サンデー毎日

  • 2020.03.21 Saturday
  • 05:45
事務所の片付けをしていて、封筒に入った古新聞と週刊誌が出てきて?? しばらく考えて、2年前に余市の娘たちが畑を購入して整地を始めた頃に手伝いに行き、物置を解体している時に出てきたものをもらってきたことを思い出しました。このサンデー毎日は1958(S33)年のもの。特大号で特価なのに、なんと40円とは。そんなに物価が安かったんでしょうか。それにしてもすごい表紙ですねぇ。

サンデー毎日

表紙をめくり裏を見てまたびっくり。全国ビスケット協会と製粉協会の全面広告で、なんともレトロというか、素朴さ満点です。私がまだ5歳なので、なんとなく雰囲気は分かりますが、四国の田舎では紅茶入れてビスケット食べるような生活ではありませんでしたねぇ。
裏表紙

本文はさておき、やっぱり面白いのが広告です。電気カミソリの「ソール」なんてネーミングがすごいし、第一電気機械株式会社なんて会社が出していたのですね。週刊誌の値段から現在の物価水準が10倍とすれば。4万円もしたのですか!
ソール

スズキ製の「コレタ号」というバイク。2サイクル125ccで125,000円。この年に発売されたホンダのスーパー・カブを調べて見ると、4サイクル49ccエンジンで、馬力はほとんど変わらないのに価格が55,000円では、カブが爆発的に売れたのがよく分かります。
スズキ

プリンス自動車の広告もありました。のちに日産と合併して日産プリンスとなっていた時期もありましたが、今は痕跡もなくなってしまいました。スカイラインはプリンスのメイン車種で、高性能エンジンを売りにしていた会社でした。
プリンス

電気冷蔵庫の広告も。我が家には木製の冷蔵庫があり、何日かおきに氷屋さんが氷の配達に来ていましたが、ちょうどこの頃に東芝製の電気冷蔵庫を購入しています。テレビ、洗濯機、炊飯器などがこの時期にどっと入って来て、一気に電化していったことを鮮明に覚えています。それにしても63,500円とは、恐ろしく高価な代物だったのですねぇ。容量がリットルではなく立方フィートとは、進駐軍時代の名残なんでしょうか?
冷蔵庫

いろいろと記憶をたどりながら、すっかり懐かしがってしまいました〜(笑)

食器への思い

  • 2020.01.05 Sunday
  • 06:03
三が日が終わると、食器類もすぐにしまわれます。このお重がいつから我が家にあるのか分からないのですが、祖母と祖父が明治の終わりに結婚すると共に熊本を離れ、山陰の餘部鉄橋建設現場の鉄道病院に数年間勤務したのち、大正の初めに松山に落ち着いているので、その頃に松山で買い求めた物ではないかと思っています。当時の引っ越し事情では、こんな重たくて割れやすいものを持って歩いたとは考えられないですから。
蓋

それからでも既に百年経っているし、私の子ども時代から既に60年も経っているので、私的には十分に骨董的な価値が積み重ねられて来ているのです。子どもの頃、母は医院の仕事が忙しいため、家事はほぼばあちゃんがやっており、中学に上がるまでは買い物から竈の火加減から(記憶の初めの頃は、まだ羽釜で飯を炊いていました)調理まで、たいていのことはマスターしておりました。お重に何をどう詰めるのか、自然に覚えていたのです。
お重1

このツルの模様が合うように、そっと持ち上げてはめていくのが、子どもの腕ではなかなか大変で、あの緊張した気分は体に染みついています。
お重2

このお椀も正月だけに登場するもので、輪島塗のしっかりしたものです。昔は座敷で宴会やったり、法事の時に親戚一同が集まって食事をするために、輪島塗のしっかりしたお膳も20客あったのですが、こちらでは使わないので、松山の親戚に10客ずつ置いて来ました。その後使うこともなかったでしょうねぇ…
お椀

輪島の世良利平作とあるので、ネットで調べてみると、ヤフオクとかに結構でてくるのです。お椀やお重がある中に、なんと薩摩藩島津家の家紋入りのお重が出品されていました。祖父は薩摩士族の出身なので、なんか因縁があったのでしょうかねぇ…

ヤフオク
世良利平

我が家を建て直した30年前に、ちょうど松山の実家も町中に引っ越しすることになり、昔の道具やちゃぶ台や食器など、軽くトラック1台分の荷物が送られてきました。それこそ火鉢が二つに石臼まで、よくもこんなに送ってきたものだと感心するほどの骨董品の山になったのです。お陰で、今も時々使っている小鉢などが食器棚に入っています。
瀬戸物1

こんなみすぼらしいものを…と言われながらも、私にとっては子どもの時から目に焼き付いている食器なので、なかなか捨てられないものです。こういうものは、遺言として処分方法も指定しておかないと、後に残されたものが困ってしまうだろうなぁ…(^^;)
瀬戸物2

絵はがき

  • 2019.12.12 Thursday
  • 05:54
昔勤めていた会社の社長が、私も何度か会ったことのある方の本を送ってくれたので、お礼の手紙を書こうと絵はがきを探し始めてしまいました。こういうのはメールでやりたくないので、なるべく葉書で済ませるのですが、官製葉書だとたくさん書かなければならないので、いつも絵はがきを使います。引き出しには多分300枚近く溜まっているはずで、どれがいいかなぁとめくり始めて、また深入りしてしまいました。
これは30年前に初めてヨーロッパに行った時、スウェーデンのエーテボリ植物園のゲストハウスに泊まった際に、園長からTシャツと共にいただいたものの最後の一枚です。
エーテボリ

これもその後、コペンハーゲンの郊外にあるミレスガーデンで買ってきたもの。もう2枚しか残っていません。ここはもう一度行きたいと思っているのですが。
ミレスガーデン

これも20年以上前のもの。ご近所にお住まいだった八木保次さん伸子さんの作品展の際に買ったもので、芸術の森ではなく、桑園の画廊でやった時に買ったはず。本当は伸子さんの絵はがきが欲しかったのに、作られていなくて仕方なく保次さんのを買った記憶があります。
八木保次さん

