迷走の新球場が…

  • 2017.02.08 Wednesday
  • 06:05
先週の新聞に、「ハム新球場、八紘学園候補に」との記事がありました。北広島市に先行され、焦りに焦った札幌市が目をつけたのは、やはりここだったのです。
道新
 (北海道新聞の記事を拝借m(__)m   2017.2.2)

札幌ドームの目の前でもあり、産業共進会場跡地(月寒ドーム)の用地が今は空いているので、きっと目をつけるだろうなと思っていました。航空写真で見るとこんな位置関係になっています。
航空写真

八紘学園は、秋田県出身の栗林元二郎が1930(S5)年に設立した、農業の実業教育を行う学校です。開設当初から北大農学部との関係が深く、わが研究室も含めて先生方は開設当初から関わりが深いのです。先生に知り合いもいることから、ちょこちょこ出入りしていたので、「八紘学園七十年史」なる分厚い本もいただいております。これによると、開設時の八紘学園からすぐに(財)八紘学院へ、戦後は進駐軍の命令で月寒学院に改称させられ、1971(S46)年に再び八紘学院に戻り、1976(S51)年に学校法人八紘学園が運営する北海道農業専門学校となったものだそうです。
ああややこしい…
看板

農場の中を斜めに横切るポプラ並木は、学校の開設後まもなく(1930年代)植えられたものとのことで、北大農場のようにすっきりとはしておりませんが、なかなかの風格があります。これも真ん中を北野通が横切ったために、途中でぶち切られてしまってます。
ポプラ並木

ここの目玉の一つが花菖蒲園やラベンダー畑、ヘメロカリス類などの花卉類の増殖です。これらは北野通の向こう側になっており、ジンギスカンクラブの近くになります。おそらくねらわれているのは北側なので、このあたりもかかってしまうのでしょうか。一度真夏の暑い盛りに、研究会の見学会でこの中を一通り歩き、ジンギスカンを食べたことがありましたが、ここのマトンは臭みがなくて本当に美味しかったのを思い出しました。
ヘメロカリス類

かつて80年代には,北大農場ですら長沼に追い出し、跡地を開発しようという動きがありました。デベロッパーの目から見れば、こんなおいしい土地が「無駄に広がっている」としか見えないのでしょう。こりゃまたムシロ旗でも立てなければならなくなるでしょうか。私的には、アンタッチャブルだとされている真駒内の自衛隊をどこかに移し、あそこを活用するのが一番だと思っているのですが。そんな度胸のある役人はいないでしょうねぇ。

まちづくり

  • 2017.01.27 Friday
  • 06:00
ほぼ毎日チェックしている「東洋経済ONLINE」は、時々頭をがぁーんと、ど突かれる思いをさせてくれることがあります。数日前の『ドイツには「まちづくり」という言葉はない』という高松平蔵さんの記事は、まさにそんなものでした。(記事の内容は、またじっくりと読んでみて下さい。)
ドイツ

この記事にもあるように、「まちづくり」という言葉は、まさに1990年代からやたらと使われるようになりました。ただでさえ曖昧な言葉ではありますが、一般的には「さらに良い生活が送れるように、ハード・ソフト両面から改善を図ろうとするプロセス」(Wikiより)程度の意味で使われていると思っています。高度成長が一段落し、量から質への転換が求められるようになってきたことから、ようやく目線が足元に向いてきたとも言えるでしょうか。花博は、そういう意味では格好の起爆剤になりました。たとえば、日本花の会が毎年実施している「花のまちづくりコンクール」が始まったのは、90年の大阪花博が終わった翌年のことでした。
花のまちづくりコンクール

私が88年にコンサルに転職し、人前で話すようになったのが91年からですが、それを振り返ってみると「○○のまちづくり」という演題の多いこと。自分で付けた訳ではないけれど、なんだか恥ずかしくなってしまいます…(>_<)

北海道がフラワーマスター制度をスタートさせたのが93年、『花と緑のまちづくり賞』をスタートさせたのが96年からなので、90年代は花のまちづくりが満開になった時期といえるでしょう。ビズの八木さんが『ガーデニング』で流行語大賞に入ったのが97年ですから、まさにそんな時代にはぴったりの言葉だったのです。
花と緑のまちづくり賞

