ホセ・ムヒカ

  • 2020.04.01 Wednesday
  • 05:55
昨日は朝いちでシアターキノへ。映画を観るのも何年ぶりだろう…と思うくらい久しぶりの映画館でした。さすがに朝いちは行列もなく、ちょっと拍子抜けでしたが。
シアター・キノ

キノをやっている中島洋さんとは、エルフィンランド以来のつきあいなので、もう45年にもなりました。キノ開設以来の株主なので、毎年送られてくる招待券はもっぱらかみさんが行ってたけれど、今年は孫が次々と生まれたりして忙しく、券が余ってしまいました。いよいよ最後の日になってしまったので、上映メニューを見るとこれだ!ということで、駆けつけた次第。
チケット

お目当ては「世界でいちばん貧しい大統領 愛と闘争の男 ホセ・ムヒカ」です。生き様もすごいけれど、言葉にものすごい力があり、シンゾーとは雲泥の差というか、比べるのも失礼なくらいの凄みがありました。近所にいた日系人から花の栽培を教えられ、それを生業としていたとか。久しぶりの感激です。もう一つの「ムヒカ 世界でいちばん貧しい大統領から日本人へ」は4月18日、「人生フルーツ」は4月20日に特別上映がありますよ〜(詳しくはキノのHPを)

ムヒカ

狸小路に出ると、昼近くだというのに通りはガラガラで、外国人は一人も歩いていませんでした。この先どうなるのでしょうねぇ…
狸小路

朝は結構寒かったけれど、昼近くになると日差しが暖かく、まだ3月なのに・・・変な感じです。地下鉄に向かって歩いていると、駐車場の向こうの建物の壁に「トマソン」物件が。このような謎の高所ドアと外壁に焼き付いた原爆タイプの跡は、まさにトマソン物件です、
トマソン

謎のドアを間近に見に行くと、足元ではフキノトウが満開になっていました。家の辺りはまだ堅いつぼみだけど、町中はさすがに暖かいのでしょう。春を見つけるたびに嬉しくなってしまいます。
フキノトウ

歌謡ポップス

  • 2020.03.08 Sunday
  • 05:48
ドーナツ盤特集もいよいよ最終回。最後は歌謡ポップスというか寄せ集めになりますが、トップバッターは若大将加山雄三の「旅人よ」(66年)。流行ったのはもちろんA面の「夜空を仰いで」ですが、私はB面の「旅人よ」の方が好きでした。作詞は岩谷時子、作曲は弾 厚作(加山雄三)、演奏は加山雄三とザ・ランチャーズです。
加山雄三

ちょっと甘ったるい声が売り物だった奥村チヨには、こんな爽やかな歌もありました。「北国の青い空 HOKKAIDO SKIES」(67年)。作曲はなんとベンチャーズです。もう北国へのあこがれを持っていたのかなぁ?
奥村チヨ

これはちょっと記憶がありませんが、どこか気に入ったところがあったのでしょうね。ビクターからコロムビアに移籍した第1弾で、半年後に出した「ブルー・ライト・ヨコハマ」が大ヒットして一躍人気歌手になりました。
いしだあゆみ

坂本九ちゃんの数あるレコードの中では、「見上げてごらん夜の星を」(69年)が好きだったので、新品で買っています。オリジナルシングルは63年発売で、これは「遠い昔の母の胸に」のB面として再発売された時のものでした。飛行機事故で亡くなられたのは85年8月12日で、9月に最後のシングル盤としてこの歌が再発売されているのは、鎮魂の意味があったのでしょうね。
坂本九

デビュー当時の和田アキ子はけっこう好きでした。のちにソウルやブルースが好きになったのは、このあたりから来ているのかな?デビュー2作目の「どしゃぶりの雨の中で」(69年)から5作目の「さすらいのブルース」(70年)までの4曲が入ったコンパクトLP盤で、600円と大変お得だったのです。まぁ可愛いこと。
和田アキ子

つのだ☆ひろの「メリージェーン」は72年発売なので、札幌に来た年だけど、これを新品で買うほど好きだったのかなぁ?これ1曲で食っていけるほどのロングヒット曲になっています。この頃は「つのだ★ひろ」ですが、黒星は縁起がよくないので、その後「つのだ☆ひろ」にしたそうです。
つのだ☆ひろ

残念ながらドーナツ盤は聴くことができなかったけれど、YouTube で一通り聴き直したので、いろいろと懐かしく思いだしてしまいました。長々とおつきあい下さいましてありがとうございました〜(ドーナツ盤トップに戻る。)
 (発売年やエピソードなどの多くは、Wikipedia を参考にさせていただきました。m(__)m)

グループサウンズ

  • 2020.03.04 Wednesday
  • 06:00
私のドーナツ盤コレクションのうち、8割くらいは中古盤です。松山の銀天街商店街の真ん中に、明屋(はるや)書店という町で一番大きな書店がありました。昔はここと大街道三越の隣にある小さな店と2店だったと思ったけれど、今はなんと全国13都道府県にフランチャイズを含む86店舗もある、全国有数の書店になっていました。この本店の右隣に、間口が2〜3mくらいしかない、うなぎの寝床のような古本屋がくっついていて、その2階に古レコードが置かれていました。高校生の頃には、しょっちゅうここに通ってドーナツ盤を探していたのです。(暮しの手帖のバックナンバーもここで仕入れていました。)1枚50円くらいだったかなぁ…

そうやって集めたのがこれらのドーナツ盤で、グループサウンズ(GS)の波が終わろうとしていた頃なので、安く手に入ったのでしょう。GSやフォークが流行ったのは60年代後半で、ちょうど私の中高時代に当たっていました。GSと言えばやはり「ジャッキー吉川とブルーコメッツ」(ブルコメ)でしょう。「森とんかつ、泉にんにく」で育っているので、やっぱり懐かしいです。「青い渚」は66年。
青い渚

