私と牧野先生

  • 2019.01.31 Thursday
  • 05:56
先日のテレビで、牧野富太郎先生の一生を振り返っていました。あれ以来、牧野ブームになって盛り上がっているようですね。
  ヒストリア

私が牧野先生のことを知ったのは、小学校4年の時。夏休みに子どもだけが参加する植物採集の企画に母が応募して、一人でバスに乗り継いで参加しました。一人で行動したのは初めてだったのではないかと。今は伊予鉄道の本社がある場所に、おんぼろのバスターミナルがありました。その中を歩いて集合場所を探したときの心細かったことを、鮮明に覚えています。バスに乗って向かったのは、松山平野を流れる重信川の最上流で、もちろん全く初めて行ったところだったけれど、水が流れ落ちる岩肌にイワタバコがくっついて咲いていたのに感動し、採集したものの一部を、押し葉にしないで炭にくっつけて、長く庭で育てていました。(画像はWikiより拝借…m(__)m)

イワタバコ

押し葉が出来た頃にまた集まって、同定してくれるのですが、その時に四国が生んだ牧野富太郎というすごい先生がいることを教えられたのです。その採集会には6年の夏まで参加し、三冊の押し葉標本が入った段ボールは、大学生頃まであったのですがねぇ…

子供心に漠然とえらい先生というイメージが刷り込まれていたくらいで、詳しく調べたことはなかったけれど、私の育った松山の郊外によく生えていた野菊が、牧野先生が名付けたセトノジギクだということがあとで分かったので、私にとって牧野先生=ノジギクとして記憶されているのです。それにしても小学5年と6年の二年間は、取り憑かれたように山野をさまよいながら植物を見て歩きました。当時住んでいた家は松山の北の端の農村地帯だったし、瀬戸内海に面した多様な環境があったので、いろんな植物があるのに気付きました。中学に入ると市内の中学に汽車通で通い始めたので、あの時が一番楽しかったのかもしれません。

ノジギク

最初に高知に行ったのは、高校1年の春休みに友人二人とヒッチハイクで四国一周を目指したときのこと。高松から徳島に行き、山の中を通ってようやく高知までたどり着いたものの、疲れ果ててしまい、高知城をちらっと見ただけで、牧野植物園をあきらめて帰ってきてしまいました。大学に入ってから、ようやくバスで四国山地を越えて、念願の牧野植物園に行くことができました。当時の植物園は、赤丸で囲った現在の南園というエリアだけでしたが、それでもようやく牧野先生に近づくことができて感激しました。

牧野植物園

私は野生植物よりも、園芸植物や造園植物の方へ指向していきましたが、植物への接し方は学ぶべきものが多かったと思います。他の植物図鑑には自生植物のことしか載っていなかったけれど、牧野図鑑には身近な植物がたくさんはいっていてとても面白いのです。農学部に移行してまず買い求めたのは牧野図鑑でした。読み物も本当に面白いというか、普通の常識人でないへんてこな話にクスッとなってしまいます。

銅像

これらの写真は、ちょうど10年前の4月に行った時のもの。北側に大拡張し、新しい記念館とか展示室が出来ていたので、じっくりと見てくることが出来ました。母をこちらに連れて来たので、松山に行く機会が減ってしまい、次はいつになったら行けるかなぁ…
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