暮しの手帖(札幌編)
- 2016.10.08 Saturday
- 05:56
南国四国に住んでいた者が、なんで北の果てまでやって来たのか、と言われると、たいていは「家から一番遠いところに行ってみたかった。」と答えていました。でも本当は、暮しの手帖のある記事に、少なからず影響を受けていたのです。1964年の73号には、日本紀行 その3「雪と土と星の町」として、札幌が冒頭27ページにわたって特集されていました。
発売された時にはまだ12歳ですから、どれだけ読んでいたものか分かりませんが、他の町の特集には見向きもせずに、その後何度も何度も読み返していました。なんで煤煙に煙る汚い街に惹かれたものでしょうか…
特に中学から高校にかけて、学園紛争の嵐の中に翻弄されて神経をすり減らしていた時に、北の端にこんな理想に燃えた学校があったのか…どうせ大学に行くのなら、ここを選べばいい!と考えるようになっていったのです。
少し長いですが、52年前の札幌の姿を振り返ってもるのも一興でしょうか。現役で受験に来た時には、全くこのままの通りと言っていい姿の町でした。住み始めて2年目の冬に、円山のおんぼろアパートに住んだ時、家賃を払いに大家の部屋に行くと、これと全く同じようなストーブの前で、シャツ一枚でビール飲んでました。
やや感傷的で時に激しい筆致になるこの文章は、誰が書いたとも何も書かれておりません。花森安治がこんなに地方をじっくり回るヒマがあったのか?とも思いますが、やっぱり花森によるものだと思います。署名記事ではかなり抑制的な書き方をしていますが、これでは感情がほとばしるように筆が踊っています。
72年には冬季オリンピックがあり、一浪してやって来た時には、札幌の町はどんどん変わっていく途中でした。地下鉄ができたばかりで、駅前通から電車が姿を消し、その復旧工事でグチャグチャドロドロの町になっていたし、ここに書かれていた通り、本当に汚い街に来たものだと心底思いました。
確かに雪解け後はものすごく汚かったし、それが乾くとひどい砂埃で髪の毛がザスザスになってしまったけれど、5月になり緑が萌えるに連れ、まさに「なんということでしょう〜」と、感激の嵐に包まれてしまいました。うっとうしい常緑広葉樹の世界しか知らなかったので、鮮やかな緑を見るにつけ、弾けるようにあちこち歩き回りました。やっぱり来てよかったと、心底思ったのです。
現実と理想の違いには、その後も何度もぶつかりながら、ともかくもこの町で生きてきました。今読み返してみても、ちょっとこの捉え方はなぁ…と思わないでもありません。でも四国の片田舎から、思い切って飛び出す勇気を与えてくれたことには間違いありません。
暮らしの手帖の冒頭に、カラーページを30ページ近くも取って、こんな特集を載せた意図はなんだったのでしょうか?戦後の復興期に合わせて創刊し、なんとか普通の暮らしを少しでもよくしていこうと努力して、それなりの成果というか、手応えを感じていたことでしょう。それが一気に高度成長期に突入し、いわばバブルに翻弄されていくような世相に対して、花森はかなりの危機感を持っていたことと思います。そんな焦りがこの様な企画を生んだのではと思っています。
ともあれ、一人の人間がこのように北の国にやってきて、とうとう住み着いてしまったのですから、この雑誌もその役目を果たしたといえるでしょう。
発売された時にはまだ12歳ですから、どれだけ読んでいたものか分かりませんが、他の町の特集には見向きもせずに、その後何度も何度も読み返していました。なんで煤煙に煙る汚い街に惹かれたものでしょうか…
特に中学から高校にかけて、学園紛争の嵐の中に翻弄されて神経をすり減らしていた時に、北の端にこんな理想に燃えた学校があったのか…どうせ大学に行くのなら、ここを選べばいい!と考えるようになっていったのです。
少し長いですが、52年前の札幌の姿を振り返ってもるのも一興でしょうか。現役で受験に来た時には、全くこのままの通りと言っていい姿の町でした。住み始めて2年目の冬に、円山のおんぼろアパートに住んだ時、家賃を払いに大家の部屋に行くと、これと全く同じようなストーブの前で、シャツ一枚でビール飲んでました。
やや感傷的で時に激しい筆致になるこの文章は、誰が書いたとも何も書かれておりません。花森安治がこんなに地方をじっくり回るヒマがあったのか?とも思いますが、やっぱり花森によるものだと思います。署名記事ではかなり抑制的な書き方をしていますが、これでは感情がほとばしるように筆が踊っています。
72年には冬季オリンピックがあり、一浪してやって来た時には、札幌の町はどんどん変わっていく途中でした。地下鉄ができたばかりで、駅前通から電車が姿を消し、その復旧工事でグチャグチャドロドロの町になっていたし、ここに書かれていた通り、本当に汚い街に来たものだと心底思いました。
確かに雪解け後はものすごく汚かったし、それが乾くとひどい砂埃で髪の毛がザスザスになってしまったけれど、5月になり緑が萌えるに連れ、まさに「なんということでしょう〜」と、感激の嵐に包まれてしまいました。うっとうしい常緑広葉樹の世界しか知らなかったので、鮮やかな緑を見るにつけ、弾けるようにあちこち歩き回りました。やっぱり来てよかったと、心底思ったのです。
現実と理想の違いには、その後も何度もぶつかりながら、ともかくもこの町で生きてきました。今読み返してみても、ちょっとこの捉え方はなぁ…と思わないでもありません。でも四国の片田舎から、思い切って飛び出す勇気を与えてくれたことには間違いありません。
暮らしの手帖の冒頭に、カラーページを30ページ近くも取って、こんな特集を載せた意図はなんだったのでしょうか?戦後の復興期に合わせて創刊し、なんとか普通の暮らしを少しでもよくしていこうと努力して、それなりの成果というか、手応えを感じていたことでしょう。それが一気に高度成長期に突入し、いわばバブルに翻弄されていくような世相に対して、花森はかなりの危機感を持っていたことと思います。そんな焦りがこの様な企画を生んだのではと思っています。
ともあれ、一人の人間がこのように北の国にやってきて、とうとう住み着いてしまったのですから、この雑誌もその役目を果たしたといえるでしょう。
コメントありがとうございます。
この「檄文」に打たれた方がいらっしゃったのですね。
この地に住み始めて48年。まだ志は失っていないつもりです。