「マリアの泉」は67年、もう一枚「何処へ」(66年)も持っています。ブルコメが特に好きなわけではなかったけれど、唄がよく耳になじんだように思います。
マリアの泉

GSと言えば、ブルコメの「ブルーシャトー」(67年)と共に真っ先に思い浮かぶのが、ザ・ワイルド・ワンズの「想い出の渚」(66年)。加瀬邦彦のギターは何度聞いても最高ですねぇ。
思い出の渚

加山雄三の従兄弟である喜多嶋兄弟が作ったバンドであるザ・ランチャーズの「真冬の帰り道」(67年)もよく流行りました。全員慶大生のボンボンといった感じかな。
真冬の帰り道

67年には、ヴィレッジ・シンガーズの「バラ色の雲」も流行りました。このあたりがGSの最盛期なんでしょうか。
バラ色の雲

もう一枚忘れてはいけないのが「亜麻色の髪の乙女」(68年)でしょう。アマの説明をするのに、このジャケットを使うと盛り上がるのは、お歳が分かってしまいますねぇ…(^^;)
亜麻色の髪の乙女

スパイダーズやテンプターズは興味なかったので一枚もありません。ザ・タイガースも好きではなかったけれど、「廃墟の鳩」(68年)はトッポの声がよかったので持っています。
廃墟の鳩

ジュリーは大嫌いだったけれど、B面の「風は知らない」(69年)だけは許せたので、コレクションに入っていました。
風は知らない

ズー・ニー・ヴーの「白いサンゴ礁」(69年)もやはりB面からのヒットになったので、あわてて入れ替えて再発売されています。作詞は阿久悠で、南太平洋で散っていった若者を偲んで作られた唄だというのを、今回初めて知りました。阿久悠の、GS唯一のヒット曲になったようです。GSもこのあたりが最後で、やがて70年代に突入していくのでした。(つづく)

涙のオルガン

関西フォーク

  • 2020.02.26 Wednesday
  • 05:53
60年代後半は、なんといっても関西フォークの全盛時代。67年に爆発的に流行ったザ・フォーク・クルセダーズ(フォークル)の「帰って来たヨッパライ」から、堰を切ったように様々な歌手やグループが飛び出してきました。それにしても、68年のたった一年しか活動しなかったフォークルの存在感はすごかったと思います。私が一番好きな歌は、「戦争は知らない」(1968)。渋谷公会堂でやったハレンチリサイタルのライブ音源ですが、父親を戦病死によって亡くした寺山修司の歌詞もいいし、3人のハーモニーも一番フォークルらしいです。
戦争は知らない

一年だけの約束どおり、プロとしてはあっという間に解散してしまったけれど、今聞いてもいい唄がたくさんあります。フォークルのレコードは、この年発売されたLPの「紀元弐阡年」と解散後発売されたベスト盤でほぼすべて持っているけれど、まさに時代を突き抜けた強さを持っていると思います。
紀元二千年

最後のシングルが、五木寛之作詞の「青年は荒野をめざす」(1968)だけど、これはちょっとくさくて苦手かなぁ…(^^;)
青年は荒野を目指す

同じ年にメジャーデビューしたのが岡林信康。A面の「山谷ブルース」(1968)は、確かに流行ったけれども、私たちにとってはB面の「友よ」が体に染みつくほど歌った歌でした。60〜70年代初めの荒れた時代には、これと「インター」は集会やデモのいわばテーマソングになっていたのです。その後はなんと自衛隊の駐屯地でも歌われたり、Jリーグの応援歌としても歌われているとか…(^^;) 牧師の家庭に育った岡林によると、この歌の根幹にあるのは賛美歌だそうなので、いろんな使われ方も想定内だったのかも。
友よ

この年には、西岡たかしの五つの赤い風船から、「遠い世界に」(1968)も世に出ていました。これはB面だったので、翌年あわててひっくり返して再発売されています。この唄はたくさんの歌手にカバーされて、今なお中学校などでも歌われているそうです。
遠い世界に

フォークル解散後は、加藤和彦はミュージシャンとして、北山修は医学部に戻って精神科医の道へ、はしだのりひこは杉田二郎などと共にシューベルツを作って活動を始めました。「風」(1969)や「朝陽のまえに」(1969)など、それなりにヒット曲も出していましたねぇ。
シューベルツ

ウッディー・ウーの「今はもうだれも」(1969)もいい唄だったけれど、一発だけであとは聞かなかったかも。これらがわっと世に出てきたのですから、やはり時代だったのでしょうねぇ。
今はもう誰も

これらの歌は、ほとんどが YouTube にアップされていて聴くことができるので、懐かしいと思われる方は、是非聴き返してみて下さい。(つづく)

カレッジフォーク

  • 2020.02.25 Tuesday
  • 05:48
昔のレコード第2弾。60年代後半には、カレッジフォークというかカレッジポップスというか、大学生の若者の歌が一斉に流行してきました。私はちょうど中学から高校にかけてで、そんなに歌には敏感ではなかったけれど、大学に行った兄がギターを背負って帰省して弾いているのを見て、ふぅんと思い始めました。手元にあるドーナツ盤の中には、4曲入りEP盤が何枚か入っていて、45回転がいかれたプレーヤーでも久しぶりに聞くことができました。ザ・ブロードサイド・フォーの「若者たち」(1965)やザ・サベージの「この手のひらに愛を」(1966)あたりが一番初期のものでしょうか。(サベージに寺尾聰がいたなんて)
若者たち

この年に、生まれて初めて買ったLPが荒木一郎の「ある若者の歌」でした。この年にはこのレコードで芸術祭文部大臣奨励賞を『空に星があるように』で日本レコード大賞新人賞をとっています。(以前こんな記事を書いています。)
荒木一郎

