^^;)

ネクタイピン

  • 2017.01.31 Tuesday
  • 06:00
この時期は、それほど仕事がぎちぎちに詰まっていないため、少しは余裕があります。ちょうどかみさんが実家に帰って不在だし、ラグビーの決勝もあったので、日曜日は昼過ぎには帰宅しました。こまめもひとりぽっちで留守番させると、ものすごく寂しがるのです。ラグビーが終わってから、久しぶりに書棚などの整理を始めましたが、そういえばタンスの小物入れの引き出しがグチャグチャだったなぁと、開けてびっくり。使い古したベルトのような到底使わないものがたくさん詰まっていました。それらを片付けていくと、中からネクタイピンがいくつも出てきました。

今はネクタイも滅多にしないし、使うピンも一つあれば十分なので、こんなところを開けることもありませんでした。これは、北大の創基百周年記念に農学部でもらったものです。
百周年

卒業した年(1976(S51)年)が、札幌農学校が開校してからちょうど百年に当たっていたので、農学部を中心に結構盛り上がりました。私は一年だけ研究生で残っていたので、この式典にも参加することができたのです。ネクタイピンの形は、この時に作成した農学部の紋章から作られています。
紋章

これを作ったのは、作物育種学を習った高橋萬右衛門先生で、のちに学士院賞をもらった大先生です。でもこの謂われを見るとかなりこじつけだなぁ…と思わず苦笑してしまいました。
由来

もう一つは、それから10年後の1987(S62)年に百周年を迎えた、札幌同窓会が作ったものです。札幌同窓会というのは、出来た時には「札幌農学校同窓会」でしたが、1907(M40)年に東北帝国大学農科大学に名称が変わったときに、札幌同窓会となりました。道庁の西側にある道庁西ビルの底地をかなり持っていたため、その賃貸料があるのでこういうものを作ることができたのでしょう。最近までずっとこの名前で通していましたが、他の学部から農学部の同窓会なのに、なんで札幌なんだとか、たくさん入ってくる賃貸料は、本来全学で使うべきだから少しよこせとか、いろいろ言われ続けてきました。名前は法人改革の際に「札幌農学同窓会」と変えたけれど、賃貸料は奨学金や海外留学の支援金など、農学同窓会だけでいまだに確保しているようです…(^^;)
同窓会記念

この模様は、北大にあるクラーク像の台座に取り付けられているレリーフ。クラークは、イギリスのキューガーデンの温室でオオオニバスを見て感動し、それまでの鉱物学から植物学に転じたと言われています。
クラーク像

もう一つ出てきたのが、1990(H2)年に大阪鶴見緑地で開かれた国際花と緑の博覧会の記念品です。こんなのをもらっていたのもすっかり忘れていました。コンサルに転職してすぐ、挨拶に植物園の辻井先生の所に行ったら、ちょうどよかった、あんたに手伝ってもらいたいことがあるんだと、いきなり花博に巻き込まれてしまいました。それはまたあとで紹介するとして、私はカフスなんかしないので、一度も使っていないものですが。
花博

こういうものも、一つ一つ眺めているといろんな思い出が蘇ってくるのですが、私が死んだら形見になるようなものでもないし、やっぱりガラクタになってしまうのでしょうかねぇ。

くじ運

  • 2017.01.25 Wednesday
  • 05:53
私はくじ運だけはからきしダメで、宝くじはもちろんのこと、スーパーの福引きでもほとんど当たったことがありません。なので、年賀葉書も切手シート以上が当たったことは一度もなく、そうこうしているうちに下3桁もなくなってしまい、ますます当たりが悪くなってしまいました。昨日郵便局に用事があったので、ぱらぱらと探してみることに。忙しさに取り紛れて、交換しない年もあったので、こういうのは思い立ったが吉日です。今は当たりが全部で4つしかないので、とても探しやすくなりました。すると14枚も当たっていたので、1/50の確率からすれば、当たりが多かったかもしれません。

当たり葉書
不思議なもので、14枚中下二桁(51)が12枚と、多分一番多かった数字が当たりになったようです。正月に息子が「おみくじ箸」というものを買ってきました。筒型の箱を振って割り箸を出すと、私は中吉で、宝くじを買うといいとありました。ここ数年しんどいことが多かったので、今年はいいことがあるのかもしれません♪

家の引き出しに、お年玉切手シートが詰め込まれているのを思い出し、出してみると昭和時代のものも入っていました。昭和62年(1987)といえば、4月に長男が生まれ、秋には植木屋からコンサルに転職した年でした。いろいろと賑やかな年だったなぁ。
昭和時代