これは割と最近のもので、風雅舎の加地一雅さんが突然亡くなられ、大阪でお別れの会があったのですが、行けなくてお手紙を出したら、奥様からご丁寧なお手紙と共にこれが入っていたものです。もう跡形もなく消えてしまったのでしょうか…
風雅舎1
だんだん身近な人が亡くなるようになり、いろいろと考えてしまうことが増えてきました。先日亡くなった同い歳の友人の本を読んでいますが、私が存在した証しをどのように残していけばいいのかなぁ…(>_<)
風雅舎2

これは、コンサルの古い知り合いの方が作っている桜堤の絵はがき。桜が咲き始めると、半月くらい会社休んで、桜の花を追っかけていた時期がありました。いくら専務とはいえ、よくこんなことが出来るもんだとびっくりでしたが。
   桜堤
鮫島惇一さんの、植物画の絵はがきもたくさんあります。植物画も味があるけれど、あの軽妙な文章がうらやましくて、密かに練習したこともあったけれど、やっぱりにじみ出てくる味でなければ嘘臭くてあきらめました。90歳過ぎても、まだお元気のようです。
    鮫島さん
梅沢さんのカレンダーは、カットすれば絵はがきになるので、一年に7枚ずつ増えてきます。これだけで百数十枚もあるので、減るどころかどんどん増えていきます。メールに頼らず葉書を出して、せっせと減らしていこうかな。

まち文化研究所

  • 2019.11.30 Saturday
  • 05:47
昨日は「まち文化研究所」を主宰されている塚田さんが来社されました。いろんなところでの活躍はかなり昔から気にしていたので、直接いろんな話が聴けて、楽しい時間を過ごすことができました。「まち文化」とは、私たちの身近にあった銭湯・市場・商店・食堂・建物・お菓子・飲み物などの魅力を掘り起こし、記録し、その意味や価値を伝える活動をされています。
まち文化研究所

朝日新聞を取っている方は、夕刊にこんな記事があるのをご覧になっていることでしょう。お菓子編、神仏編、おみやげ編などと来て、現在は湯めぐり編になっています。
まち歩きのススメ

わざわざ訪ねて来られた理由は、以前紹介していたようなデパートの案内図が、どこを探しても見当たらず困っていたところに、私が持っていることを聞いて訪ねて来られたのでした。

五番館

今年の6月には、研究所として最初の本をまとめられ、特集は「やっぱりおやつが好き!」と、お菓子やおやつの様々な情報が掲載されています。なんと焼き印まで作られ、饅頭に押されていました。次のターゲットが「百貨店」なので資料を探していたのです。私のところに死蔵していても仕方ないので、福岡、中四国、京阪神、東京、函館の各コレクションと共に、札幌のデパートの案内図を活用していただこうと思います。
   まち文化百貨店

先週の日曜日にも、刊行記念のイベントが池内GATE店6階の書肆(しょし)吉成(よしなり)であったそうですが、2回目が来年1月にもあるそうです。銭湯の湯桶のコレクションも相当数お持ちのようなので、きっと展示されているのでは。これからの活動が楽しみです。

銭湯文化

破れ傘

  • 2019.08.22 Thursday
  • 05:43
火曜の午後、厚別区内での打合せの後、北広島にある植木村に行きました。ここの園芸店に用事があったのです。ところが着いた途端に土砂降りになり、あわてて車に積んであるビニール傘を出して差しましたが、傘が効かないほどの土砂降りでした。用事が終わって帰り道もかなりの雨が続き、傘を持っていない高校生が何人もずぶ濡れになって歩いてました。こんな天気が続くのだから、折りたたみを入れておけばいいのになぁ…

事務所に帰った頃には雨も上がり、晴れ間も見えてきたので傘を乾かそうと開いたら、骨が1本折れていました。車に乗り込む時にあわてたので、傘を引っかけたものでしょう。ううむ、残念。
先にピンクテープを巻いてあるのは、これを指し棒に使うことがあるからです。

ビニール傘

この傘は、ちょうど10年前に名古屋で買ったものです。松山に帰省した帰り道、中部空港経由で帰ることにして、名古屋の知り合いあちこち案内されて、楽しい一日を過ごしました。その翌日飛行機の飛ぶ昼過ぎまでの間、町中を見て歩こうと地下鉄から地上に上がったら雨が降り始め、駅の売店で買ったのがこのビニール傘でした。左の建物がにゃあにゃあうるさいのがいる名古屋市役所で、右の建物が苦しい言い訳をしていた方のいる愛知県庁です。どちらも戦前の帝冠様式の建物で、重要文化財に指定されているだけあって、ものすごくインパクトがありました。
名古屋

車にはもう1本ビニール傘があり、これはさらに2年古く、先輩の葬儀に出かけた千葉県市川の駅前で買ったものなので、よ〜く覚えています。ビニール傘を10年以上も使っているのは珍しいかもしれませんが、私の持っている折りたたみ傘はなんと40数年前のものです。今こんな細身の折りたたみ傘は売っていないので、黄緑色の糸を買って、繕いながら大切に使っています。
折りたたみ傘

今では伝説の店といわれるようですが、「芽瑠璃堂」というちっちゃな店が吉祥寺にありました。R&Bや初期のソゥルミュージックのいいレコードをたくさん置いてあったので、東京に寄る時には必ず足を伸ばしていました。電車を降りてガードをくぐったら雨になっていたので、駅にある商店街に引き返して買った傘です。この店は一度はなくなっていたけれど、通販で再開して、今度はリアル店舗がまた復活するとか。

芽瑠璃堂

山ほどあるLPレコードも全然聞かなくなってしまったけれど、この傘を使うたびにあの時代のことが頭をかすめてしまいます。

ガラケー

  • 2019.08.08 Thursday
  • 05:58
いつまでもガラケーを手放さないものだから、このようなDMがしょっちゅう送られてきます。ピッチに続いて早くガラケーのサービスを終えたくて仕方ないのでしょう。でもこんなのを送られても、今よりお安くなるかもしれません。なんて書かれていれば、当然胡散臭いことに気付いてしまうでしょう。