マイク眞木の「バラが咲いた」(1966)もちょうど同じ頃で、かなり流行りました。EP盤はA面が4曲入って600円なので、シングル400円よりはるかにお得だから、よく買っていたのでしょう。森山良子なんて、今でもちょくちょくCMやテレビに出てきますねぇ…
バラが咲いた

ちょうど高1の時に流行った「小さな日記」(1968)あたりから、東京の歌手やバンドは、だいたいが私立大学のボンボンで、四国の片田舎にいて聴いていると、なんとなく違うなぁ…と違和感を感じ始めてきました。
小さな日記

「白いブランコ」(1969)あたりになると、ちょうど学内で学校側といろいろもめていたし、ベトナム反戦運動に首を突っ込み始めたりして敏感になってきていたこともあり、もうこらあかんと思ってしまいました。(でもなんでレコード買ってたんだろう??) 今となっては、時代の記録として貴重な存在になっているのかもしれません。(つづく)
白いブランコ

ドーナツ盤

  • 2020.02.23 Sunday
  • 05:45
今のカーオーディオでは、SDカードに入れた曲をかけられるため、CD100枚分くらいの曲を入れて聴くことができます。先日買い物帰りに荒木一郎の曲をかけていたら、かみさんが中山千夏の曲も聴きたいねぇ…というのです。家に帰って、禁断のドーナツ盤コレクションの中から探しだし、フレーヤーにかけたところ、なんと45回転に切り替わらなくて男の声になってしまいました。LPは時々聞いていましたが、しばらく45回転にしなかったので、スイッチがバカになってしまったよう…(>_<)

しかたなく、ドーナツ盤の整理だけやっておきましたが、なんとも懐かしくなったので、今回は女性のフォークシンガーを紹介しておきます。中山千夏のデビュー曲である「あなたの心に」は1969(S44)年の発売です。うーーん、聴きたかったなぁ… 今でもお元気で、伊豆半島に住んでいるそうです。

中山千夏

ついでに女性フォークシンガーのドーナツ盤にはこんなものも。ベッツィ&クリスのデビュー曲である「白い色は恋人の色 」は、フォークルのメンバーだった北山修の作詞、加藤和彦の作曲で、やはり1969(S44)年の発売でした。

ベッツィ&クリス

もとまろの「サルビアの花」は当然早川義夫のカバー曲。こちらの発売は1972(S48)年なので、札幌に住み始めた年に買ったレコードのようです。こちらに詳しく紹介しています。

もとまろ

ウィッシュの「ご案内」も同じ年の発売なので、この年に買ったもののようだけど、まだプレーヤーは持っていなかったのに買っていたのですねぇ。ヤマハのポピュラーミュージックコンサート(ポプコン)に入賞してレコード化されています。ご案内よりも、B面の風は気まぐれの方が好きだったような。作詞はなんとやなせたかしだった。

ウィッシュ

チューインガムの「風と落ち葉と旅びと」もやはり72年で、やはりポプコンの常連だったとか。福岡で浪人していた時に、ヤマハのライト・ミュージック・コンテストの九州予選を聴きに行ってたので、当時はこのあたりが一番の好みだったようです。

チューインガム

ドーナツ盤は70枚ほど。初期のカレッジフォークやフォークグループなどから、グループサウンズなど、お宝がたくさん含まれているので、ぼちぼちと紹介していきましょうか〜(^^;) (つづく)

わたしの草と木の絵本

  • 2020.02.02 Sunday
  • 05:56
正月に自宅の本棚を少しだけ片付けたときに、ふと取り出した本が何冊かありました。買ったはいいけれど、あまり読まずにしまい込んでしまった本はたくさんあるけれど、これはちょっと懐かしい本です。30数年前、六花亭の仕事をやっていたので、自然に直行さんに惹かれていきました。包み紙に使われている着色した植物画は(3枚に66種)、ていねいに切り抜いてすべて持っているのですが、この本は単色の素朴さがとても新鮮でした。
草と木の絵本

この本のまえがきは、六花亭の初代社長の小田豊四郎さん。小田さんが今から60年前の1960(S35)年から発行している、子供たちの詩誌「サイロ」の表紙を飾るために、直行さんが描き続けた絵を集めた本なのです。

サイロ

この本がまとめられたのは1976(S51)年なので、私が大学を卒業した年。帯広千秋庵から六花亭に改名したのがその翌年なので、この時はまだ千秋庵の名前でした。帯広に旅行した友人が、十勝には珍しいお菓子がいっぱいあるぞと、ホワイトチョコが大人気だった頃でした。

フクジュソウ

取りあげている植物は、身の回りのものが半分と、高山の植物が半分を占めています。直行さんは山岳部に所属していたので、学生の時からずっと十勝や日高の山を登っていました。直行さんを囲む『歩々(ぽっぽ)の会』というのがあり、そのうちの一人だったAさんの家に何度か伺ったときに、奥様が直行さんの妹だと聞いてびっくりしたこともありました。

ウコンウツギ
やはり歩々の会のメンバーだった鮫島淳一さんの画文集が、同じような目線で書かれていて、とても読みやすいのは、そんな交友関係のせいなのかもしれません。子どもに語りかけるようなやさしさがにじみ出ているこの本は、仕事に疲れた時の一服にはちょうどよく、しばらく楽しめそうです。
文章

レコードの整理

  • 2020.01.19 Sunday
  • 05:58
正月休みが終わり、子供たちが帰ってから、長年の懸案事項になっていたLPレコードの整理を始めました。きっちり数えたこともなかったけれど、400枚くらいのレコードを持っています。最近は聞くこともほとんどなくなり、大晦日には紅白なんか見ないので、ここぞとばかりに書ける程度。出し入れしてグチャグチャになっていたので、なんとか片付けたいと思っていたのです。