なにをぐだぐだと言っているかというと、現在連続講座が進められている「さっぽろまちづくりガーデニング講座」の最終回に、『花と緑のまちづくり』という題で講義をしなければならないのです!事務局とは、なにを話せばいいんでしょうねぇ…と弱気の打合せをしていたのですが、確かにドイツでよく使われるという”Standortfaktor”(日本語で言えば「立地要因」とか「立地特性」)の方が、ドイツ的な厳密さでアプローチ出来そうな気もします。この記事を読んでしまったので、また一から組み直さなければならないようですねぇ…(^^;)

魅力度・幸福度

  • 2016.12.30 Friday
  • 06:24
仕事納めが終わり、円山の渋滞もウソのように収まりました。昼夜兼行で行われている除排雪もかなり進み、あちこちの道路が広くなっています。世界最大の除雪規模を誇る札幌だけに、このあたりの進め方はさすがですね。年間の予算規模が200億円という、天文学的な金額を投入しているだけに、毎年水になって溶けてしまうことに、こんなに税金を投入し続けることができるのかいな…と思わざるを得ません。因みに駅前の地下歩行空間の整備事業が、ほぼ同じ200億の規模ですから、そのすごさを思い知らされます。

今年の10月に、「地域ブランド調査2016」の結果の概要が公表され、全国1,000市区町村の中で、函館市がトップになったというニュースが入ってきました。道内からは、トップ10に3位札幌、4位小樽、6位富良野と四つも入っているのですから、観光地としての魅力は十分に持っていることが分かります。(札幌はちょっと疑問ではありますが…)ちなみに都道府県でも、北海道はダントツの1位を確保していました。

ランキング
(第11回「地域ブランド調査2016」(株)ブランド総合研究所 ニュースリリースより 以下同)

インターネットによる調査ですが、項目が77もあるため、それなりの信頼度はあるのでしょう。もちろん観光が基軸なので、本州の人から見ればいいことばかりが目に付くのかもしれません。
調査方法

ただ経年変化を見てみると、低下傾向が続いていることから、「メッキが剥げてきた」ものか、旅の多様化が進んで、ほかの町の魅力が増えてきていることも考えられるでしょう。何もしなくても人が来てくれる時代ではなくなったことが、この経過を見ればはっきりと分かります。

年度別推移

それよりももっと大変なことが起きました。もう一つ、全国の中核市を対象に調査された「幸福度ランキング」で、魅力度トップの函館市が最下位になってしまったのです。幸福度ランキングは、(1)人口増加率、(2)1人当たりの所得、(3)国政選挙投票率、(4)財政健全度、(5)合計特殊出生率、(6)自殺者数 の6つを「都市の持続可能性や住民生活の根幹を支える要素」として基本指標に設定。これに健康や文化、仕事などに関する33指標を加えた39指標によって調査されています。ようするに町の元気度ですから、トップはトヨタのある豊田市だし、2位の長野市、3位の高崎市などが続いています。ここで函館市は、自殺者数や生活保護受給率、大学進学率の三つが最下位になるなど足を引っ張り、総合点で最下位になってしまったのです。
道新記事
(道新WEB 2016年12月15日 から拝借  m(__)m)

函館市議会でもこれが問題になったようですが、ここまで極端だと住んでいる者にとっては耳の痛い話でしょう。でもこれからがんばっていけば、少しずつでも上がるわけですから、魅力度が落ちないうちになんとかしてほしいものです。

追悼 平尾誠二

  • 2016.10.24 Monday
  • 06:00
先週滝野公園からの帰り道、なんとなくラジオを聴きながら、思わずえっ!!っとはじかれてしまいました。平尾誠二氏が亡くなった…と聞こえたのです。戻ってからさっそく調べてみると本当でした…

80年代からのラグビーファンとして、平尾たちの同志社は、泥臭い明治ラグビーに代表されるセオリー型のつまらなさを吹っ飛ばしてくれた、最高の痛快ラグビーを展開してくれたのです。同志社の3連覇、そして神戸製鋼の7連覇は、まさに同志社ラグビーの黄金時代でした。

   自由に!

