海外研修(デンマーク編2)

  • 2024.03.07 Thursday
  • 05:40
海外研修編もいよいよ最後になりました。1990年9月18日。コペンハーゲンのホテルの朝食は野菜もなく、トーストとリンゴ1個にハムが少しで、今までで一番悪いとメモにありました、バスで港まで行き、歩いて人魚を目指しています。こういう建物は百年ではきかないくらい古いのでしょうが、改築してはいけないという規制でもあるのでしょうか?本当に不思議でした。
海岸

「海岸に沿って新しいプロムナードができているが、結構遠い。人魚の像は、本当にたいしたことはない。」とあるので、始めから期待はしていなかったようです。
人魚

「そこから歩いて植物園に向かう。」とあってこの写真を撮していますが、花壇そのものはどこにでもある組み合わせだけど、たぶんタラノキが植えられていて写したものかと。夏から秋に大きな白い花を咲かせるので、鑑賞用にヨーロッパに持ち込まれていたようです。
花壇

植物園はコペンハーゲン大学の附属施設で、図面を見るとかなり小さい規模のようだけど全然記憶がなく、北欧4ヶ国目でそろそろ疲れが出てきたのかもしれません。「パームハウスは、外観は素晴らしいけれど中身はたいしたことはない。」とあるけれどその写真はなくて、ロックガーデンの写真が何枚か。このドライウォールは百合が原公園にあるものとそっくりです。
ロックガーデン

橋にアイビーゼラニウムのハンギングを付けるのが当時は流行っていたのか、いろんなところで見ています。大学の植物園でそこまでやるか…と感じますが。
橋

フクシアのスタンダード作りを見て、私の恩師が農場の技官に作らせていたのを思い出しました。バラとローズアカシアとフクシアのスタンダード作りをたくさん作り、農場で払い下げ(販売)していたのです。ここでは露地で越冬できるのか、ずいぶん茎が太くなっていました。
フクシア

「もう少し見たかったけれど、雨が強くなってきたのであわてて駅までバスで戻る。寒いのでホテルに戻ってセーターを取ってきて駅で昼食。オープンサンドでボリュウムは満点。」とありました。歩いて古い街並みが残されているストロイエへ。途中にこんな建物がありました。たぶんナツヅタのようだけど、どうやって剪定しているんだろう?
壁面緑化

北欧の町もイギリスも、日本みたいに様々な建築物が乱雑にひしめいているような所はどこにもなく、古い建物を外観はそのままでちゃんと使いこなしています。文化の違いといえばそうなんでしょうが、こうして見返していくとなんか我が国の街並みは情けなくなってしまいます。
古い街並み

※ここからイギリスに移動しましたので、こちらに続きます。

海外研修(デンマーク編1)

  • 2024.03.06 Wednesday
  • 05:39
1990年のヨーロッパ研修旅行編は、あと一つデンマークが残っていました。オスロから夜のフェリーに乗り、翌日9月17日9時ににコペンハーゲンに入港。ホテルに荷物を置いてまずは王立大学へ行き、都市計画や公園計画、町の再開発など、一緒に行ったA先生のヒアリングを済ませています。その後バスに乗って中央駅に行き、デンマーク国鉄の列車で約30分のヘムルベックへ。この年にJR北海道はデンマーク国鉄と提携し、駅や車輌のデザインの指導を受けるようになりました。新千歳空港駅や当時の特急車両が抜群のセンスだったのは、このおかげだったのです。
DSB

目的はここにあるルイジアナ近代美術館。彫刻作品のコレクションが素晴らしいので、是非行ってみたかったのです。「駅前はのんびりした田舎町の雰囲気。サインを頼りに田舎道をポコポコ歩くと、手入れのいい庭が。」
ヘムルベック

前にヘンリー・ムーアのこんな作品がなかったら気が付かないほど、美術館の外観はひっそりした建物です。
いきなりムーア

なんでルイジアナなのかと思って調べてみたら、ここを造った富豪は3回結婚したけれど、奥さんの名前はみんなルイーズだったそう。今では『世界で一番美しい美術館』と言われているそうです。そんな美術館の入口がここだなんて!
入口

「中に入ってびっくり。ムーア、サム・フランシス、ウォーホール、ジャコメッティーと、オールスターが勢揃い。とにかく開いた口が塞がらない。」とのメモが。
展示

屋外にも彫刻が点在しているので、中と外の関係が実にうまく設計されているのです。オーナーなのか、設計者なのか分かりませんが、とにかく抜群のセンスだと思いました。
回廊

今パンフレットを読み返すと、なるほどこういう関係だったのかと改めて感心。回廊で繋ぐことにより、外の雰囲気をうまく取り込んでいたのです。たぶん行った時には興奮して、こんなものを見ていなかったのではないかと。
マップ