チラシ1

ページをめくると、今度は「今よりお安くなります!」と断言されていますが、私のケータイ使用料金は毎月1,302円を超えることがほとんどありません。ここに書かれている980円だって最大12ヶ月だけだし、平均したらこれより安くなるはずもないでしょう。

チラシ2

「そろそろスマホにしてみませんか!?」と、だんだん哀願調になっているけれど、私の生活の中で、スマホがどうしても必要になることがほとんどありません。自宅でも事務所でもMacとiPadが自由に使えるし、現場に出かけて調べ物することはほとんどないし、周りがみんなスマホを持っているので、それぞれ調べてもらえば済んでしまいます。

チラシ3

私は子どもの時から近視になったことがなく、いまだに1.2から1.5の視力を維持しているし、老眼にも無縁なので眼鏡をかけたことがありません。地下鉄やバスの中でよくもまぁあんな小さな文字をずっと読んでいるもんだなぁ…と感心してしまいますが、絶対に目にいいはずもないでしょう。必要な時に最低限の連絡が付けられれば、十分の機能をもっているガラケーでなんの不自由もないのです。
ガラケー
中国のようにスマホがなければ生きていけなくなるとも思えないし、何でもかんでもスマホ経由にすることが第一の目的になってしまえば、セブンのようなお粗末な結末になってしまいます。唯一懸念しているのが故障でしょうか。10数年使っているので、いつ壊れてもおかしくないのは確かです。多少の不便は我慢しても、ケータイ史上最も薄くて軽いこの機種を、まだまだ大切に使って行こうと思います。

記念硬貨

  • 2019.03.22 Friday
  • 05:45
今日は健康診断なので、昨夜はお酒を断って早く寝たら、いつもより一時間も早く目が醒めてしまいました。今年は早くも夏用のシューズに履き替えて、気持ちよく走れるようになったけれど、週末はまた冬に逆戻りしそうです。西の空低く、十六夜(いざよい)の月が雲間隠れに見えていました。これからはどんどん日が長くなると思えば、多少の寒さも我慢できそうです〜

先日発掘した宝箱の続きです。1964年の東京オリンピック記念硬貨には、千円と百円がありました。これが我が国の記念硬貨第1号だったのですね。特に千円硬貨は直径35ミリと巨大なサイズで、実用性は全くありません。富士に桜に五輪マーク、西暦に元号、アラビア数字に漢数字、TOKYO まで描き入れているので、デザイン的にはうるさくてかないません。
オリンピック千円

それに比べて百円硬貨は、今の百円と同じ22,6mmで、表には聖火台と五輪マークがあるので記念硬貨だと分かるほどでした。(硬貨は、年号が書かれているのが裏となっています。)
オリンピック百円

2番目に大きなコインが、1972年の札幌オリンピック記念百円硬貨。直径は30mmあるけれど、縁取りがシンプルなので、そんなに大きく感じません。札幌オリンピックの聖火台はこんな形だったのでしょうか?
札幌百円

1970年に大阪であった万博でも、記念の百円硬貨がありました。これはちょっと小さく28mm程度。こういうものは、当然私が買ったのではなく、親父が買ってくれたものなので、あんまり集めたという記憶がありませんでした。
expo

もう一つ直径30mmの大型硬貨は、1976年発行の在位50年記念百円硬貨です。今でも発行しているのかと、財務省のページを見てびっくり。今の天皇の在位60年には、10万円金貨が発行されていました。
在位50年1在位50年2

右側の記念硬貨は、1975年の沖縄海洋博記念硬貨で、東京オリンピック記念硬貨以来、発行されてきた記念硬貨は、ここまですべて保有していたことになります。親父もマメだったのですね。真ん中の鳳凰の百円は、1957年発行の銀貨でした。当時はまだ板垣退助の百円札が普通だったので、銀貨でもよかったのでしょうか。1957年には稲穂に代わりましたが、さすがに銀が不足してきたので、1967年に現在の白銅貨に変わったのだそうです。
百円2
百円1

普通の硬貨にも懐かしいものが。穴の空いていない50円硬貨です。子どもの頃に、稀に流通していたギザギザのある十円玉(ギザじゅう)や穴のない五円玉などは、せっせと探して集めた記憶があります。十円玉は発行されてから毎年のものを揃えていたはずだけど、いったいどこに埋もれているものだか…
50円
50円

思い出の品

  • 2019.03.19 Tuesday
  • 05:43
春分の日が近くなり、日の出がどんどん早くなっていきます。昨日の札幌の日の出は5時43分だけど、我が家は山の陰になるので、50分過ぎに山の鞍部から日が昇ってきました。これからどんどん太陽が北に寄っていき、神社山を越えるので、しばらく日の出は足踏みしてしまいます。夏至の頃になると山より左に出てくるので、3時台にはピーカンになってくるのです。
日の出

日曜日に、捜し物をしにロフトに上ってあれこれ引っかき回しているうちに、禁断の宝箱まで引っ張り出してしまいました。お菓子のブリキ箱に、子どもの頃からの宝物がぎっしり詰まっているのです。もう忘れてしまったものもあるけれど、妙にはっきり拾った時のことを覚えている石ころまで入っているので、あまり開けたくなかったのですが…。その中ではわりとオーソドックスなものが、東京オリンピックの記念メダル。親父がセットをいくつか買って、私たちに一つずつくれたのです。オリンピックは小学6年生の時で、この時からカラーテレビになったことから、いろんな試合を色付きではっきり覚えています。
オリンピックメダル

これは 1970.4.8 と彫り込まれている壁飾りで、ちょうど高校3年になったばかりです。松山市内まで二駅を汽車通をしていたので、毎日SLに引かれた長い客車に乗って通っていました。次の駅で高校2校分がどっと降りるので、私たちが乗る時が一番混んでいて、毎度デッキにぶら下がりながら乗っていました。多分その時に、ペンキが剥がれていたのをベキッと折ってきたのでしょう。当時はSLオタクだったので、牽引していたC58(しごはち)の横顔をカリカリと彫り込んだものです。
客車のペンキ