セオリーによって選手が動くのではなく、その場その場で各自がベストのパフォーマンスを発揮できること。それが同志社ラグビーの強みでした。前へ!と縦突進しかできなかった明治や、フォワードが弱くて横に展開するしかなかった展開の早稲田!ではなく、フォワードでもバックスからでも、どこからでも攻めていけるのが同志社ラグビーの強みであり、それを大きく開花させたのは、間違いなく天才といわれた平尾がいたからこそでしょう。

解説

平尾は同志社を卒業後イギリスに留学した後神戸製鋼に入り、さらにそのラグビーに磨きをかけていきます。フォワードには先に入社していた林と大八木がいたので、これまでのラグビーとは全然スタイルの違う、無敵のチームを作り上げていきました。ウィリアムズの奇跡の逆転トライに象徴される、宿敵三洋電機の挑戦をことごとく跳ね返し、社会人ラグビーそのものの近代化を促していきました。ワールドカップ以来のラグビーの隆盛も、その延長線上にあったと思います。
ラグビー界では、早稲田OBの宿沢広朗(ひろあき)(55)、慶応OBの上田昭夫(62)と、優れた指導者が早生されるのが残念です。まさかこの大事な時に、スタンドオフ(SO)の平尾が倒れてしまうなんて… 合掌
評伝

原稿書き…

  • 2016.10.17 Monday
  • 06:01
久しぶりに原稿書きに追われ、特にこの二日間は缶詰状態で、必死に原稿を書いていました。これまでもたくさん原稿は書いているのですが、今回のはちょっと気を使う部分があり、なかなか筆が進みませんでした。
(やっぱり文字にするには、キーボードをたたけませんでした…では雰囲気が出ないもので…(^^;))
デスク回り

さすがに1万字超の原稿書きは大変です。少しは使い回しができるかと思ったけれど、残念ながらほとんど出来ませんでした。ようやくほぼ完成。久しぶりに脳みそを搾った感じがします。この二日間は天気もよく、あちこち行きたいところもあったのになぁ…(>_<)

まぁ、受けてしまった以上は、がんばらない訳にはいきませんので。
したがって、今日のブログはお休みさせていただきます。m(__)m

暮しの手帖(札幌編)

  • 2016.10.08 Saturday
  • 05:56
南国四国に住んでいた者が、なんで北の果てまでやって来たのか、と言われると、たいていは「家から一番遠いところに行ってみたかった。」と答えていました。でも本当は、暮しの手帖のある記事に、少なからず影響を受けていたのです。1964年の73号には、日本紀行 その3「雪と土と星の町」として、札幌が冒頭27ページにわたって特集されていました。

発売された時にはまだ12歳ですから、どれだけ読んでいたものか分かりませんが、他の町の特集には見向きもせずに、その後何度も何度も読み返していました。なんで煤煙に煙る汚い街に惹かれたものでしょうか…
日本紀行札幌_0

特に中学から高校にかけて、学園紛争の嵐の中に翻弄されて神経をすり減らしていた時に、北の端にこんな理想に燃えた学校があったのか…どうせ大学に行くのなら、ここを選べばいい!と考えるようになっていったのです。
日本紀行札幌_1

少し長いですが、52年前の札幌の姿を振り返ってもるのも一興でしょうか。現役で受験に来た時には、全くこのままの通りと言っていい姿の町でした。住み始めて2年目の冬に、円山のおんぼろアパートに住んだ時、家賃を払いに大家の部屋に行くと、これと全く同じようなストーブの前で、シャツ一枚でビール飲んでました。
日本紀行札幌_2

やや感傷的で時に激しい筆致になるこの文章は、誰が書いたとも何も書かれておりません。花森安治がこんなに地方をじっくり回るヒマがあったのか?とも思いますが、やっぱり花森によるものだと思います。署名記事ではかなり抑制的な書き方をしていますが、これでは感情がほとばしるように筆が踊っています。
日本紀行札幌_3