メモには「外がまた素晴らしく、海峡を前にゆったりとした庭園が広がり、マグノリア、ブナ、トウヒなどが豊かな樹林を作り、ムーアの作品がでーーんと座っている感じが素晴らしい。」と、かなり興奮していた様子。私もこの時は30台なので、感性がまだ錆び付いていなかったようです。
野外

海外研修(オスロ編2)

  • 2024.02.22 Thursday
  • 05:37
翌日は日曜日。夕方船でコペンハーゲンに行くので、フェリーターミナルのコインロッカーに荷物を預け、電車でホルメンコーレンへ。ジャンプ台へ登る道端は、ヨーロッパトウヒやシダレカンバなど極めて単調で、林床はカルーナとコケモモだらけ。こんな乾いたところにカルーナが密生しているのにはびっくりでした。
林床

ようやくジャンプ台の下に着くと、ランディングバーンは満々と水をたたえた池になっていてびっくり。しかも野外ステージまであるので、ここでコンサートでもやるのでしょうか?、
ジャンプ台

足元まで行くと、岩をくり抜いた中にスキー博物館があり、日本でも使えるアイデアだけど、こんな岩盤が果たしてあるだろうか?とメモにありました。それにしても怖いような構造です。
スキー博物館

大倉山のようなリフトもなく、もちろんエレベーターも付けられないので、選手はみんな歩いて登るのでしょうか?「観覧席は手すりもなくただ段々になっているだけ。上まで上がったら眺めは抜群だが、足がガクガクになってしまった…」とあります。こんな細い斜路を滑り降りるのは怖いだろうなぁ…(>_<)
てっぺん

町中に戻り、お昼を食べようと歩いても、日曜日はすべての店が閉まっていて閑散としていました。「本当に日曜日は死の町で、一軒も開いていなくてうろうろしているのは観光客ばかり。ようやくマクドナルドで昼食にありつく。」とあります。今でもこうなんだろうか?

「午後からバスでバイキング博物館に行くが、建物は造りが面白いが、中身はたいしたものがない…」とありました。
バイキング

隣の民族博物館は、開拓の村のように昔の建物がたくさん復元されていました。ここのスライドがごっそりなくなっていて残念。スライドを使ったらちゃんと元に戻さなければいけないのになぁ…屋根に白樺の皮を敷き詰めて防水層とし、断熱材代わりにピートのブロックをその上に敷き詰めて草を生やしていました。壁はログハウス造りなのでやはり断熱効果があり、同じ北方民族なのにアイヌの小屋よりは暖かそうに思いました。
民族博物館

この形の木柵は、ヨーロッパではどこにでも見かけました。動物を飼っているので、このようながっしりしたものが普及したのでしょうか。生きた木を使ったカントリーヘッジは、この時には見かけなかったです。
フェンス

海外研修(オスロ編1)

  • 2024.02.21 Wednesday
  • 05:47
1990年9月15日。11時半にエーテボリの空港からプロペラ機に乗り込み、「氷河に削られた岩盤のすごさばかりが目に入る。降下時のゆれること…気分が悪くなりそう…マリーナ等とても美しい。」とありました。無数の別荘があり、すぐにヨットに乗り込めるようになっていました。
フィヨルド

「2時過ぎにホテルにチェックインして市内へ。まず墓地を見るが、古すぎてあんまりきれいでない。」とあるけれど、なんで墓地を見に行ったものなのか??
お墓

「町をうろうろ歩いて中央駅に行き、マップやカタログを入手。オスロカードを買ってバスでフログネル公園へ。」この公園はヴィーゲラン自身が設計し、その一部がヴィーゲランの彫刻公園になっています。アプローチの雄大さには圧倒させられました。
フログネル公園

この迫力にびっくり。やはり実物を目の当たりにしないと、彫刻は伝わらないものだと感激でした。メモにはいろいろと書かれていましたが、「日展作家に見せてやりたい!」とあって吹き出してしまいました。
作品1

こういうのは「もどき」の作品がたくさんあるけれど、やっぱのこれが本家なんだと納得。よくこれだけたくさんのの作品を残せたものです。
作品2

広大な公園の真ん中にある『モノリス』の入り口にある門。ガイドブックの表紙になっているほど素晴らしいデザインです。
門

モノリスといえば、映画「2001年宇宙の旅」では巨大な石板が出てきましたが、このような石柱やオベリスクなどを指すそうです。影響を受けて似たようなものがたくさんありますが、これほど迫力のある彫刻は他にはないでしょう。ここも再訪したいところの一つです。
作品3

海外研修(エーテボリ編2)