これはなんだ?としばらく分からなかったけれど、裏を見てあらら!浪人して予備校に通っていた福岡では、昼飯をすうどん一杯ですませ、100円で入れる2軍戦によく通っていました。予備校から平和台までは、十分くらいで行けたのです。小さい時からずっと西鉄ファンだったので、予備校を福岡にしたのはこのためでした。これは、その平和台球場の座席のプレートです。記憶にはありませんが、多分取れかかっていたのがあったのでしょう。もうかなり古くなっていましたから。
平和台のプレート

1軍戦は2回くらいしか行ってなくて、これはダブルヘッダーだからかなりの長丁場。下宿の仲間と一緒に、ナイターまでたっぷり楽しんできました。450円は当時としては大枚をはたいた金額でしたが、それでも安かったのですねぇ。
入場券

このメダルは、大学に入った年の10月14日が鉄道百年だったので、札幌駅で並んで買ったもの。金貨とかも出ていたようですが、貧乏学生に買えるはずもなく、これで十分でした。でも千円くらいしたのかなぁ… このほかに記念切符とかもいろいろ買っています。
鉄道100年

これをやり始めるときりがないし、自己満足の最たるものですが、こうして振り返ってみると懐かしいものばかりだなぁ…(^^;)

新旧交代

  • 2019.02.11 Monday
  • 05:48
我が家のパソコンは、相変わらず Mac を追いかけているので、事務所のメイン機が iMac、持ち歩き用が MacBook Air 、自宅には古い iBook G4 というラインナップです。この iBook は、購入が2004年か2005年とかなり古くなり、OSも10.4までしか上げられないまま、なんとか使ってきました。自宅では、朝いちにブログをアップするくらいしか使わないので、それでもなんとか間に合っていたのです。ところがOSが古いとセキュリティの関係からいろんなHPに繋がらないことが多く、天気予報とかも見ることができなくなりました。いつブログのサーバーにも繋がらなくなるのか、冷や冷やしながらの毎日でした。
iBook

先週のこと、昔よく行ってた中古屋のサイトを見てみると、3万ほどですごくいいマシンが出ていたので、即購入。OSが10.6.8と、一区切り以前なので、10.11までアップグレードし、新しくソフトを入れたり辞書を移し替えたりと細かく手入れし、ようやく昨日から入れ替えることができました。新しいマシンは、MacBook Pro で、外観もほとんど傷がなく、メモリーも4GBと十分で、家に置くのがもったいないくらい。
新旧

新旧のマシンを比べてみると、真っ白いポリカの筐体から、フルアルミに代わり、一回り大きくなっています。娘も同じ iBook から MacBook Pro の以前乗り換えているので、似たようなことをやっているのでした。これで iBook はお払い箱…という訳にはいかないのです。
外観

事務所の iMac もOSは 10.6.8 のままにしているのは、それ以上上げると使えなくなるソフトが幾つもあるからなのです。中でも、フィルムスキャナーが使えなくなるのは困るので、古いまま使っていましたが、あちこちのサイトに繋がらなくなってそろそろ限界が。そこでこの iBook をフィルムスキャナー専用のマシンとしてまだまだ働いてもらうことにしました。1980年から2000年くらいまで、リバーサルフィルムで撮したスライドが2万枚以上あり、今でもけっこうデジタル化する必要があるのです。今どきリバーサルフィルムを使う人なんてほとんどいないので、こんな苦労があるなんてメーカーには分からないでしょう。壊れないように大事に使わなくては。
スライド

これでメインマシンもOSを上げることができるので、またさくさくと動いてくれることでしょう。マシンのお守りも結構大変だけど、こればかりは自分でやるしかないのでがんばらないと。

デパート案内(函館編)

  • 2019.02.05 Tuesday
  • 05:49
ずいぶん昔に、札幌のデパートなどの案内図特集をやったことがありました。(札幌駅前編)(四番街編)(一番街編) そのうち函館や本州各地、九州などやろうと思っていて、すっかり忘れていました。

先月一杯で、函館駅前にあるボーニモリヤが閉店になったので、函館出身のかみさんはちょっと寂しそう。といっても、昔は家のすぐ近くの末広町に丸井さんがあったので、そこが遊び場になっていて、ボーニさんにはあんまり行っていなかったとか。函館市内の人よりも、道南の各地域の方が鉄道やバスで函館に出てきて、ボーニに買い物に行く方が多かったようです。
ボーニさん

アネックスの方はまだ3年くらい営業するようだけど、それだけではどれだけ集客力があるのでしょうか。札幌を除くと、道内の地場のデパートは、これで帯広の藤丸と函館の丸井さんだけになってしまいました。デパートに思い出のある世代は、もうかなり高齢化が進んでしまったようです。

ボーニモリヤ

その昔(40年くらい前)、まだ青函連絡船で移動していた時代には、松山から急行や鈍行を乗り継いで函館にたどり着くと、腰が痛くてたまらないので、一つ接続を遅らせ、函館の町をうろうろしていました。電車で移動できる町は本当に楽しくて、函館山の麓の想苑とか、五稜郭辺りまでよく行ってました。なので、こんな店内案内図もゲットしていたのです。
丸井函館

ロゴが新しくなっているので、こちらの方はかなり新しいものでしょう。本町の丸井周辺には、そんなに商店街が形成されていなかったので、こんなところでやって行けるのかなぁ…と思ってしまいました。やはり本州の町とは、町の構造がかなり違っているように思います。
新丸井函館

函館にはもう一つ、丸井さんからほど近く、梁川町に函館西武がありました。1981年に開店し、2003年に閉店しているので、道立公園の仕事で行き始めた頃にこの近くをうろうろしていたので、その時にゲットしたものでしょうか。このデパートは、来店客は車で来ることを前提にした造りになっていました。でも、ダイエーやヨーカドーが出来るに連れて、どんどん客を奪われていったのです。
  西武
一度だけ、青森で途中下車して町中をうろついたことがありました。冬だったことと、言葉がさっぱり分からなかったことを覚えているけれど、北にある函館よりも圧倒的に雪が多く、町が暗いなぁという印象が残っています。ここにはカネ長武田というデパートがあり、名前はさくら野百貨店青森本店に変わっているけれど、今でもちゃんと営業しているようです。
武田