中で一番派手なのが平成20年(2008)。なんでこの年だけこんな大きな切手になったのでしょうか?その前のねずみ年の地味さとは比べものになりません。次のねずみ年はあと3年なので、アメリカは大変なことになっていることでしょう。
ねずみ年

今年は酉年なので、どんな図柄かと楽しみだったけれど、なんかなぁ… ネットでは「カラフルで可愛いです!ちょっと北欧風でもあり、アジアっぽくもあり」なんて結構評判がよろしいようですが。だんだん玩具などもネタが尽きてきたので、苦労して作っているのでしょうから、もっと喜んであげなくてはいけないか。
酉年

ますむらひろし

  • 2017.01.18 Wednesday
  • 06:03
冬になると事務所に籠もりきりになることが多く、たいした話題もないときには、また我が家のガラクタ箱をひっくり返すことになります。かなりひっくり返したつもりですが、まだまだ湧き出て来るようです〜(^^;)

年末の新聞の書評欄に、懐かしい名前を見つけました。「ますむらひろし」という、何ともへんてこな漫画家です。彼の作品が流行ったのはまだ私が20代の終わり頃、流行ったといってもごく一部で熱狂的に持ち上げられただけで、ついぞメジャーになることなく、近作も全然なかったと思います。なので、知っている人はほとんどいないでしょう。
新聞記事
 (朝日新聞の朝刊から一部抜粋…   2016.12.4)

この頃に入りびたっていた飲み屋「エルフィンランド」では、この主人公のヒデヨシは完全にスターであり、背中に背負っている「猫正宗」まで委託して造っていたくらいですから…(^^;) マッチもすべてヒデヨシ印。洋さんは、ますむらさんにちゃんと断っていたそうなので、猫正宗も送っていたのかもしれません。
アタゴオル
(「アタゴオルは猫の森」ますむらひろし著、朝日ソノラマ刊第五版、1980)

ますむらさんの本は、ほぼすべて持っています。東北の出身だったこともあって、若い時から宮澤賢治に強く惹かれていたようです。銀鉄のあとがきには、「東京の下宿の一室で、賢治の文庫本を夜ごと読みふけっていたのは、二十歳の秋のことでした。」と書かれています。彼は私と同じ歳なので、ちょうど同じ頃、賢治の文庫本をお互い読みふけっていたことになります。いつも松山に帰省するときには、山線回りの急行宗谷で函館に行き、青函連絡船で青森に着くのがちょうど夜中の十二時。青森から上野行きの急行八甲田に乗るのが定番でした。当時の急行は、古い木製客車で堅くて狭いボックスシートに横になり、いつも賢治の文庫本を読みながら、真っ暗な東北本線を走っていたのです。
銀鉄
(「銀河鉄道の夜」 ますむらひろし著、朝日ソノラマ刊、1983)

なので、のちにこの賢治シリーズが出た時には、何ともいえない現実感に包まれたものでした。難解な賢治の物語が、少しは分かったような気がしたのです。

銀鉄の最後

今から思えば、二十歳の若者には、賢治の物語や詩は難解すぎます。もう一度読み返してみれば、少しは理解できるのかもしれないなぁと、この新聞記事を読みながら思ってしまいました。
風の又三郎
(「風の又三郎」 ますむらひろし著、朝日ソノラマ刊、1983)

又三郎では、ふんだんに出てくるオノマトペ(擬音語や擬態語)が、物語にリズムを付けてくれます。自然と向き合いながら、それをどう表現すれば一番身近に感じられるのか、思いを形に変えられるのか、賢治はいつも試みていたのでしょう。ますむらさんは、人間が主役になるとどぎつ過ぎてしまうことを恐れて、ネコに置き換えたのでしょうか。この試みは見事にはまっているのです。
又三郎

漫画鳥瞰圖

  • 2017.01.17 Tuesday
  • 06:00
しばらく続いた厳しい寒さがようやく緩み、少し過ごしやすくなりました。朝晩少しずつ昼間が長くなっていくのがよく分かり、まだまだ春は遠いものの、少しずつ近づいているのは確かです。

吉田発三郎による、格調高い鳥瞰図には及びもしませんが、函館の『漫画鳥瞰圖』なるものがあることを思い出しました。結婚して間もないころに、函館の義父にコピーをいただいたもので(といってもA1サイズもありますが)、大正時代末期の函館の様子がよく分かって面白いものです。1925(T14)年に、青函連絡船が直接貨車を船倉に引き込んで、貨物輸送を始めた記念の年でした。それまでははしけに積み替えて輸送していたので、ものすごく手間と時間がかかっていたのです。
漫画鳥瞰図