  • 2024.02.14 Wednesday
  • 05:39
植物園を見学後、園長の車で次の訪問地エーテボリ大学まで送っていただきました。ここではラルズ教授から、この町の都市計画や交通計画等を1時間半ほどヒアリング。北海道にも来たことがあり、とても世話好きな方で、午後から行くところの手配までしていただきました。大学から歩いて中央駅へ。ここの市電は超レトロで、バリアフリーどころではなく、年寄りはどうやって乗るんだろうと思うほど。
トラム

いろんな車輌が混在し、これが市電なの?というものまで入り交じって走っていました。これでマリーナのある海岸方面に向かったのですが、とても時間がかかるので、ちょうどコロニーガーデンが見えたところで下りることに。
電車

これまで見てきたものより広く、手入れもいいし、中心の共同施設も立派とメモにありました。必ずリンゴなどの果樹が植えられ、野菜はほんの少しで花が充実しています。
コロニー

ヘルシンキやストックホルムのコロニーでは、ちょっとした小屋程度の大きさでしたが、ここはちゃんと宿泊ができるほど立派な家という感じです。これなら週末はゆっくり過ごせるでしょう。
小屋?

再び電車で町まで戻り、マクドナルドで昼食をとってパームハウスへ。ここは1842年創立のThe Garden Society(庭園協会)が、北国の人達に冬でも緑を楽しめるような空間を作ろうとし、ロンドンで開かれた万博の目玉施設のクリスタル・パレスに影響を受けて1878年に造られたものです。なので、キューガーデンのパームハウスのミニチュア版といった感じでしょうか。
パームハウス

ここでも前庭に植えられた花壇の見事なこと。フクシアとブルーサルビア、白い花は多分マーガレットの組み合わせですが、とにかく株がしっかり育っていて、霜の下りるまでずっと咲き続けることでしょう。
花壇

バラ園には3,500本ものバラが植えられているそうですが、この時期にはそれほど咲いていませんでした。案内してくれた市の公園課の女史は、かなりの巻き舌で私は聞き取りにくかった…そうです。棒がまっすぐ立っているけれど、これは日時計かな??
公園課

なかなか面白い建物で、左側の正面はギリシャ風だけど、庭園側には2階までエスパリエ仕立ての木が。(樹種が書かれていないけれど、果樹ではなかったような…)町のど真ん中にこんな空間があるのですから、住んでいる人達はゆったりとした時間を過ごせることでしょう。
不思議な建物

ボルボの本社があり、町はどんどん発展していっているとお聞きしましたが、今でもこの空間はそのまま変わっていないようで、この町は是非もう一度訪問したいと思っています。

海外研修(エーテボリ編1)

  • 2024.02.13 Tuesday
  • 05:38
1990年9月13日の午後には、ストックホルムから飛行機でスウェーデン第2の都市エーテボリへ。Göteborg を日本語ではヨーテボリやイェーテボリ等いろいろな読みがありますが、ここではエーテボリとしておきます。

ここでは辻井先生が手配してくれて、エーテボリ植物園のゲストルームに2泊泊めていただきました。正面を撮した肝心のスライドが見当たらないのですが、ゲートを入った広場の修景がとても素敵で、一年草でこんなボーダー風の植栽なのに感激でした。
入口の花壇

もちろん食事は出ないので、歩いて町中へ。「歩いているとなんとセブンイレブンを発見。が、中身はたいしたことはなく、ビールとつまみ、朝食を買って帰る。」とのメモが。夕食は途中の店で、チキンとジャガイモなど…と書かれていました。

翌日の朝8時に正門で園長が待っていて、園内を案内してくれました。針葉樹の生育がとても素晴らしく、日本産のものは雰囲気がかなり違っていました。なんでもすくすくとまっすぐ伸びるので、同じ種類と思えないほどです。大陸性気候で風が弱いのかもしれません。
コニファー

大学の施設ではないので、どちらかというとガーデン的な要素が強く、とても素晴らしい景観が続きます。町中でもそうですが、一年草の使い方が特に素晴らしかった。
庭園

ピート(泥炭)のブロックを組み合わせて、ボッグガーデンの造成中。日本ではピートのブロックが出回らないので、こんなことができませんが、昔の建物ではこれを屋根に敷き詰めて、断熱材としていたのです。
ボグガーデン

ロックガーデンは、地形を活かしてかなり大規模なものでした。後で行ったキューガーデンのロッケリーはいかにも作った感がありありでしたが、こちらの方が自然な雰囲気でよかったです。滝野公園で峠の庭を作った時には、かなりここを意識しています。
ロックガーデン

9月なのでほとんど花かはありませんが、唯一写真に写っていたのがこのエノテラ。マツヨイグサの仲間はほとんどが北アメリカ原産ですが、これもロッキー山地原産のエノテラ・ケスピトーサ(Oenothera caespitosa)のようです。
エノテラ