昔のデパートは、確実に町のシンボルたり得ていたように思いますが、今はそれがなくなり、町がどんどん金太郎飴化したり、シャッター通ばかりの無表情な町になっていきました。こんなものを見返していると、ちょっと寂しくなってしまいます〜

断捨離なんて無理…

  • 2019.01.27 Sunday
  • 05:50
昨年掘り出した段ボール箱には、不要本と書かれていました。中身は北杜夫の本が十数冊と農学部時代のノートが十冊ほどあり、ノート類は捨てようと事務所に持ってきてました。山ほどある仕事のファイルを、この冬の間に思い切って整理しようと思っていたのです。
不要本

改めてファイルをよく見ると、大学2年の後期に農学部農学科に移行して、10月から始まった講義の資料でした。農学科は北大で最も古い基幹学科で、食用作物、工芸作物、作物育種、果樹・蔬菜、花卉・造園の五つの講座からなり、3年春に講座に配属されるまでは、25人が一緒の授業を受けていました。
ファイル

農業植物学の時間割が入っており、もうみなさん亡くなられてしまいましたが、主に助教授の先生が交代で講義されていたことが分かります。こんなものを広げて見ていくと、一人一人の先生方の講義の様子が、鮮明に思い出されてくるものです。
時間割

講義のテキストは、もちろん手書きだし、まだコピー機が出回り始めた時代でとても高価だったので、安いけど手間のかかる青焼き(青写真)だし、46年も経つとすっかり黄ばんでしまっています。先生方も講義資料作るのは、けっこう大変だったのでしょうね。
テキスト

講義のノートも、テキストと同じくらいたくさん挟まっていました。今よりももっと小さな字で、びっしりと書いているのにちょっとびっくり。意外と真面目だったようです〜(笑) 確かに講義をさぼった記憶はないし、なによりどの講義も面白くて、夢中になって聞き取っていたように思います。すっかり忘れてしまったことも多いけれど、こうやって見返していくと、こんなことまで習っていたのかと、改めて感心してしまいました。
ノート

さて、こんな資料がぎっしり詰まったファイルが十冊あまり。これを捨てるべきか、もう少し残しておくべきか。悩んでしまいますねぇ… 残しておいてもほとんど何の役にも立たないし、捨ててしまうのは簡単だけど、一応スキャンしてデータ化だけはしておこうかと。こんなことで悩んでいるから、書類に埋もれてしまうのでしょうねぇ…(^^;)
拡大

Google Earth

  • 2019.01.08 Tuesday
  • 06:00
先月私が走っている経路を、メチャクチャ古い航空写真で説明してしまいました。これはこれで面白いのですが、あまりにも古すぎて、今の様子がさっぱり分かりません。
昔の写真

実は Google の数多ある機能の中に、Google Earth という便利な機能があるにもかかわらず、それを起動して高度や画角、方位を調整し、画面を取り込むという作業を面倒がって、昔使ったものを引っ張り出したという次第。さすがにこれではまずいので、正月休みにきちんと撮り直しました。ちゃんと立体に見えるから不思議です。
十二軒澤

そこで、もう一度走行経路を入れ直すとこんなになりました。昨日は除雪が幹線道路しか入っていなかったので、手前のくびれたところまでしか行きませんでしたが、このユースの森を回るコースも結構な距離があることが分かります。
走行経路

これでは、いろんなことができるので、講習会の時などでよく使っています。例えば藻岩山麓から円山にかけての住宅地の様子を見る場合には、真上から高度を上げていき、入る範囲が決まったら、その時点の画像をスクリーンショットで取り込みます。この時の高度は、4,750mもありました。左から、伏見、界川、円山西町、私の住んでいる宮の森(旧十二軒澤)と、山裾をぎりぎりまで宅地化していった様子がよく分かります。こうしてみると平面のように見えますが、いずれも冬には行きたくないものすごい勾配の道路です。
円山上空

昔住んでいた界川を拡大してみると、高度はちょうど600m、格子状のきれいな区画に宅地が並んでいるけれど、縦の通りは15%くらいはある急勾配で、タクシーなんかほとんど入り口あたりでダウンしてしまい、坂道を何度登らされたことか…
界川

近くのこばやし峠のあたりを見てみると、画像取得日が2016年8月27日なので、盤渓北ノ沢トンネルが開通する半年ほど前の様子がよく分かります。冬にはあまり通りたくなかった峠越えが、トンネルが開通したことで、本当に安心して通ることができるようになりました。子どもが小さな時には、よくコバランドスキー場に送迎したものですが、今はどうなっているのでしょうね。そんなことも頭によぎっていくので、これを始めると時間を忘れてしまいます。
小林峠

これをいじっていると、モーターグライダーに乗って空を飛んでいるかのように、時間を忘れてはまってしまうのが難点といえば難点でしょうか。アースの名前の通り、世界中のどんなところにでも飛んでいけるので、旅行するよりも発見が多いかもしれません。ぜひ時間のある時に楽しんでみて下さい。

PLAYBOY

  • 2018.09.15 Saturday
  • 05:59
階段の下から発掘したものの中で、私のものは段ボール箱3つだけでしたが、そのうちの超重たい2箱に入っていたのが「日本版PLAYBOY」でした。確かにこれを買っていたのは独身時代だったけど、別に裸の女を見たくて買っていた訳ではありません。
  PLAYBOY

半分くらいはアメリカ版の翻訳物ですが、日本独自の記事に結構面白いものがありました。中でも夢中になっていたのが、藤原新也の『全東洋街道』です。今読むと、なんて細かい字がぎっしり詰まっているんだろう…とあきれるほどの文字量ですが、どうしてこんな写真が写せるんだろう?という気持ちもありました。私はニコン派だったけれど、藤原さんはオリンパスOM-2N使っていたので、身軽に撮せるのかなぁ?なんて考えていました。
全東洋街道