72年には冬季オリンピックがあり、一浪してやって来た時には、札幌の町はどんどん変わっていく途中でした。地下鉄ができたばかりで、駅前通から電車が姿を消し、その復旧工事でグチャグチャドロドロの町になっていたし、ここに書かれていた通り、本当に汚い街に来たものだと心底思いました。
日本紀行札幌_4

確かに雪解け後はものすごく汚かったし、それが乾くとひどい砂埃で髪の毛がザスザスになってしまったけれど、5月になり緑が萌えるに連れ、まさに「なんということでしょう〜」と、感激の嵐に包まれてしまいました。うっとうしい常緑広葉樹の世界しか知らなかったので、鮮やかな緑を見るにつけ、弾けるようにあちこち歩き回りました。やっぱり来てよかったと、心底思ったのです。
日本紀行札幌_5

現実と理想の違いには、その後も何度もぶつかりながら、ともかくもこの町で生きてきました。今読み返してみても、ちょっとこの捉え方はなぁ…と思わないでもありません。でも四国の片田舎から、思い切って飛び出す勇気を与えてくれたことには間違いありません。
日本紀行札幌_6

暮らしの手帖の冒頭に、カラーページを30ページ近くも取って、こんな特集を載せた意図はなんだったのでしょうか?戦後の復興期に合わせて創刊し、なんとか普通の暮らしを少しでもよくしていこうと努力して、それなりの成果というか、手応えを感じていたことでしょう。それが一気に高度成長期に突入し、いわばバブルに翻弄されていくような世相に対して、花森はかなりの危機感を持っていたことと思います。そんな焦りがこの様な企画を生んだのではと思っています。
ともあれ、一人の人間がこのように北の国にやってきて、とうとう住み着いてしまったのですから、この雑誌もその役目を果たしたといえるでしょう。
日本紀行札幌_7

暮しの手帖(初期編)

  • 2016.10.07 Friday
  • 05:57
時雨模様の天気になり、日一日と冬に近づいていきそうな毎日です。家に帰るとストーブが燃えていて、家の中がほんのりと暖かくなっていました。一度火を着けるともう消せないので、これから半年以上お世話になります。10月に入ると現場の数が減ってくるので、現場からの報告も少なくなってきました。先日せっかく暮しの手帖を発掘したので、少し紹介しておきましょう。

1962年にこの雑誌を取り始めた時には小学4年生、65年からは町中の中学に通うようになりました。当時の学校は国鉄松山駅から5分ほどのところにあり、現在はスーパーになっています。3時に6時間目が終わり、次の列車は4時、4時半、5時くらいにありました。そこでまっすぐに帰らず、伊予鉄松山市駅近くの商店街に今でもある明屋(はるや)書店には、隣に古本屋がくっついていたので、ここに通い詰めていました。そこで暮しの手帖のバックナンバーを見つけたのです。母と相談して、少しずつそれを買い集めることにし、何度も何度も家まで運びました。
初期の手帖

古いものは10円とか20円くらいだったような気がします。(定価が初期は110円、66号で190円でした。) せっせと集めて、創刊号だけはとうとう手に入りませんでしたが、ほとんどのバックナンバーを集めることができました。こうしてみると、初期の号の表紙にかけた花森の思いが伝わってくるようです。戦後まもなくですからねぇ。もう一つの特徴は、「帙(ちつ)」という、厚紙に布張りされた保存用の装具が用意されていたことです。10号までは一つに、それ以降は5冊ずつ綴じられるので、傷みもなく保存されています。
表紙

実は「とと姉ちゃん」を一度だけ見たことがあります。出張先のホテルで、迎えの車が来るまで時間待ちをしながら見ていて、これが大橋鎭子さんをモデルにしたものか!と思いましたが、花森役がちょっとねえ…(^^;) 平塚らいてうに原稿を書いてもらおうと、雨の中傘も差さずに出版社に通い詰めていた内容でしたが、2号の目次を見るとちゃんと平塚さんが書いているので、この時のことだったのですね。
2号目次