この植物園は北欧では最大規模で、開園してちょうど100年経っています。面積が170haですから、北大のキャンパスより少し小さいくらい。大部分は森林ですが、庭園部分の造りはどこも素晴らしく、日本でいえば神代植物園に感じが近いと思います。いろんな写真を見返しても、また行ってみたいと思ってしまいました。
コンテナ

このTシャツは、園長さんからお土産にいただいたもの。園のシンボルがアネモネ・ネモローサ(Anemonoides nemorosa)(ヤブイチゲ)なんです。私が着るとダボダボなので、ほとんど箪笥で眠っていますが、たまに出てくるとちょっと懐かしく思ってしまいます。
Tシャツ

海外研修(スウェーデン編2)

  • 2024.02.10 Saturday
  • 05:46
この海外研修については、2016年に最初のフィンランドと、次に行ったスウェーデンの、ストックホルムに着いた午前中まで紹介していました。北欧はスウェーデンの残りと、ノルウェー、デンマークが残っているので、特に話題のない冬の間に、できるだけ紹介しておきます。

ミレスガーデンからストックホルムの町中に戻り、地下鉄に乗って終点のバーガーモッセン地区を見学。この辺りのセレクトは一緒に行った北大のA先生が調べてくれたものです。札幌でいえば真駒内のようなところで、「駅前に商業施設があり、4層の集合住宅が広がっている。歩行者道路は完全に分離され、ゆったりとしたロケーションは素晴らしい!」と野帳メモにありました。
郊外住宅地

低層の小学校や幼稚園が点在し、遊び場の広いこと。遊具はさすが北欧スタイルで、これだけ緑に包まれてこそこの色が引き立つのであって、日本の砂ぼこりが舞う児童公園に置いても全然映えないです。
遊び場

駐車場も緑に包まれていて、「木を剪定する」なんてことは夢にも考えないのでしょう。日本の街路樹をみたら、樹木への虐待だ!と怒られそうです。
駐車場

街角のちょっとしたプランターは、置き方も植栽も本当にセンスがよく、ピタッと決まっているのです。ベコベコしたプラスチックのプランターなんか、どこにもありませんでした。
プランター

遠目にはイチイかと思ったけれど、広葉樹なので近寄って見たら、なんとセイヨウサンザシでした。樹種の使い方には、意表を突かれることが多々ありました。
セイヨウサンザシ

町中に戻り、コロニーガーデンのことを知りたくて市のコロニーガーデン協会を探していたら、日本人に声をかけられました。協会は引っ越してここにはないから、私が案内してあげましょうとのこと。スウェーデン在住24年の方でした。余暇の多い国なので、時間を有効に使わないとノイローゼになるそう。ボートやヨット、キャンプやコロニーガーデンなど、あきれるほど遊ぶそうで、慣れるのに10年はかかりました…と。この辺りのコロニーガーデンは狭い方だとか。
コロニーガーデン

ロシアのダーチャなどと同じく、短い夏に精一杯野菜や果樹を作り、保存食を貯えるようです。ヘルシンキでは土地は市の用地で、地上権を買っているとのことでした。ここはどうなっているのか分かりませんが、日本の市民農園とはえらい違いでしたねぇ…
庭園

海外研修(イギリス編3)

  • 2024.02.08 Thursday
  • 05:35
先日の続きで、まだロンドンのデジタル化した画像が残っていました。ロンドン市内の移動はすべてバスと地下鉄です。地理感だけは誰にも負けなかったので、2週間の旅の移動はすべて私の役目でした。今思えば、たどたどしい英語力でもなんとかカバーできたものです。たいていはワンデーカードを買って移動したので、2階建てバスでも乗り降りはスムーズでした。
バス

バスはどこを通るのかが分からないので、なるべく地下鉄に乗りましたが、さすが最古の地下鉄だけあって、施設の古いのにはびっくりだし、トンネルぎりぎりのサイズの車輌が爆走するのは感激もの。イギリスでは表示は Subway ですが、普段は The Tube というのに納得です。
チューブ

よく映画に出てくるロイヤルアルバートホールもちょっと感激。ハイドパークの横にあって、こういうのは完全にお上りさん感覚でした。
ロイヤルアルバートホール

野帳のメモを見ると、「ハイドパークはあまりに広くてうんざり。風が冷たく消耗したのでバスに乗ってピカデリーサーカスで下車。タワーレコードを覗いたけれど、日本と変わらず同じものばかりだった。フォートナム&メイソンに入るが、女の子ばかりでたじたじになる。ものすごい人気があるんだ…」とありました。東京でいえば銀座みたいなものでしょうね。
ピカデリーサーカス