藤原さんは69年以降、12年もアジア各地を放浪していたそうです。処女作である「インド放浪」をはじめ、いくつか本を持っていますが、月刊誌の連載は、次はなんだろう?とわくわくする楽しみがありました。ビズにも長く連載をしていたので、覚えている方もいらっしゃることでしょう。全東洋街道は連載終了後、すぐに集英社文庫から出版されたけれど、このサイズでは訴える力が全然違います。そのうち雑誌をばらして一冊に製本しようと、全部の号を残していたんだけどなぁ…どうしよう…(>_<)
藤原新也

読みごたえのある記事は結構ありました。ベニグノ・アキノのインタビューなんて、記録としても貴重なものでしょう。このインタビューの最後に、モットーとしている言葉は?という問に、マッカーサーの『アイ・シャル・リターン』と答えています。この2年後、帰国を決意してマニラの空港に降り立ったところを、国軍兵士によって暗殺されてしまったのです。
アキノ2 アキノ1

あの頃私が一番好きだった北杜夫も、たまたま躁状態の時だったのでしょう、へんてこりんな記事を書いています。これほど躁鬱の変化の激しい作家もいないでしょうが、どちらの時も面白く、この頃出た本はすべて持っています。
北杜夫

今回階段の下には段ボール3箱だけだったけれど、三階のロフトには何十箱分もの本が詰まっています。私はその真下で寝ているので、その床が地震に耐えられるのか、ちょっと不安になってきました。事務所にある植物系の本は、なんとか行き場も見つかるだろうけれど、ロフトにある本は、私以外には単なるゴミにしかならないだろうし、そろそろ身辺整理に入らなければならないのかなぁ…

火鉢

  • 2018.09.12 Wednesday
  • 06:00
先月の末くらいから、脱衣所にある水抜き栓辺りから、かすかにシューッという音が聞こえ始めました。初めは下水管からの音かと思っていたけれど、どうみても水道管回りだし、水を使わないで水道のメーターを確認すると、パイロットという三角形の目印がくるくる回っているのです。こりゃ水栓のパッキンが壊れていると確信したけれど、かみさんの入院やら台風やら地震やらで、それどころではありませんでした。
ようやく落ち着いて来たので、修理を頼もうとしたけれど、地下に潜るための上げ蓋が階段下の床にあるため、そこに詰め込んだ荷物を出さなければなりません。日曜の午後、ようやくそれを始めました。ここに置いてあるのはほとんどが本なので、超重たい段ボールを中腰で出して行くので、腰がおかしくなりそうでした。その最後に出てきたのがこの火鉢。
火鉢

これは松山の生家の、患者待合室に置かれていた火鉢で、とても一人では持てない重たさです。50kg以上あるでしょうか。うちは田舎の開業医だったので、寒くなると毎日これにおこした炭を入れておき、これで手を炙りながら診察を待っていたのです。私自身は全く記憶がありませんが、2歳か3歳の頃、この火鉢の横で遊んでいて、頭からこれに飛び込み、大やけどを負ってしまいました。今でも右手の甲にケロイドの跡が残っていますが、子供の手の火傷としてはかなりひどかったのでしょう。私にとっては、そんな苦い思い出でのある火鉢なのです。
火鉢の中

ちょうど今の家に引っ越した頃、実家が町中に引っ越すことになり、いろんなガラクタを小さなトラック1台分くらい送ってよこしました。我が家に火鉢やら、石臼やら、もろぶたというお餅を入れる大きな木の箱が10数枚もあるのは、その時に送られたものなので、物置は古道具屋のようになっているのです。これだけはあまりに大きくて重いので、一番入れやすいここに置くことになりました。
上げ蓋

この火鉢には、ブラックジャックのような傷跡があります。ばあちゃんから聞いた話では、大正時代にこれにヒビが入って困っていたら、浜に清の船が着いて上陸してきたとのこと。(病人が出て、診察でもしに来たのかな?)この割れたヒビを見て、直せる職人を船から連れてきたそう。たちまちきれいに修理してくれて、百年経った現在でもびくともしません。これは『鎹(かすがい)継ぎ』という中国の秘法だそうで、加藤唐九郎の原色陶器大辞典では、『鎹継ぎ:割れた陶磁器を接合する一方法。割れ目に沿ってその左右に小孔を穿ち、金銀などの小鎹で緊合させる方法。中国人の特技として知られる。』とのこと。
かすがい

そんな珍しいものなんだけれど、今の家では火鉢なんか使うこともないしなぁ…この冬に停電したら、ここで炭でもおこして暖まることはできそうだけど。

お年玉年賀切手

  • 2018.03.07 Wednesday
  • 05:54
先月初めに家のロフトで捜し物をしていて、子どもの時から集めていた切手のコレクションが出てきました。その中に、お年玉年賀切手がまとめて袋に入っていたのです。最近のは居間の整理棚に詰め込んでいたので、合わせて整理してみると、一番古いものが1962(S37)年からあり、今年2018(H30)年までの57年分のうち、45年分があることが分かりました。62年といえば小学校の4年生。家に来た年賀葉書を整理して、当たっているものを郵便局で引き替えてもらっていたことをよく覚えています。昔は葉書が5円、封書が10円だったのですが、ほどなく7円と15円に値上がりしていました。
お年玉年賀切手1

中ほどの1982(S57)年から1990(H2)年というと、結婚して子ども三人が次々と生まれていた期間に当たります。末っ子だけは昭和ではなく平成生まれになりましたが、この昭和64年というのはたった一週間しかなかったのですから。貴重なものかもしれません。最後のところで41円62円になっているので、いよいよ消費税が始まったことが分かります。
お年玉年賀切手2

その後50円80円がしばらく続いてますが、2015(H27)年からは52円82円になり、今年から62円82円となった訳です。初めの頃は葉書代×4枚付いていたものが、葉書+封書代1枚ずつになったし、昔は当選番号三つ当たっていたものが最近では二つになっているので、郵便事業もますます苦しくなっていることがよく分かります。考えてみれば、葉書も封書も手間は同じくかかるわけですからねぇ。
お年玉年賀切手3

今年は喪中だったから1枚しか当たらなかったけれど、毎年10数枚当たっているので、全体だとかなりの枚数になっています。はずして使うのも面倒だし、古物商はせめて等価で引き取ってくれるのかなぁ… 我が家には、こういうものがまだまだ隠れていそうです。