レコード棚

まずは右半分の女性ヴォーカルから。ここではなんといっても、ダイナ・ワシントンのコレクションが存在感を放っています。あの頃の学生は、ジャズ喫茶に入りびたってうんうん唸っているのが多かったけれど、タバコ嫌いだったのでとてもなじめず、毎度聞いていたFMラジオから情報を増やしていくうちに、ジャズ演奏ではなくジャズヴォーカルに惹かれていきました。でも、当時流行っていたビリー・ホリデーやエラ・フィッツジェラルとはどうにもなじめず、たまたま聞いたダイナ・ワシントンにぐいぐい引き付けられていったのです。
ダイナ1

レコードを買い始めたのは社会人になってからで、札幌ではほとんど手に入らなかったため、帰省のたびに東京に立ち寄り、あちこちの古レコード屋などを探し回りました。もう亡くなっていたので、新譜では手に入らなかったのです。こうして集まったダイナのレコードは、なんと51枚もありました。
ダイナ2

ダイナのレコードは、デビューから50年代はマーキュリーから、60年代の4年間はルーレットから出ていました。80年代にダイナのマーキュリーベスト盤が全7巻で出たのですが、初めの4巻はレコードで、後半の3巻はCDになり、時代の変化を示していました。
ダイナ3

ダイナはデビュー当初はブルースばかり歌っていて、その後レコード会社の戦略でジャズ・ヴォーカルが増えていきましたが、ジャズにはとても納まらず、こぶしの利いたリズム&ブルースが一番似合っていました。そんなダイナの後継者と伸びていったのが、エスター・フィリップス。デビュー当時はダイナそっくりのR&Bで、だんだんディープソウルに移っていきました。
エスター1

その頃に、何度か京都からやって来たのがウェストロードブルースバンド。札幌のブルースシーンもかなりの盛り上がりがありました。たまたま買って持っていたのか、ジャケットにみんなのサインが残っています。
エスター2

そして、ソウルの女王といわれたアレサ・フランクリンもダイナの後継者としてスタートし、興行的にも大きな成果を遺しました。アレサのレコードは10枚。4枚組CDベスト盤は私の宝物の一つです。
アレサ

ダイナのあと、ルース・ブラウンやエタ・ジェイムス、ダコタ・スティトン、デラ・リーズなど(計17枚)が活躍し、やがてソウル全盛時代に突入していきます。ここに挙げたその他の歌手たちのレコードが、約80枚もありました。

その他女性

結局、R&B系の女性ヴォーカルだけで155枚ものレコードが。よくもまぁこんなに集めたものだと思いますが、このほかにCDが何十枚もあるので、2〜300枚ものコレクションがあることが分かりました。左側の棚には男性ヴォーカルが同じくらい入っているので、この冬のうちに整理しなくては。こういうものは私が死んだあと、どうすればよいのか決めておかなければいけないかなぁ…(^^;)

森ヒロコさん

  • 2019.12.15 Sunday
  • 05:55
先日打合せに行った場所から、ふと森ヒロコさんのことを思い出してしまいましたが、仕事の資料を探してキャビネットをさまよっていたら、あるファイルの中から、45年前の森さんの個展のリーフレットが出てきたのです!
個展1

「森ヒロコ銅版画展」は、1974年9月2日から約4週間、NDA画廊で行われています。74年は大学3年生で、農学部に移行して圃場に通い詰めだった頃です。実はこの年の4月にあの『エルフィンランド』が開店して、学生の身ながら連日通い詰めていました。その中には、普通の学生生活をやっていれば絶対に会えないような、実にいろんな人と知り合ったり、飲み交わしたり、ワイワイと過ごしていた中に、大柄で声が太く、しゃべり出したら止まらない、二十歳過ぎの若造から見れば、とってもおっかないおじさんがおりました。それが長谷川洋行さんで、NDA画廊をやっていたのです。
個展2

森さんのことは当然知らなかったので、長谷川さんに誘われて行ったのでしょう。それが森ヒロコさんの作品との出合いでした。森ヒロコ・スタシス美術館のHPを見ると、ここで個展をやったのはこれが初めてで、翌年お二人は結婚されているので、運命の出合いだったのかもしれません。

個展歴
 (森ヒロコ・スタシス美術館 HPより)

それから10年後、私は植木屋にいて造園工事や庭園管理など、毎日楽しく仕事をしていました。大学にもよく顔を出していたので、当時の3代目になるT教授にもいろいろと可愛がられていました。先生は花が専門だったので、相性がよかったのかもしれません。先生の奥様にもえらく世話になったのは、お子様がいらっしゃらなかったせいもあったのでしょうか。ある時友達の庭先をきれいにしてほしいのでと、仕事を紹介してくれました。やはり農学部の先生のお宅で、いろいろ話をしているうちに、そこの奥様がなんと森ヒロコさんのお姉さんだということが分かってびっくり。そして、その年の12月に結婚することが分かると、ぜひお祝いを受け取ってほしいと、T教授夫妻からいただいたのがこの作品でした。

筒井先生

森さんのどんなのが好きなの?と聞かれて、作品としてはキリッとしているのがいいけれど、我が家に置くのであればかわいいネコの作品が…と言ったら、これを選んでくれたのです。

夕暮れ

これは「夕暮れ」という作品で、我が家でも一番目立つところに掛けています。T先生も数年前に亡くなられてしまいましたが、長谷川さんも2016年に、森さんも後を追うように2017年に亡くなられてしまいました。かみさんの友達は、ずっと森さんの所で仕事を手伝っていたのですが、目を患ってほとんど失明してしまい、制作から離れざるを得なくなりました。なので、森さんの作品にはいろいろと思い入れが強いようです。美術館は来年再開するようなので、あの素晴らしい作品に会いに行ってみようかな。
再開の報