翌日はいよいよ最終日。「午前中テムズ川の河畔を散策。タワーブリッジを寒風をついて渡り、エコロジーパークというところを見に行ったら、工事中で閉鎖されていた…」とありました。9月21日でもイギリスはかなり寒かったようです。「仕方なくバスでホテルに帰り、預けてあった荷物を持って地下鉄でヒースロー空港へ。」
ロンドンブリッジ

このあとヘルシンキ経由でようやく成田へ帰ってきました。初めての海外旅行だったので、さすがにくたびれた感じがメモの端々に出ており、なかなか面白かったです。

海外研修(イギリス編2)

  • 2024.01.27 Saturday
  • 05:35
イギリス編の続きです。キューガーデンズから町中に帰り、夕方まで少しあるので、近くのリージェンツパークへ。面積が166haもある巨大な公園(モエレ沼公園が188ha)なので、ほんの一部をかすめたくらいしか見られませんでした。北欧もそうだったけれど、野鳥やリスなどがやたらなついていて、ベンチに座るとすぐにやって来ます。スズメが手に乗りそうなくらい近くに来るのにはびっくりでした。
リージェンツ1

池に架かる橋には、びっしりとハンギングバスケットが取り付けられていて、誰が管理するんだろうと思ってしまいます。
リージェンツ2

至る所にある花壇は、どれも必ずシルバーリーフで縁取られていました。日本ではまだトウゴマなんか使っていなかったのでは?
リージェンツ3

翌日(1990.9.20)は、電車に乗って北の郊外にあるウェルウィンへ。エベネザー・ハワードが提唱したガーデンシティ(田園都市)の、実現した第1号はレッチワースで、その次がこのウェルウィンでした。ここのスライドがごっそりなくなっているのであまり紹介できませんが、これがその後のまちづくりのモデルになったので、恵庭の人達がニュージーランドのクライストチャーチで見てきたのは、こんな風景だったはずです。
ウェルウィン1

我が国でもこの田園都市に影響を受け、大阪近郊の千里山や東京近郊の田園調布などは、ここをモデルに造られたのです。町には緑があふれ、至るところにこのような修景がされていました。今でもほとんど変わっていないのではないでしょうか。
ウェルウィン2

午後にロンドンに戻り、今度はハイドパークへ。これも巨大な王立公園で、迷子になりそうな広さです。ここの花壇も見ての通り、黄色のマリーゴールド、白いゼラニウム、紫のブルーサルビアの補色関係を少し白で薄めています。
ハイドパーク1

こちらを見てしばし唸ってしまいました。大通公園で造ろうとしたシロタエギクとヘリオトロープの組み合わせが、ちゃんとここでも造られていたのです。結構費用がかかりそうだけど、もう一度チャレンジして造ってみたいですねぇ…
ハイドパーク2

海外研修(イギリス編1)

  • 2024.01.25 Thursday
  • 05:33
以前(2016年)にも少し公開していたけれど、1990年に初めて海外に行った時のスライドが、キャビネットの一番手前にありました。会社に提出した報告書が行方不明なので、いまいち詳しいことが分かりませんが、スライドがカビたり変色しないうちにスキャンしておかねばならないので、仕事の合間の気分転換に、30枚ほどスキャンしてみました。

1990年9月8日に出発し、北欧4ヶ国を回って18日の夕方にロンドンに入っています。翌日朝一番に向かったのがキューガーデンズ。半日ではとても回れないので、主なところだけと意気込んでの入園でした。
キューガーデン

まず向かったのはパームハウス。溜息が出るほど美しい温室で、1848年の建設とはとても思えません。現代だと耐震基準だとかでメチャごついものしかできないのかもしれませんが、世界最高の温室であることは間違いありません。
パームハウス

一緒に行った先生はスタスタと行ってしまいましたが、私は周りにある花壇に夢中でなかなか前に進めません。あとで嫌という程見せられましたが、シルバーを含むカラーリーフの使い方が見事なのと、パープルの花の使い方がうまいのには目を奪われました。実はこの数ヶ月前に、大通公園の再整備で生まれた帯状花壇の植栽を頼まれ、シロタエギクで縁取られた中にヘリオトロープを植えようとしたのですが、材料が手に入らず、白のスイートアリッサムに縁取られたゼラニウムミックスの花壇にしました。このあとそんな花壇があちこちにあるのを見て驚いた記憶があります。
花壇

最古の温室と言われるオランジェリーは、耐寒性の弱いオレンジ類を冬期間保護するために作られたものですが、この時は売店とカフェが入っていたかと。中を撮したスライドがごっそりなくなっているので、どこかで使ったまま戻さなかったものでしょう…(>_<)
オランジェリー

