東皐園

  • 2016.11.18 Friday
  • 06:02
上島(かみじま)正は、信州諏訪郡湖南村の生まれで、信州の名家の出であるという。旧習になずむ郷里の生活に飽き足らず、大阪や東京に出て様々な技術を身に付けるが、「かの北海道のことを聞きしより、北海道に心しばられ」明治10年単身横浜から北海道行きの船に乗って札幌にやって来ます。当初は造田する場所を探していたため、月寒の一角に試験的に水稲を栽培して見事な成績を納め、翌年札幌の町の北郊に一万坪の土地の貸し付けを受けました。妻子を呼び寄せて開墾を始めましたが、東京を発つ時に何かの手慰めにと、堀切村の花屋から花菖蒲の苗170株を持ってきて植えておいたところ、活着して見事な花を咲かせたのです。
由来
 (「花翁、咲き誇る私邸を公開」 荒井宏明著、季刊札幌人、2004 より)

しかし、ただ東京からもってきた花が咲いているだけでは面白くない、自分の手で新しい花を咲かせたいと、交配を始めたところ全然うまく行かない… その時に、開拓使の御雇い外国人で、植物培養方であったルイス・ベーマーが花を見に来た時に、そっと交配のしくみを教えたのだそうです。その結果、新しい品種が次々と出来るようになり、水田のことより花菖蒲の育種に夢中になっていきます。この頃には偕楽園はあったものの、中島遊園地もまだなく、人びとはここの花菖蒲を見に次々と訪れるようになりました。すっかりフラワーパークになってしまい、それで生計を立てることになってしまったのです。
(なお、明治14年に明治天皇の北海道巡幸に際しては、お休み所として偕楽園に清華亭を、宿泊のためには豊平館を建設し、その庭園をルイス・ベーマーが手がけましたが、その助手として上島正が参加しています。また、ベーマーが開拓使の契約を満了して、横浜に日本の優れた花を輸出する会社を設立しますが、上島の育種した花菖蒲が大量に輸出されたそうです。ベーマーが体調を崩してアメリカに帰ったあと、その会社を引き継いだのが、現在の横浜植木です。)
花菖蒲園
 (「花翁、咲き誇る私邸を公開」 荒井宏明著、季刊札幌人、2004 より)

このあたりを字東耕といったので、初めは「東耕園」としていましたが、皐月(五月)の皐という字が、水辺や沢地、気の澄みわたる所という意味を持つことから、「東皐園(とうこうえん)」と改めました。この場所には諏訪神社があり、これも信濃からもたらされた分霊を上島が祭ったものだそうです。今は全く影も形もありませんが、子や孫によって引き継がれて、終戦までやっていました。
大正期の姿

昭和3年の住宅地図で見てみると、ちょうどここが当時の札幌市の、北の外れになっていました。現在の地図と重ねると、ほぼぴったりその位置が特定できます。敷地の中にある斜めの区画によって、現在の建物も影響を受けていました。上島の子孫は、現在新琴似に移られたそうで、ここには何も名残は残っておりませんが、北隣の諏訪神社、東隣のカトリック教会は、当時のままの姿を留めているのでしょう。
今昔

東隣にある天使病院や修道院には、外国から渡ってきたたくさんの修道女が生活していました。彼女らの唯一の楽しみがこの花園を散歩することであり、「少女のようにはしゃいでいる童貞さま(カトリック修道女)たちの姿がはっきりと記憶に残っている。」と、正の孫の手記にあるとのこと。家族が病んだ時には、天使病院に入院して特別やさしい看護を受け、正もあたたかい看取りの中に83歳の生涯を閉じたととあります。

そんな天使病院に入院していた孫2号は、ちょうど一ヶ月目の今日退院できることに。手厚い看護はさすが天使病院と、昨日最後の面会に行ってお礼を述べてきました。そんな日にこれを書いているのも、なんだか不思議な縁を感じてしまいます。

参考・引用
 ・「札幌百年の人びと」  札幌市史編さん委員会編、札幌市、1968
 ・「東区今昔」  札幌市東区総務部総務課、1979
 ・「花翁、咲き誇る私邸を公開」 荒井宏明著、季刊札幌人、2004
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