ARAMAKI WORLD

  • 2019.12.09 Monday
  • 05:48
連日厳しい寒さが続きますが、今日はぎりぎり真冬日から脱出できそうです。雪が積もらないので、あんまり寒さが続くのも、植物にとっては困りもの。近郊のスキー場もこれではお手上げでしょうね…

市民交流プラザの中には、いろいろなスペースがあるのですが、パネル展の向かい側の SCARTSコートでは、ARAMAKI WORLD が開かれ、土曜日はちょうど SHAKE SUMMIT で賑わっていました。FMで最初聞いた時には、荒巻さんだからSF関係のイベントかと思ったら、新巻鮭の方でした…(^^;)
入り口

恵庭出身で宮大工の村上智彦さんと、同じく恵庭出身でギター製作者の鹿川慎也さんのコラボ作品展です。その素材がなんと新巻鮭の入っている木箱。その板を使って作られる作品群がとんでもないものばかりです。あんな軽いトドマツ材からなんでウクレレやギターが作れるの??とびっくりさせられます。
シヤケレレ

これはウクレレではなく「Shakelele(シャケレレ)」という商標登録まで特許庁から取得している念の入れ用。もちろん楽器としても十分使用できる本物なので、お値段の方も結構しておりましたが。
登録商標

村上さんは札幌市立高専のインダストリアルデザイン学科建築デザインコースを卒業のあと、関西で社寺建築の仕事に携わり、大工、建築家、デザイナーとしての仕事をされてきただけあって、その腕も一級品。新巻鮭の木箱から造られた社は、釘1本使わないで建てられているそうです。
社

こんな神棚なら、そこいらの胡散臭い神社にいる神さんではなく、この地に根ざした産土神(うぶすながみ)が居ついてくれそうな気がします。でもちょっと生臭いかなぁ…
神棚

木箱に押されている鮮やかな文字や記号は、こんな版を押されていたのですね。新巻鮭は、段ボールには似合わないので、いまだに木箱が使われているのでしょう。
はんこ

ちょうどこの版を使って、Tシャツやトートバッグにスタンプを押すワークショップが行われていました。うわーうまくおささったぁ!と、にぎやかに盛り上がっておりました。
スタンプ

確かに、この世に一つしかないものばかり。こんな焚き付けになるような素材からこれだけの価値を生み出すのですから、工芸家と言うより芸術家といった方が似つかわしいのかしらん。
トートバッグ

このイベントは本日まで。創世スクエアで私たちのパネル展と共にやっていますので、町中にお出かけの際には必見ですよ〜

ボタニカル アート

  • 2019.11.16 Saturday
  • 05:32
この時期には、植物画の展示会が続けて行われているのですが、一番規模の大きな北海道植物画協会展は、例年10月末に行われていて現場のピークと重なるため、しばらく行けておりません。ようやく行ってきたのが、17日(日)まで行われている flos society 教室展です。
案内

主宰している早川先生とは、20年前に芸術の森で仕事をお願いして以来の長いつきあいになりました。先生の作風が生徒さんにも伝わるのか、キレのいい作品が多いように感じます。
トサカケイトウ

会場は南1条のラ・ガレリアにある「さいとうギャラリー」です。H&Mの店内を突っ切ってエレペーターに行き、5階にあります。最初はエレベーターを探してうろうろしてしまいました。
ギャラリーさいとう

生徒さんたちの作品展なので、レベルは幅広く、中にはおっと思わせるレベルの高いものがありました。単に「植物を描いた絵」ではなく、ボタニカルアートと言えるレベルになるまでには、かなりの時間がかかるようです。
展示

先生の作品は一点だけでした。ツツジ類が3種寄せられていて、こうなれば同定しなければいけません。右下はカバレンゲ、左はエゾムラサキツツジとすぐに分かりますが、右上はぱっと見では分かりません。
先生の作品

よ〜く見ると、葉が3枚なのでミツバツツジ系ですが、雄しべが10本あるので、ミツバツツジではありませんでした。(ミツバツツジは5本しかありません)道内に植えられているものでは、トウゴクミツバツツジが最も多いので、そのあたりということにしておきました。本来のボタニカルアートは正確さが求められるので、ここまで描き込まれているのです。
トウゴクミツバツツジ

この週末、大通周辺に行かれる方は、ぜひご覧になって下さい。

西高OBオケ

  • 2019.08.19 Monday
  • 05:35
今回余市の娘が帰省してきたのは、毎年お盆に行われるOBオケに出るためでした。中学の時に吹奏楽でホルンをやり始め、高校に進学すると迷うことなくオケラに入りました。西校には新制高校に移行した翌年の1951(S26)年に、早くもオーケストラ部ができており、多分道内でも数少ないのでは。毎年お盆にはOBが集まって演奏会をやっていて、娘はかなりの頻度で出ています。
表紙タイトル

出演者名簿を見ると最年長は19期なので、間もなく70代になろうかという方もいらっしゃいます。娘だって卒業して14年も経っているのですから、ホルンでは最年長になっておりました。
イラスト

今回の演目は、なんとシベリウスのフィンランディアと交響曲第2番、ワグナーのニュルンベルグのマイスタージンガーという、私のお気に入りばかりだったので、とても楽しみにしていました。

プログラム
娘は長野に2年いた時にも、お盆にはホルン担いでフェリーで帰ってきてましたからねぇ…(^^;)
年明けには出産なので、帰りがけには3年くらいは出られないとみんなに挨拶しておりましたが、きっとちびどもをうちに預けてまた復帰するに違いありません。
開園前

ずっと指揮者を務められていたN先生が、直前に脳梗塞で倒れられ、指揮者は急遽交代されたとか。でも演奏はすばらしく、朝から肉体労働していたので眠たくなるかと思いきや、最後までずっと聞き惚れていました。
終了