ちょうどカルーナが見ごろになっていたヒースガーデン。これを見ると、この3年後に造ったさとらんどのヒースガーデンは、完全にこれに影響を受けていることが分かります。
ヒースガーデン

園内あちこちにあるちょっとしたスペースが、きちんと修景されているのに感心しきりでしたが、カラーリーフの使い方がうまく、材料も多彩なのに驚かされました。これから34年経っているけれど、ようやくこのレベルに追いついてきているでしょうか。
カラーリーフ

道路地図

  • 2023.12.30 Saturday
  • 05:51
新しく作った業務の報告書を本棚に入れようとしたら、一杯なのでなにかを出さなければなりません。本が倒れないようにダミーで入れておいた本の中に、分厚い道路地図があったのです。久しぶりに見た道路地図ですが、懐かしくてしばしめくってしまいました。今はカーナビが標準で付いているけれど、昔はかなり高価なオプションだったので、もっぱら道路地図が頼りでした。これはちょうど2000年版なので、23年前のものです。

    道路地図

苦手だったのが、中空知や南空知の田園地帯で、真っ平らのところに拓殖区画の格子状道路が延々続くので、どこを走っているのかが分からなくなってたしまうのです。この南幌から長沼、恵庭にかけての地域にものが挟まっていたので、よくここを見ていたはずです。慣れないところでは、道路地図は必須でしたから。

南空知

たくさんの観光案内図や地図のコピーが挟まっている中に、高速道路の地図が何枚もあります。函館までの高速道路は、ずっと室蘭まででしたが、少しずつ伸びていってこの時は国縫(くんぬい)までになっています。これで下道を車が走らなくなり、長万部にずらりと並んでいたかに飯の食堂が、かなやを除いてすべてなくなってしまいました。ドライブインというものが、この時期から消えていったのです。

道央自動車道

これは道東道のマップで、この時は夕張と十勝清水の間がまだ不通でした。この時にはもう石勝樹海ロードが完成していたので、夕張から日高に抜けて、日勝峠を越えて十勝に入るルートがありましたが、それまでは富川まで行って平取から日高に抜けたり、いろんな道を通っていました。高速ができてしまうと。途中でいろんな発見がある寄り道がなくなってしまい、移動の面白味がなくなってしまったのです。

道東道

もう多分売られていないであろう道路地図は、暇つぶしによくめくっていました。アナログのよさは今の人には分からないだろうなぁ…(^^;)

朝の散歩

  • 2023.07.27 Thursday
  • 05:48
帯広では駅前のホテルだったので、朝食前に恒例の散歩に出かけました。昨年は駅前広場のシナノキが異常開花してベタベタになっていたので、今年は反動であまり咲かなかったようだなと見ていたら、いきなり女子高校生の団体が走ってきて、賑やかにストレッチを始めました。インターハイの女子サッカーが帯広であったようです。
駅前広場

アカナラの街路樹が空を覆っている駅前通を下っていくと六花亭の本店が。ミズナラとハルニレが、思いっきり背伸びしてビルの上で枝を広げています。ここまで大きくなるとは思わなかったなぁ…(^^;)
六花亭

掃除をしたり水をやっていた方と少し話をしましたが、毎日のようにしっかり水をやってくれているので大きくなるはずです。奥の壁にはカシワの葉を模したオブジェがあり、黄色い自転車はなに?と聞いたら、車止めと思ってくれないので、後から付けたんでは?とのこと。なるほどねぇ。
自転車置き場

藤丸さんには何も思い出はないけれど、こうしてみると巨大なデパートだったんだなぁと思います。跡地利用はなかなか進んでいないようですが、一等地だけにいろんな案が出てくることでしょう。
藤丸

中心部最大の中央公園には、これまで一度も行ったことがありませんでした。元々が小学校の跡地ということで、地形の変化は全くなくのっぺりとした印象でしたが、ごちゃごちゃしていなくて十勝らしい伸びやかさを感じます。
中央公園

カシワの保存樹もありましたが、十勝に来るとどこでもスラッと立っているハルニレに目が行ってしまいます。札幌ではこんな樹形にはならなくてどこかいじけてしまうのに、どうして十勝のハルニレはこんなに素直に伸びるんだろう…?
ハルニレ

西三条通を駅の方に歩いていくと、??フロリスト?花屋?という巨大な建物が!建物の形状や配置がきっちりデザインされ、緑の質も高いのです。
フロリスト

元々は花屋かもしれませんが、ウェディング一式がここで出来るようになっていて、開いているすき間から中を覗いてみると、ガーデンでパーティーもできるようになっていました。今どきのウェディングは、ホテルの宴会場ではなくてこういうところにシフトしているのでしょう。
中庭