月光荘

  • 2018.02.12 Monday
  • 05:48
東京の公立小学校で、アホな校長が独断で制服をアルマーニにしたと大騒ぎになっています。そのこと自体も大きな問題ですが、背景にある保護者の特権意識とか、学校のブランド化だとか、本来子どものことが最も優先されるべき学校教育に、回りからくだらないことを持ち込んでいることこそ糾弾されるべきでしょう。

その泰明小学校の報道を見て、月光荘のことを思い出してしまいました。現在の店は銀座8丁目にあるようですが、40年前にはこの小学校の目の前にあったのです。(その後倒産していろいろあったようなので、今の店が昔の直系なのかはよく分かりません。)

月光荘

月光荘とは、創業者をひいきにしていた与謝野鉄幹、晶子夫妻から贈られた短歌からとられた名前だそうです。名前も独特の響きがありましたが、なんといってもホルンのシンボルマークが格好よかったのです。
月光荘の謂われ

月光荘のことを知ったのは、学生時代にここのグッズが身の回りで流行ったことから。中でもカーキ色のキャンバス地のショルダーバッグは、シンボルマークのホルンが格好よくて、何人も持っていたように思います。こんな形でもう少し高さが低く、色的には全くこれでした。

ショルダー

絵を描く友達がたくさんいたので、ここの画材の素晴らしさは聞いていましたが、私にはあんまり用がなく、唯一必要だったのが8Bの鉛筆でした。図面を書くにも花のスケッチをするにも、こんなに滑らかな鉛筆はいまだかつて見たことがありません。最近はボカシが必要な図面を書かないので用はなくなったけれど、引き出しの中にまだ2本入っていました。

鉛筆

銀座から有楽町方面に歩いて行くと、まもなく洋書のイエナ(JENA)がありました。札幌では丸善の上くらいしか洋書がなく、植物や園芸、花関係など皆無に等しかったので、ここでは何冊も買い込んで、重たい思いをして担いで帰ったことがあります。この店もネット購入の拡大にはあらがえず、2002年に閉店になってしまったので、このしおり1枚が店の名残になってしまいました。そして、数寄屋橋のソニービルを過ぎて左に折れていくと、まもなく泰明小学校の前に月光荘があったのです。2回くらいしか行ったことはなかったけれど、こんなニュースで思い出してしまうなんて…

古い切り抜き

  • 2018.01.25 Thursday
  • 06:00
連日厳しい寒さが続きます。昨日のお昼も、空はピーカンに晴れていたけれど気温は−6℃前後。夜に帰る時には、車載の温度計で−11℃になっていました。まだまだこんな天気が続く予報になっているけれど、これを乗り切れば春がぐんと近づいてくると、しばしの辛抱です。こんな天気でも毎朝ちゃんと走ってます。面の皮というのは意外と強く、多少ピリピリするくらいでなんともないし、5分も走れば体が温まってくるので、家に帰る頃には湯気が立つくらい汗をかいています。ちゃんと服を着ている時の方が、やけに寒く感じるのは不思議なものです。

今週はガーデニング検定の作問作業。今年も8人で手分けして問題作成に当たります。前回の合格率が65%を超したので、今回は最低でも2/3の壁を越えるよう、分かりやすく解きやすい問題を心掛けています。受験申込みの締め切りは3月2日、試験対策講習会の申込み締め切りは2月16日となっていますが、今年の受験者数が少なければ、来年は打ち切りになる可能性も十分ありますので、迷っている方はぜひ受けてくださいませ。

問題を作成するに当たっては、テキストだけでなくいろんな本で確認しなければならないため、本棚のあちこちから本や図鑑の出し入ればかりやっています。久しぶりに引き出した朝日「植物の世界」の中から、黄色く変色した切り抜きの束が出てきてびっくり。これは週刊で2年ほどかけて刊行されていたので、家でやっていた切り抜きと共に会社に持って行き、そのまま綴じてしまったようです。1995年の新聞なので、まだ前の会社の最盛期頃のこと。連日飛び回っていたので、すっかり忘れてしまったものでしょう。
切り抜き

切り抜きというのは、ついつい読んでしまうものですが、今なら切り抜かないだろうなぁというものまで。当時は海岸整備事業の仕事もやっていたし、このネット式海水浴場は、函館湯の川の熱帯植物園の海岸に整備されたもので、ちょうど子供たちが小学生だったから、夏休みに里帰りした時には毎度ここで泳いでいたところなので、懐かしく見てしまいました。
海水浴場

山岳博物館なんてものもありました。岩手県大迫(おおはさま)町にある山岳博物館は、早池峰山特産のハヤチネウスユキソウがエーデルワイスに近縁であることから、日本初のエーデルワイス展をやっていました。調べてみるとこの町は平成大合併の際に花巻市と合併し、この博物館も既に老朽化のため取り壊されて、収蔵品は後継施設に収蔵されておりました。時代の流れを感じてしまいます。
山岳博物館

明治の初めに一羽だけが捕獲されたミヤコショウビンの探索ルポが、4回のシリーズで残されていました。今では同定間違いではないかといわれている鳥ですが、こんなのんびりしたルポが認められるなんて…と、まだ世間にゆとりがあった時代なんだ思ってしまいました。
ミヤコショウビン

仕事で煮詰まってしまいがちな時に、こういうものが出てくると、かなり息抜きになってくれるのがうれしいもの。もう少しなので今日もがんばらなくては。

武四郎ブーム

  • 2018.01.24 Wednesday
  • 05:45
函館でこんなサイコロキャラメルが出てるよ〜と、送ってくれました。明治の「サイコロキャラメル®」は、昨年3月で販売が終了してしまいましたが、明治の生産子会社で実際にサイコロキャラメルを製造していた道南食品が、北海道「サイコロ®」キャラメルとして販売を再開していました。それの「北海道150年事業」バージョンとして作られたものです。
サイコロキャラメル