それにしても、卒業後もずっと母校に関わり続けられる部活というのも珍しいと思います。私のように、いろいろあって母校とは縁を切ってしまった者にとっては、うらやましい限りでした。

さっぽろ文庫

  • 2019.08.12 Monday
  • 06:00
先月の朝日新聞に、興味深い記事がありました。「文化育てたさっぽろ文庫」という記事で、毎年4冊ずつ発行され、25年でちょうど百冊の本になったさっぽろ文庫が紹介されていました。

新聞記事

私はその中で、3冊に文章を書かせていただきました。最初に声がかかったのは1991年発行の56号『花ある風景』です。この巻の編集長は鮫島惇一さんで、私も編集委員として呼ばれ、「街を彩る花」と「花風景の広がり」という二つの文章を書いております。

文庫

文章は大したことはないのですが、一つだけこっそり自慢にしていることがあります。カラーページの最後にこの巻にふさわしい絵を入れたいと木原さんに相談され、迷うことなく八木伸子さんを推薦しました。八木さんは家もすぐ近くでも、普段は挨拶する程度だけど、私は大ファンだったのです。本が送られてきた時にこの絵を見て、とてもうれしかった。『花ある風景』にピッタリの絵だと思います。八木さんには、会うたびにお礼を言われましたが、この絵はほしかったなぁ…(^^;)
  八木さん
その何年後だったか、なにかの席で鮫島さんにバッタリ会った時に、ちょうどよかった。書く人がいなくて困っているのが二つある。あんたならなんとかしてくれそうなので頼むよ!と押しつけられたのが、74号『わが街新風景』の三吉神社と西野緑道でした。境内で一時間くらいうろうろしながら構想を練り、一気に書き上げたのがこの文章でした。
  三吉さん

そして2002年には、いよいよ100号の完結編『北都、その未来』では、緑に関して好きなことをいてほしいとの依頼があったので、「町角の緑 市民の財産をつくろう」という8ページほどの文章を書きました。「緑から見た札幌の特性」、「緑は町の記憶」、「五感で感じる緑」と書き進んで、最後に「緑の聖域づくりを」提唱しています。格子状の街路に四角いビルを詰め込めば、まとまった緑は造ることができません。再開発のようなまとまった造成をする機会があれば、その一角に今後手を付けない空間を設定し、ハルニレのような何百年も生きる木によって緑の聖域(サンクチュアリ)を造れば、次の世代も繋がるものになるだろうと、後のハルニレプロジェクトに繋がる提案をしていました。

     緑の聖域
こういう場で提案したことが、実現することはないとしても、その時の自分の立ち位置をはっきりさせたという意味で、文庫は私の背中を押してくれたといえるでしょうか。「さっぽろ文庫」は図書館などには必ず常備されているし、電子本でも読めるので、興味のあるテーマを是非読んでいただきたいです。

町の本屋さん

  • 2019.06.27 Thursday
  • 05:29
大島行きの準備をしていて、ちょっと買い物が必要になったので、近くのスーパーの2階にある百均に行きました。すると通路の左側がすっかり囲われていたのにびっくり。本屋が改装でも始めたのかと思いました。

封鎖

すると真ん中あたりに貼り紙が。よく見ると、前日の24日になにわ書房の破産手続きの開始が決定され、破産管財人がこの物件を封鎖したことが書かれていたのです。いやはやびっくりでした。

貼り紙

なにわ書房といえば、札幌に来たての頃に、駅前通のグランドホテル前の店によく行ってました。その後は大通駅に直結した日之出ビル地下のリーブルなにわに、飲みに行く前は必ずといっていいほど立ち読みに。入り口近くにあった道内出版のコーナーが充実していたので結構本も買ってました。ネットで調べると、やはりネット通販で売上げが低迷と… 私はネットではほとんど買わず、専門書は町中の大書店で買うことが多いけれど、雑誌や普及書はほとんどここで買っていたのですが、焼け石に水でしょうねぇ。

新聞情報

そうなると、ポイントカードもゴミになってしまったようです。昨年500円分使っていたので、あまり残っていなかったのは幸いか。マルヤマクラス店はどこかが引き継ぐようだけど、東光ストア店はなくなってしまい、跡に本屋が入ることはもうないでしょうねぇ…

ポイントカード

本屋に限らず、このあたりでもコンビニや携帯電話店、ビデオ店、金物屋などが次々と閉店したばかりで、すっかり寂しくなりました。この辺りでも、こういう店舗はますます立ちゆかなくなっていくのでしょうか。

勇造ライブ2019

  • 2019.06.06 Thursday
  • 05:46
4日の夜には、昨年に引き続いて豊田勇造のライブがありました。夕方まで滝野公園にいたので、会場に着いたのは開演直前。ちょうど霧雨は上がっていました。
みんたる

バタバタしていて予約を入れてなかったら、前日の夜に勇造さんから電話があり、「りゅうくん!今年はきぃへんの?」と言われてしまいました。場所がよく知っている「みんたる」なので、そのうちと思っているうちに前日になってしまったのです。中に入るとほぼ一杯になっており、その中に懐かしい顔が。昔の呑み仲間でもあり、仕事も一緒にやっていたKさんが、現在住んでいる信州からやって来ていたのです。なんと27年振りの再会で、すぐに盛り上がってしまいました。
ちらし

前座には、主催者でもあるIさんが2曲歌い、勇造さんの登場です。最初の出合いから43年も経っているのが信じられないくらいで、昔からあんまり変わっていないように感じてしまいます。当然歌にも深みが加わっているだろうし、ギターも凄みが出ているのは間違いないけれど、勇造さんの歌は本当に体にしみ込んでいく感じ。

熱演

休憩を挟んで約2時間近くの熱演で、大いに盛り上がっていきました。初めてという方も結構いたとのことでしたが、勇造さんの歌は、時間や世代やいろんなものを超越していると感じます。アンコールをたっぷり2曲歌い上げ、終わったのは9時過ぎておりました。

アンコール

勇造さんは7月になんと70歳になります。60歳の時にも6時間60曲ライブをやったそうですが、今度は3時間半で70曲コンサートをやるとのこと。暑い京都なので体が心配ですが、いつまでも若々しい勇造さん、がんばってなぁ!