高齢者講習

  • 2023.04.27 Thursday
  • 05:42
今年は運転免許証の書き換えがあり、70歳を過ぎているので高齢者講習を受けなければなりません。まだ先だけど、夏は忙しくなるので講習は先に済ませようと、昨日行って来ました。中央区には講習施設がここしかないので、迷うことなく桑園へ。
建物

受付を済ませてロビーでお待ちくださいというので、ボーッと景色を眺めていると、マンション群の左手に農学部の建物が見えてました。こんなに近くにあるんだとちょっとびっくり。
待合室

この教習所はショッピングセンターの屋上にコースがあることに今さらながら気付きました。こんな狭いクランクを通らされて脱輪したらどうしよう…といささかビビりましたが、あとで実際に実車指導で走った時には、ただクルクル回るだけでした。でもカーブで頭が出過ぎだとか、ウインカーが遅いだとか、いろいろとクレーム付けられてもひたすら我慢。我慢。
教習所

視力検査も通常視力は健康診断通りでしたが、動体視力は「劣っている」と。でも確実に分かってからレバーを押しているので遅くなるのは当然でしょう。でも右目が足を引っ張っているのは確かなので、気をつけるのに越したことはありません。
視力検査

この次に更新する時には認知症検査もしなければならないので、だんだんハードルが上がっていきます。否が応でも加齢との戦いが増えていくようです。

島の数

  • 2023.03.10 Friday
  • 05:27
先月国土地理院から、我が国の島の数がこれまでの 6,852島の2倍以上、14,125島あったとの報告がありました。以前の調査は1987(S62)年に海上保安庁が地図から人力で数えたものらしいですが、現在は電子地図になっているので、機械的に計測することができるようになっています。それにしても2倍以上とは…

地理院

これまでカウントされていたものに加えて、電子地図から周囲100m以上のものを、自動的に拾ったのが大きいようです。函館の緑の島のような埋立地ははじかれるけれど、洞爺湖の中島が入らないなんて、ちょっとかわいそう。

数え方

増えた例として挙げられているのが、神奈川県の江の島。これまで2つだったのか、7つになっているので3倍超。この調子で増えていったのでしょうか。

比較

それにしても、最大が長崎県の1,479というのは分かるけれど、北海道がたった6つ少ない1,473というのは信じられない!!以前は509だったので、3倍近くに増えているのです。しかし、感覚としてそんなに島がたくさんあるのかいな?と思ってしまいます。Google Earth で函館から小樽くらいまでざっと見てみましたが、とてもそんなに見つからないのです。これは函館の立待岬ですが、ここには確かにちらほらあるけれど、函館山の麓にはほかに全然見当たりません。

立待岬

これは襟裳岬ですが、確かにここなら100個くらいありそうだけど、こんな名もない岩礁を島というのかいな?市町村別のリストを早く見てみたいものです。

襟裳岬

'94地図展(その3)

  • 2023.02.24 Friday
  • 05:36
地図展'94でいただいた冊子の中に「空中写真で見る札幌の変遷」があり、その中に1948(S23)年に米軍によって撮影された空中写真がありました。今でもこの写真は国土地理院に残されていますが、我が国の国土を空撮したのはこれが初めてでしょう。その意味からはとても貴重な写真です。

空撮写真

これを見ていくと、あちこちにおやっと思うところがあって見飽きませんが、ここは大通周辺です。もちろんまだテレビ塔はなくて望楼があり、豊平館とその庭園がくっきり写っていて、大きな池があります。残念ながらこれを撮したのが4月22日と展葉前のため、ハルニレの木はよく分かりませんが、この池のたもとに立っていたことでしょう。大通は米軍に接収されていたので、テニスコートや野球場になっていましたが、現在泉の像があるところに建物が。大通に教会があったと何かに書いていた記憶があるので、多分それかと。

大通周辺

どの本だか分からなかったのですが、1950(S25)年当時の大通周辺の配置図には、ここには大通風致地区としか書かれていませんねぇ…
見取り図

もう一つ注目したのが、サクシュコトニ川がまだはっきりと残っていたこと。旧伊藤邸の裏の池から線路の下をくぐり、住宅地の中をぐるりと回って清華亭の前で大きくふくらみ(ちょうど井頭龍神のあたり)、北大構内に流れ込んで中央ローンから北に流れてています。川幅もかなり広く、きっとヌップサムメムからの湧水が、まだ豊富だったのでしょう。びっくりしたのは、北8条通が西7丁目までしかなく、農場が広がっていたことでした。旧偕楽園が北大構内と繋がっていたら、あの周辺はもっと素晴らしい空間になっていただろうと思うと、ちょっともったいないことをしたと思ってしまいました。

北大周辺

'94地図展(その2)