函館の町は、何度も大火に見舞われており、1934(S9)年の大火では、市街地の約半分、一万戸以上もの家屋を焼き尽くし、死者も2,166名を数える最大の被害を出していますが、その前が1921(T10)年の大火で、いわゆる西部地区を焼き尽くしています。その後コンクリート造の建築物が通りに面して建てられ始め、現在も数多く残って西部地区の景観を作り出しているわけです。
  函館大火
 (「函館大火と復興・再生のまちなみ」  市立函館博物館館長 田原良信氏作成資料より)

この鳥瞰圖が発行された年は、大正大火から四年、まさに復興に邁進して町に活気があった時代を反映しているものと考えられます。それにしても、この大澤観文なる人がどんな方なのか全く分からず、地元新聞に挿絵でも描いていたのでしょうか?戦前は、地図は軍事機密のため、必ず軍の検閲を受けなければ発行できません。当時の絵葉書を見ても、函館山には必ず雲がかかって、見えなくされてしまっているのです。
奥付 査閲済

湯の川までは電車が開通しているけれど、千代台を過ぎる頃には町並みがなくなり、五稜郭のお堀ではスケートや氷の切り出しが行われいたようです。亀田八幡は亀田村ですが、師範学校(現教育大函館校)までがぎりぎり絵図に載っており、函館はここまでだったわけです。
五稜郭

駅前には朝市もなければ棒二さんもなく、函館の賑わいの中心はまだ十字街にありました。それでも大森稲荷の前にあった函館(大森)遊郭に向けて、両側に映画館などがたくさんたち始めていた時期でしょう。遊郭の前には大きな門柱が立っていて、それを大門と呼んでいたことから、駅前地区全体が大門と呼ばれるようになり、その呼び名だけが残されているわけです。
大門

十字街から末広町にかけては、景観地区として現在もたくさんの建造物が残されている地区となっています。この赤丸のところがかみさんの実家のあるところで、これには寺井商店となっていますねぇ…?この建物は、1907(M40)年にリューリ商会として建てられたことになっているけれど、いろいろ調べた方によると1921(T10)〜1926(T15)に建てられたものではないかとされておりました。これが1925(T14)年に描かれたところを見ると、まだできていなかったのでしょうか??絵図としてはあんまりいい出来ではないけれど、細かく見ていくといろんな情報が見つけられそうです。
末広町

ばらの勧銀

  • 2016.11.04 Friday
  • 05:57
今年の春に松山から母を連れてくることになり、家の中から必要なものを大急ぎで荷造りしました。もともと私が住んでいた家ではないので、どこに何があるのやらよく分からず、2階の物置部屋で片っ端から箱を開けて、いるものいらないものに分けていました。古い写真が一箱出てきて、よく見て行くと戦時中に結婚した両親が、軍刀を片手にした写真が出てきたり、祖父の兄は鹿児島からアメリカに移住したのですが、ある程度落ち着いてからシアトルで撮した家族写真だったりと、びっくりするようなものが出てきて、そんなものを山ほど持ってきました。

その中に懐かしいものを見つけました。ペラペラの日本手ぬぐいですが、「ばらの勧銀」とだけ描かれています。
バラの勧銀

勧銀とは日本勧業銀行の略で、私が小学生の頃、支店長がオヤジの旧制中学時代の同級生だったこともあり、何かとつきあいがありました。毎月診療報酬の書類を医師会に持っていくのですが、その時にくっついて町に出かけたことがあります。三番町にある勧銀の支店長室に通され、白いソファーに落ち着かなく座って、二人が話しているのを見ていました。そのあと銀天街から少し入った路地にある「京六」というなじみの鮨屋に行くのが楽しみだったらしく、ひとしきり飲んで、帰りはタクシーで家まで帰りました。妙にはっきりと覚えているものです。

当時都市銀行で松山に支店があるのは勧銀しかなく、北海道に来る時に銀行口座は第一勧銀にして今に至っています。(今はみずほに変わりましたが) なので勧銀には妙に思い入れがありました。シンボルがバラで、しかもカレンダーとか手帖の表紙とか、絵はずっと熊谷守一(くまがいもりかず)が描いていました。年末のカレンダーの入れ替えは私の仕事だったので、診察室のカレンダーは必ず勧銀のもの、待合室には地元の伊予銀行のものと、それぞれ置き場所が決まっていたのです。

    バラ1
  (ネットで探してみましたが、さすがに勧銀のカレンダーは出てきませんでした。)

昭和天皇が熊谷の絵を見て、「これは何歳の子が描いたものか?」と聞いた話は有名ですが、シンプルだけど、力強い絵がとても印象的です。この手ぬぐいの絵柄は、線だけでバラを表現していて見事です。よれよれの手ぬぐい一枚ですが、額に入れておこうかな。

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