ちなみにモデルはもちろんみな社員。大橋さんも妹二人と共によく出ています。これが若き日の大橋さんです。
帽子

第2号のあとがきも紹介しておきましょう。ようやく出した創刊号の手応えが、ひしひしと感じられる文章です。これを見ると八版まで増刷されたものなので、うちのようにバックナンバーを買い求めた人がたくさんいたことが分かります。
あとがき

少し欠けていますが第一世紀のの100号、版が大きくなった第二世紀の100号と共に、我が家のロフトにぎっしりと詰まったまんまになっていました。じっくり読み返したい衝動に駆られますが、そんな日々がいつになったらやってくるのやら…

暮しの手帖

  • 2016.10.04 Tuesday
  • 05:53
滅多にテレビを見ることがないので、テレビの話題には付いていけませんが、先日までやっていた『とと姉ちゃん』は、気にはなっていました。舞台が『暮しの手帖』であり、主役が大橋鎭子さんと花森安治だったからです。我が家に暮しの手帖がやって来たのは1962年の秋ですから、私がまだ小学4年生のことでした。それまでどんな本を読んでいたのか、あまり記憶にありませんが、この本の内容はとても新鮮で、夢中になって読んだものでした。
66号

その号の商品テストはフライパン。ホットケーキや野菜炒めをひたすら焼き続け、熱のムラや底のゆがみ具合、柄のがたつきなどをテストして、結局のところ昔ながらの鉄のフライパンに落ち着いています。樹脂加工のものが980円に対し、鉄のフライパンは200円ですから、これで十分ということになったようです。ここに小さく二重丸が書かれているので、母も安心して鉄のフライパンを使い続けたのでしょう。
フライパン

我が家の暮らしを変えるほどの記事が載ったのは次の67号です。暮しの手帖にとっても、商品テストの中で一番センセーショナルになったものが、この石油ストーブだったのかもしれません。早く暖まるのはどれか?温度が上がるのはどれか?しっかり暖まって燃費のいいものはどれか?臭いのないものはどれか?満タンで何時間燃やせるか?石油の注ぎやすさはどうか?火の着けやすさはどうか?運びやすいのはどれか?火傷の心配はないか?風が吹き込んでも燃え上がらないか?倒れても火が出ないか? こんなにたくさんのチェックを行って、Aおすすめします となったのは、結局のところイギリス製のアラジン社「ブルーフレーム」だったのです。
ストーブの試験

私の家は田舎の開業医だったので、診察室には冬は石炭ストーブが置かれていました。子どもの頃にはいつもこのストーブの周りにいて、毎度やってくる近所のじいさんばあさんにかわいがられていました。家の中で一番暖かかったからかもしれません。石炭の燃える匂いと、クレゾール石鹸の匂いは、私の匂いの記憶では一番強いものでした。それがこの記事が出てすぐに、アラジンのブルーフレームに変わったのです。このストーブはその後10数年も使われ続けていました。診察が終わると居間の方に持ってきて、それまで小さな火鉢一つで過ごしていた我が家にも、温もりというものがやって来たのです。こんなに便利で暖かいものがあったのか、そんな暮らしの変化がこの雑誌から起きていました。
アラジン

この号のあとがきを改めて読み返すと、前に突き進んでいく花森の陰で、大変な苦労を続けていた大橋さんの苦悩が偲ばれます。少し長いですが、ここに引用さていただきます。
あとがき-1
あとがき-2

私自身ずっと『暮しの手帖』と共に成長し、ある記事を読んで北の大地に興味を持つようになりました。そんな人の生き方を支えてきた雑誌でもあったのです。

言葉の力

  • 2016.08.02 Tuesday
  • 05:55
毎朝ニュースとメールのチェックを行いますが、新聞をじっくり読んだあとなので、通常のニュースはあまり深入りしません。そんな中で必ずチェックするのが「東洋経済オンライン」です。もちろん経済が専門のサイトですが、その見方がとてもしっかりしており、たとえばこんな記事を読んでしまうと、なぜか胸のつかえがすっきりとしてしまいます。(鉄道最前線というコーナーがしっかりと作られているのもうれしいところ。)