70歳記念ライブ

葛の布 帯展

  • 2019.05.09 Thursday
  • 05:49
6日から開催されている『渡邊志乃 葛の布 帯展 −無地とその周辺』に行ってきました。場所はちょっと分かりにくく、目印の赤い看板を見落として一度通り過ぎてしまいましたが、旭丘高校のバス停すぐ近くにあるギャラリー門馬です。
ギャラリー門馬

葛から糸を取り、それを織っている方は道内では渡邊さんお一人、全国的に見ても静岡県に三人いらっしゃるだけだとか。身近にある葛のつるは強靱なことから、籠などを作るのは知っていたけれど、葛の糸からこんな帯ができるなんて。帯一本織るのに何と一ヶ月以上、一日せいぜい30cmほどなので、「一日一尺」なんだそう。大変な手間と努力が必要なのです。
帯

縦糸には絹糸を使用し、横糸に葛の糸を使って織り上げるそうです。それらがなんとも優しい色に染め上げられていました。もちろん草木染めによって染められており、ドングリやアカソ、ヨモギ、フジ、アイ、アカネ、なんとフキノトウなど、身近にある植物などが、様々な媒染剤によって微妙な色合いに染め上げられているのです。
草木染め

渡邊さんは富丘に住んでいて、富丘西公園の作業にも数年前から参加されていました。昨年の夏、スズランの生育を抑圧してしまうススキを刈り取っていたところ、刈り取ったススキをもらっていいですか?と聞くので、どうぞどうぞ、どうせ捨てるものなので結構ですが、一体何に使うのですか?と聞いて、初めて葛の糸を取り出すのにススキが必要なことが分かりました。ススキでムロを作り、その中でクズのツルを発酵させて繊維を取り出すのです。(渡邊さん提供の画像から)

ススキ 発酵

そうやって取り出された繊維を川で晒していくと、生成りのやさしい色合いになっていくそうです。昔の人がいろいろと試行錯誤して、このような方法にたどり着いたのでしょうね。
  水晒し

できるだけ細く裂いた繊維は、撚らないでそのまま特殊な結び方で繋ぎ合わせていき、ようやく糸になっていきます。さらにこれを染めていく訳ですから、大変な手間がかかっているのです。
葛の糸

今どきこんな作品を作っている方が、身近なところにいるなんて、ある意味大変幸せなことかもしれません。このやさしい色合いと、しっかりした手触りを感じていただきたいと思います。
 案内

札幌市立高専

  • 2019.03.26 Tuesday
  • 05:44
年度末を迎え、仕事の方の目途が立ってきたので、暇を見つけてはデスク周りや書類の整理を始めました。この時期にやっておかないと、年度途中では絶対に手がつけられなくなってしまいます。事務所内にいったいどれだけの紙が入っているのか、想像するのも怖いくらいですが、今はデータを簡単に電子化できるので、できるだけ紙を残さないようにしなければなりません。

そんなことをやっていて、書類棚から思わぬものが出てきてしまうと、ついめくって見てしまいます。札幌市立高専の開学してまもない頃のパンフレットなどが、一束出てきました。
  市立高専

中を見てみると、開学したのが1991年で、最初の卒業生が出る96年頃に作られたものでした。この年にはちょうど滝野公園の仕事をやっていたし、ここの先生方には環境デザインだけでなく、建築や彫刻などいろんな知り合いがいたので、帰り道になんやかやと立ち寄っていました。その頃の先生方はみなさん退職されてしまったので、最近は全然行ってないだけに、こんな写真を見るとなんだか懐かしくなってしまいます。
バーズアイ

初代校長は建築家の清家 清先生で、先生の考え方が組織作りや校風にも大きく影響していたようです。建築・環境・産業・工芸・彫刻・絵画・情報・視聴覚の8つの分野が、お互いに影響し合いながらデザインし、最終的には芸術に収斂していくこの模式図は、本当に見事にここの性格を表していました。
しくみ

高専なので、16歳で入学した後は、受験勉強に消耗することなく、伸び伸びとそれぞれの特性を磨いていき、専攻科まで行けば学士になれるという、ある意味かなり恵まれた環境だったようです。最初の卒業制作集も入っていましたが、なかなかの力作ばかりだし、おやこの人も!なんて、今も活躍している方の名前を見つけてしまいました。初期の卒業生からは、今でも多方面に活躍している人が多いし、開学したての熱気の中で伸び伸びと力を蓄えていったのでしょうね。
作品

庭園・美術館巡り

  • 2019.02.23 Saturday
  • 05:54
庭園美術館のスライドを探していて、一緒にあちこちの庭園や美術館にも行っていたのに気付きました。87年9月24日には日本民藝館、26日には古河庭園と世田谷美術館、そして27日に庭園美術館と続いていたのです。25日が抜けているし、まだ探せばでてきそうですが、なんでこんなに東京をほっつき歩いていたんだろう??としばし考えていて、ようやく思い出しました。確か9月20日くらいで前の植木屋を辞め、10月1日から建設コンサルタントに出社するので、わがままを言って旅に出たのです。幼子二人をかみさんに託し、友達の家を渡り歩いて、ずいぶんと呑気な旅をしていたのですね…(^^;) 本当に感謝です〜

