山頭火に想う

  • 2015.01.08 Thursday
  • 08:19
なんともすさまじい吹雪でした。交通機関がメチャクチャになり、あちこちで大混乱になっています。昨夜は業界関係の新年交礼会があり、終わって事務所に帰ろうとしたら小樽方面のバスはすべて運休、手稲方面のJRバスは超満員となって、汗だくになりました。小樽から来ていた方達は、無事に帰れたのでしょうか…? 積雪量はたいしたことないけれど、強風による吹きだまりがひどく、除雪車が来たのがようやく7時過ぎ。やっとの思いで下りて来たものの、いやはや大変な朝でした。

ところで長い正月休み、家にいるとつい本棚の本を手に取ってしまいます。目が行ったのは種田山頭火の本でした。山頭火との出会いは、大学に入った夏休み、松山に帰省する途中に立ち寄って倉敷の友人宅で、二日ほどあちこちうろついたり、酒を酌み交わしていました。当時の倉敷はまだ昔のまんまで、そんなに観光地になっていなかったのがとてもよかったです。友人の母が俳人で、たくさんの句集がある中で見つけたのが山頭火の全集だったのです。
今手元にある『あの山越えて』山頭火行乞記(大山澄太編、潮文社新書、1969)を見ると、1972.8.15 松山明屋(はるや)書店となっているので、そのまま家に帰った時に手に入れたもののようです。

山頭火 分け入っても

山頭火は、この代表句に見られるよう、新傾向(自由律)の俳人です。子規の弟子のうち、高浜虚子がホトトギスに拠って正調の俳句を継承したのに対し、河東碧梧桐は新傾向(自由律)の俳句に傾倒していきました。碧梧桐と共に新傾向俳句誌「層雲」を起こしたのが荻原井泉水(せいせんすい)で、山頭火はその弟子になります。

山頭火は山口の人でしたが、放浪の末にたどり着いたのが子規の故郷松山で、ここに「一草庵」を結んで行乞と俳句の日々を過ごします。やはり子規の故郷という意識があったのかもしれないし、最大の理解者であった大山澄太氏が松山にいたことも大きかったのでしょう。しかし長年の無理がたたり、翌年(1940(S15)年)10月8日にこの世を去ってしまいます。享年58歳。こまめに書き続けていた日記は、この日が絶筆となりました。
絶筆2絶筆1
(「一草庵日記」山頭火の本12、春陽堂刊、1980 より)

一草庵はその後、顕彰会の手によって何とか維持され、最終的には松山市に移管されて回りもすっかり観光地化してしまいました。昔行った時には、本当に草庵の風情のある鄙びたたたずまいだったのに、これでは幻滅もいいところ。
サイン
建物も改修とされていますが、ほとんど建て替えてしまったようなビカビカのものになり、山頭火の思いをどれだけ汲んで整備したのやらと嘆かわしいやら腹が立つやら…
一草庵

こんな生き方は誰もできないけれど、気持ちの細やかさ、人につい甘えてしまい、それを後悔し続けるいじいじした弱さなど、身につまされる日誌となっています。引き籠もることの多い冬の間、行乞記である「あの山越えて」など、ぼちぼちと読み進むことになりそうです。
コメント
コメントする








    
この記事のトラックバックURL
トラックバック

calendar

S M T W T F S
      1
2345678
9101112131415
16171819202122
23242526272829
3031     
<< August 2020 >>

selected entries

categories

archives

recent comment

links

profile

search this site.

others

mobile

qrcode

powered

無料ブログ作成サービス JUGEM