そんなサイトに、昨日ひっそりとこんな記事がアップされました。ヒラリー・クリントンの大統領候補受諾演説です。(受託ではなく受諾でしょう)
受諾演説

この演説はちょうど一時間。そのすべてを和訳してくれているので、それを読めば分かるのですが、左下のボタンを押してこの動画を固定すると、ヒラリーの演説を聴きながらその和訳を読んでいくことができるのです。(自宅の古いMacではその機能がありませんでした…) 英語力の乏しい私でも、その意味するところがよく分かってぐいぐいと引き込まれてしまいます。(なにせ一時間もかかるので、昨日は飛ばし飛ばしでも2/3くらいしか聴けませんでしたが、暇がある時にぜひご覧になって下さい。)

解説

全く原稿もなく、ピッタリ一時間これだけの演説をよどみなく続けられる能力には、ただただ感服せざるを得ません。アメリカの大統領たらん人は、当然このくらいのことは平気で出来なければならないのでしょうが、様々な身近なエピソードを交えながらも、この大統領選で何が課題なのか、きちんと網羅されていると思います。その伝える言葉の力強さ、どうしても我が国の政治家の貧困さと比べてしまうのです。

もう一つ時々チェックするものに「ハフィントンポスト」があります。自らの取材というより、各サイトからピックアップして構成されているニュースが主体ですが、その中に「ハフポスト 注目ブログ」というコーナーがあり、いろんな方のブログが紹介されています。少し前ですが、世田谷区長保坂展人氏のブログが紹介され、ヒラリー・クリントンと熾烈な指名競争を演じたバーニー・サンダースの演説が引用されていました。
バーニーサンダース

「Morality and Justice(道徳と正義)」と名付けられた4分ほどの動画ですが、これを聞くと彼がなぜこんなに若者や弱者の支持を集めてヒラリーを追い詰めたのか、その一端が分かるような気がします。これもサイト内にその全訳が掲載されているので、ぜひご覧いただきたいと思います。
道徳と正義

トランプやシンゾーのように扇動的にしかしゃべれない奴はともかく、人々に語りかける言葉の力強さには本当に感服させられます。こういう話術は単にテクニックとして学んで身に付けたものではないでしょう。政治家としての日頃の活動の積み重ねが人間性を形成させ、市民と身近に語り続けているからこそ、このような言葉が紡ぎ出されてくるのでしょう。我が国の薄っぺらな「政治屋」とは大きく違っていることを痛感させられました。

アベ政治を許さない!

  • 2015.09.18 Friday
  • 05:52
私の手元には、ベ平連が作成したこの小さなバッヂがいつもあります。今から46〜7年前、まだ高校生だった私にとって、勉強や受験で悩むことと同じく、ベトナム戦争や日本の政治状況が大きな問題になっていました。
殺すな
(「殺すな」という文字は岡本太郎、デザインは和田誠によるものです。)

ベ平連は特に組織がある訳でもなく、私も参加していたつもりは全くありません。当時の日本が70年安保改訂を控えて、どんどんアメリカの軍事戦略に組み込まれていくことに対する危機感をもったとき、この「殺すな」というメッセージはとてもシンプルに理解できました。日本を兵站基地化しながらベトナムに出撃していくアメリカ軍に対して向けられた、「殺すな」というシンプルなメッセージは、田舎の高校生だった私にも力強く響いたし、日本という国がどうなっていくのか、真剣に考えるきっかけを与えてくれた、私の原点と言えるものでした。

そして今、あれだけの犠牲の上に作られた平和憲法がシンゾーによって踏みにじられ、この国の形が大きく変わっていく忘れられない日を迎えてしまいました。他国に出かけてまで、「殺し」「殺される」国にしてしまった安倍晋三や自民党はもちろんのこと、平和の党の看板すらかなぐり捨てて権力の走狗に成り下がった公明党のことも決して許さない。シンゾーに殺された後藤健二さんのことも決して忘れない。この日起きたことを一生忘れずに、汚されてしまった日本をまたしっかりときれいにして、平和な国を復活させていかなければ。

アベ政治を許さない
 (金子兜太さん、お借りいたします。)

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