大通公園の成り立ち

  • 2013.07.19 Friday
  • 07:12
昨日は、関東以西の方には申し訳ないような、カラッと涼しい一日でした。夏なんだから、少しは暑い方が…なんてぜいたく言ったら叱られそうですが、今年の夏はいつ頃まででしょうか。(そういえば、去年はいつまでも暑かったですねぇ…)

今日も滝野で、フラワーガイドボランティアの第5次研修です。熱心な方が集まっているので、しっかりとお話ししてこようと思います。実は、滝野公園と平行して、大通公園でもガイドボランティアの研修が始まりました。17日に第一回目の講習をやってきたのですが、なんだか見たことのあるような方がたくさんいましたねぇ…(^。^;;

大通公園は札幌のど真ん中。やはり町の成り立ちからお話ししなければなりません。かなりはしょりましたが、明治の初めに、どんな人が、どのようにしてこの町を形作っていったのか、知っておいて欲しかったのです。ここで詳しく解説していくと、多分一月分くらいかかりそうなので、そのさわりだけ。

明治2年の冬(新暦の12月12日)に、本府建設に乗り込んできた島義勇(よしたけ)主席判官達は、厳寒の中いろいろと施設を作っていきましたが、資材調達のために資金を注ぎ込みすぎ、東京にいる長官から資金を浪費したと難癖をつけられ、わずか百日あまりで首になって札幌を離れてしまいます。(なんでそんな時期にわざわざと思いますけれど…) 建設も一時頓挫してしまいますが、その後を継いだ岩村通俊(みちとし)判官によって、明治4年と5年にかけて、現在の札幌の特徴でもある、格子状の街路形態が作られました。
明治4年
(「明治四年及五年札幌市街之圖」さっぽろ文庫別冊「札幌歴史地図(明治編)」より)

この時、本庁のある北側を官地、南側を民地とし、その間に火防線を設定しているのです。これは島の残した『石狩国本府指圖』に原形があるのですが、京風の図面とは全く異なり、このような格子状街路にした本意がどこにあったのか?是非岩村さんに聞いてみたいところです。
本府指図
(島の残した[石狩国本府指圖]北海道デジタル図鑑、北海道、2005 より…m(__)m )

明治八年の地図を見ると、さらにそのあたりの意図がはっきりしてきます。
明治8年
(「明治八年札幌市街圖」さっぽろ文庫別冊「札幌歴史地図(明治編)」より)
北の官地の道路は、東西幅15間、南北13間あり、本庁の回りは何と20間も取られているのです。この時の本庁敷地は、現在の道庁敷地より一回り大きく、現在の北一条〜北五条まで、駅前通から植物園前までありました。北1条通が、西4丁目から西7丁目までは広々しているのに、STVのところから急に狭くなるのは、実はこの名残だったのです。
幅60間の火防線を挟んで、南側の道路は13間〜11間と狭く、ここで火事が発生すれば、確かに危険だったことでしょう。この60間という幅は、当時の鉄砲の弾の飛距離から割り出されたという説もあるので、官地の防御を意図していたのかもしれません。

ともあれ、この幅の広い空地は、道路としてだけでなく、ある時は品評会のようなイベント会場だったり、明治9年には西洋の草花が植えられた「大通花草園」に変身したり、多目的な使われ方をしてきました。イベント的要素は、その後整備が進められた中島遊園地に移っていき、この空間は大通逍遙地として、少しずつ公園的な要素が増えていくのです。とはいえ、4丁目の角に『日本の道百選』のモニュメントがあるように、今でもこの場所は道路敷のままであり、公園はその地上権を借りているだけのような存在です。
道百選

明治の初め、北海道がビール醸造に向いていると、早速麦酒醸造所(現在のファクトリー)が造られました。多くは船に乗せられて東京などに送られましたが、地元でもどんどん飲んでもらおうと、大通で開かれた品評会に出品されたのです。ビール工場向けに小麦を作っている農民達は、少しでもビールが売れるようにと、これを買ってどんどん飲み干したとの記録もあるので、大通とビールの関係は結構深いようです。
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