このころアールヌーボーやアールデコに凝っていたけれど、同時に民芸にも強い関心があり、京都の河井寛次郎記念館に半日近くいたこともありました。民芸館は駒場の住宅地の中にあり、もう一度行って見たいと思いながら、なかなか再訪できないでいます。
日本民藝館1

ここには、河井の作品に合わせて濱田庄司や柳宗悦が集めた様々な民藝品が置かれていて。なかなか見切れないボリュウムだったかと。
日本民藝館2

26日には、前日から高校時代の友人宅に泊まって、歩いて世田谷美術館に行った記憶があります。後ろに見えるゴミ焼却場の煙突は、今は素敵な色に塗り替えられましたが、東京ゴミ戦争の結果、区内に焼却場を造らざるを得なくなり、この後ろに建設されたものでした。
世田谷美術館1

ここでは、なんとディヴィッドナッシュの展覧会が開催されていて、ものすごく興奮したことを思い出しました。その3年前に新婚旅行で福岡に行った時に、たまたまナッシュの展覧会を見て感動していたのです。ちゃんと記録も残っていました。
世田谷美術館3

その日は北区にある古河庭園にも行ってます。ここはもともと陸奥宗光の屋敷として造られ、息子が古河家の養子に迎えられたので、古河家の邸宅になったものです。武蔵野台地の端っこになるので、地形差が大きく、なかなか面白い庭園です。石造りの屋敷の中の記憶はなかったなぁ。
古河庭園1

ちょうどお彼岸過ぎなので、ヒガンバナがたくさん咲いていました。なかなかこの季節に本州に行かないので、しばらくヒガンバナも見ていないです。
古河庭園2

ここは和洋双方の庭園があり、どちらも完成度の高いものでした。庭園美術館とここは、戦前の邸宅の雰囲気をそのまま残している、貴重な遺構と言えるでしょう。
古河庭園3

この時には、原美術館や新宿御苑にも行ってたはずなので、どこかにスライドが埋もれていることでしょう。これだけ回れたのも、35歳の若さがあったからでしょうが、貴重な経験をしたものだと思いました。

アール・ヌーボー&デコ

  • 2019.02.22 Friday
  • 05:52
ロフトでごそごそ捜し物をすると、毎度なにかを発掘してしまいます。今回出てきたものは、かつてパルコの3階にあった「CLIFFORD GALLERY」のカタログでした。この頃のパルコには、パルコブックセンターがあり、他の本屋にはない本がたくさんあったので、しょっちゅう行っってました。
クリフォードギャラリー

ずいぶんと凝った作りのカタログを見ると、1986年11月のオープン特別企画の招待券が。なんでこれをもらったのか、全く記憶がありません。この椅子は、1900年頃のイギリス製で、ウィリアム・モリスの布張りだとか。ガチョウの首の花瓶やランプは、1925年のティファニー作なので、アール・デコの全盛時代に作られたもののようです。
カタログ

その中に、88年3月のミュシャ展の葉書も入っていたので、この時がミュシャとの出合いになった可能性が高いです。この頃はアール・ヌーボーからアールデコにかけて、いろいろと懲りまくっていたように思います。
ミュシャ1 ミュシャ2

それならと、事務所に置いてあるスライドを探してみると、やはりありました。1987年9月に東京都庭園美術館に行った時のスライドです。ここは目黒の自然教育園の一角になっていて、どちらも何度か行ったことがあります。この門扉や埋め込まれた明かり窓からして、ずいぶんと凝った造りになっていました。
門扉

ここは旧朝香宮邸跡地で、朝香宮がフランスに留学していた時がアールデコの全盛時代にあたり、アール・デコの粋を尽くした建物となっています。スライドは庭園部分しかないので、なんでかな?と思っていたら、やはり見つけたカタログを見ると内部の写真撮影が禁止になっていたのでした。昔の一眼レフなら、ポケットに忍ばせて…なんてことは出来なかったからねぇ…(>_<)
浅香宮邸

カタログを見て少しずつ思い出しましたが、このガラスは迫力がありましたねぇ。他にもたくさんあったけれど、この冊子は全然いいところを撮していなくてがっかり。撮影禁止にするのなら、もっといいカタログにしなくちゃ。
ガラス

品川の原美術館も来年閉館になると言うし、昔通ったところをもう一度しっかり見直しながら歩きたくなりました。
庭園

彫刻美術館

  • 2019.01.15 Tuesday
  • 06:00
昨日は早仕舞して、かみさんと二人で札幌彫刻美術館へ。17日まで『本田明二展』があるので、またぎりぎりになって飛び込みました。本田さんの展示会は、これまでやっていなかったのかな?本郷さんの後輩にあたり、親しく製作の手伝いもやっていた方で、野外彫刻もたくさん残しています。
サイン

園庭に雪像を作るためか、雪の塊がたくさん。あとで聞いてみたら、月末(25日から27日)に「さっぽろ雪像彫刻展」という催しがあるそうです。雪まつりの雪像とはまた違う、彫刻家による「作品」のようですよ。
雪像づくり

半分くらいは木彫で、これほど力強い作品を残されていたのに、かなりびっくりさせられました。シンボルともいえる『馬碑』はカツラ材を彫ったもので、さすがに迫力満点でした。
馬の首

初期の木彫作品を、よくこれだけ手元に残されていたものだなぁと見ていくと、素晴らしい作品ばかりなのにちょっと感激。無心に彫っていた時期のものの力強さに、二人とも心底圧倒されてしまいました。
木彫

彫刻美術館は、今日は休み明けなので休館日ですが、16,17日はやっています。興味のある方はぜひご覧になって下さい。
案内

帰ろうと外に出ると、もう薄暗くなっていましたが、冬至の頃に比べれば、少し明るくなったような感じです。筋向かいにある屋敷の冬囲いは、私も若い頃にやっていたので、あのしんどさと、やり終えた時の達成感を今でも思い出してしまいます。
冬囲い

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