その中に、おまけとして小さく折られた絵図が入っており、それがなんと松浦武四郎が作った『新版 蝦夷土産道中寿五六』だったのです。開道150年ではまずいので、北海道命名150年としたために、今まで見向きもされなかった武四郎に、にわかにスポットライトが当たり始めました。なんと雪まつりの雪像にも登場するとか。きっと目を白黒させていることでしょう。
  双六

振り出しはやはり「箱館湊」。現在なら津軽富士とするところを、「ナンブ山」としています。
既に開港されて、函館山の麓には外国の公館ができていたので、旗が立っているようです。
振り出し

このあと日本海岸を北上し、江刺、熊石、島古巻、岩内などを経てシャコ丹、輿市に着きます。
余市ではサケがたくさん捕れていたのでしょうか。
余市

このあともずっと日本海岸を北上を続け、なんと利尻にも立ち寄り、今度はオホーツク海沿岸を南下してヱサシ、紋別、舎利を経て根諸に到着。ここでもクナシリとエトロフの寄り道があります。このあとは太平洋岸を西進して、アツケシ、十勝、幌泉、シャマニ、ユウフツ、モロラン、ヲシャマンベ、山越内を経て上りですが、上りの場所はどこ?
上がり

ここには『奥ふかき 千島のはても 二十一ツ ふりて見玉え 蝦夷しらぬ人』との歌が書かれているけれど、アイヌの人達は、なんでこんなに楽しく踊っているのかな?

フロッピーディスク

  • 2018.01.15 Monday
  • 05:54
先日捜し物をして、滅多に上がらないロフトのキャビネットや机の引き出しを開けてました。そうしたら懐かしいものが。5インチのフロッピーディスクです(正式には5.25インチですが)。これを開発したIBMは「Diskette」を正式名にしていたけれど、通称のフロッピー(柔らかい)ディスクのの方が通用してしまったそうです。
5インチ

30年以上前の植木屋時代、冬のヒマな時に見に行った事務用品の展示会で、当時出始めのワープロに釘付けになり、40万以上もするマシンを衝動買いしてしまいました。もちろんローンでしたが、当時の月給の何ヶ月分もするものを、よくもまぁ買ったものです。この画像の機種とは違いますが、頭にプリンターが乗っかっている、どでかいワープロでした。これにはフロッピードライブが二つ付いていて、まず左にシステムフロッピー(右の2HD、多分容量1.2MBくらい)を差し込んで起動し、次にもう1枚の記録用フロッピー(左の2DD)を差し込んで使うしくみでした。

  ワープロ

その後転職して入った会社は、コンサル部門だけでなく、オフコン部という、当時最先端のコンピューターの販売とリースも行っている会社でした。NECの代理店をしていたので、企業向けのオフィスコンピューター(オフコン)と、個人向けのパーソナルコンピューター(パソコン)の二本立てで、オフコンはこのN5200、パソコンは出たばかりのPC9800が主力でした。
N5200

N5200にはなんと8インチのフロッピー(同 1.6MB)が使われていたのです。こんな大きさで、なよなよしたディスクを扱うのですから、よくも傷ついたりほこりで読めなくなったりする事故が起きなかったものです。
8インチ

さすがにこんなディスクでは危険なので、ソニーが開発したのが3.5インチのフロッピー(同 1.44MB)でした。私はマイクロソフトが大嫌いだったので、会社の中で1人Macを使っていましたが、アップルは容量の小さなフロッピーでは対応できないと、まもなくCD(同 650MB)に移行してしまったので、3.5インチを使ったのもほんのわずかな期間だったかと。このMacフォーマットのディスクは、今となっては貴重なものかもしれません。
3.5インチ

今ではCDやDVDドライブのないノートパソコンは当たり前になっており、持ち歩いているUSBだって4GB(ギガバイト)もあるのですから、本当に隔世の感があります。私の世代は幼少時にテレビや洗濯機、冷蔵庫などが出現し、あらゆる電化製品の誕生を体現してきましたが、コンピューターの世界もずっと翻弄され続けてきたものだと、あらためて感じてしまいました。

植木屋時代

  • 2017.12.27 Wednesday
  • 05:45
打合せの帰りに、昔勤めていた植木屋に寄ってきました。国道から坂道を登り詰めた行き止まりにあり、この向こうは札樽道になっています。私がいた頃は事務所は国道沿いにあり、ここは資材置き場として使われていた所です。もう35年以上も昔のことになりました。
元の会社

ちょうど先輩がいたので、しばし話し込んでしまいました。もう70歳を過ぎているのですが、総務の元締めとして会社にはなくてはならない方なので、無理のない範囲で出勤されているのです。昔の現場の話になったので、まだ図面が残されているのを見てみました。30数年前に書いた図面類は、私が辞める時にそれまでの資料や図面と共にきちんと整理しておいたのです。
新十津川

よく知っていた新十津川の町長から仕事をもらい、コンサルもどきの基本計画書を作っていたのですね。今読み返すと恥ずかしくなるような文章だけど、まぎれもなく30歳頃の仕業ですから仕方ない…(>_<) ちょうど出始めのワープロが欲しくなり、40万くらいしたデスクトップ型のワープロ(ナショナル製)をローンで買い、打ち込み始めた時期に当たります。5インチのフロッピーディスクに保存する形式で、夜になるとみんな自宅に見に来てましたねぇ。そのくらい珍しかったのです。結婚したてで貧乏な生活していたのに、よくもあんな高価なものを衝動買いしたものですが、そのうち社長が会社で借り上げてくれたので、ローン地獄にはならなかったのは幸いでした。
イラスト

千歳のキリンビール園温室や回りのガーデンの図面、その翌年に施工した岩見沢公園(当時は漢字)の旧温室の植栽図も出てきました。岩見沢公園の旧温室は、なぜか写真が一枚も残っていないのでとても寂しかったのですが、この図面を見ていくと、かなり記憶が甦ってきます。
岩見沢温室

昨日の昼間、手稲方面はかなりの吹雪模様。この温室の施工をやったのも真冬で、公園周辺があまりの吹雪で帰れなくなるから早く帰れと、市の担当者に言われて、吹き溜まりを乗り越えながら必死で帰ったことを思い出してしまいました。

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