  • 2023.02.18 Saturday
  • 05:34
先日の地図展の続きになりますが、「空中写真で見る札幌の変遷」という資料が入っていました。札幌駅を中心にした部分だけですが、これが面白くて見飽きません。表紙は地図展の前年1993(H5)年6月に撮されたものです。

札幌の変遷

この中で、変化が一番分かりやすいのが札幌駅周辺なので、アップにして見てみましょう。鉄道高架が完成したのが1988年11月なので、もう5年経っているけれど、駅舎は元のままで渡り廊下のようなもので繋がっていました。新駅舎、JRタワーや大丸がオープンするのが2003年なので、まだまだ先の話です。

93

その前の写真はモノクロで、1985(S60)年9月に撮されたもの。鉄道高架の工事が進んでいるけれど、まだ南北の通りが生きているので、途切れています。石狩街道と西5丁目には陸橋があり、西5丁目はなぜか「おかばし」と呼んでいました。これを切り下げる工事が大変で、踏切のある西2丁目と西6丁目に迂回していたので、半年以上も大渋滞だったのです。88年10月に転職して東区の会社に勤め始めてすぐ、石狩陸橋が撤去されるというので、閉鎖になる2時間前にこれを渡って帰ったのが懐かしいです。

85

その前は1976(S51)年9月に撮されています。私が札幌に来たのが72年なので、大学4年生の時。確かに北口にはポツンと小さな駅舎があり、ビルなんか全然なくて木造住宅がびっしりと建っています。札幌に来てびっくりしたのは、屋根が青や赤のトタン葺きだったことでした。黒い瓦屋根しか見たことがなかったので、こんなペラペラのトタン屋根で寒くないのか?と思ったことを覚えています。

76

'94地図展(その1)

  • 2023.02.15 Wednesday
  • 05:39
先日デスクの横にある書類棚から、懐かしいファイルが出てきました。ここに来て20年になるけれど、この天井まである棚には、一度も触っていないファイルがたくさんあるはずです。そんなのが時々出てくるので、忙しいのについ見てしまうのです。
書類棚

今から約30年前に、今はなき五番館西武の赤れんがホールであった地図展'94さっぽろで集めて来たパンフレットや地図類が入っていました。子供たちは9,7,5歳なので、娘はとても興味を示していたけれど、下の二人には退屈だったかと…(^^;)
   地図展

こんな地図クイズなんか簡単に突破したけれど、子供用のクイズもなにかあったと思います。どんなのだったか記憶がないけれど、「地図で見る札幌の変遷」という3,500円もする地図セットが当たっているので、娘ががんばってくれたはずです。

  クイズ

お土産にいただいたはがきセットは、6枚の地図が縮小されていました。道内のものは2枚で、一つは1916(T5)年の札幌の五万図でした。市街地はまだ本当に小さく、ようやく鉄北に広がり始めた程度です。この頃の豊平川は、市街地側だけに築堤が築かれているだけで、平岸側はまだ自然河川のままのようで、千々に乱れて自由に流れていました。豊平橋をぎりぎりで架けてしまったために、ここがくびれて弱点になっている様子がよく分かります。
はがき1

道内のもう一枚は、一瞬どこか分からなかったけれど、地名を見てこれが長都(おさつ)沼かぁと分かりました。1935(S10)年改製の恵庭の図面です。同じくらいの大きさの馬追沼というのもあったし、宮北農場(現在輪厚にある農場のことかな?)のところにも大きくくびれた沼があります。これらが巨大な遊水池になっていて、左上から千歳川が流れ出しているけれど、そこの橋が舞鶴橋なので、きっとこの頃にはタンチョウが飛び交っていたのでしょう。地図を見ると本当に飽きないです。
はがき2

山線廃止

  • 2022.03.29 Tuesday
  • 05:51
とうとう山線の廃止が決まってしまいました。余市だけが抵抗していたのですが、肝心の小樽はさっさと白旗を揚げてしまい、道庁は当然のごとく当事者能力0で、あっけない決着ぶり。

廃止決定
  (北海道新聞 どうしん電子版より拝借…m(__)m)

函館と旭川を結ぶ函館本線は1905年に開通し、北海道の幹線として大きな役割を果たしましたが、20年以上遅れて開通した室蘭本線ができると、遠回りになるけれど急勾配のない路線のため、徐々に比重が低下していきました。長万部から小樽を経由する路線を「山線」、長万部から室蘭・苫小牧を経由する路線を「海線」と呼んでいるのです。
函館本線

比重が低下したといっても、有珠山が噴火して海線が通れなくなった時には、特急も貨物列車も山線経由で運行していました。交換(列車のすれ違い)ができる駅がほとんどなくなっていたため、貨客とも輸送力が弱く、あまり効果を発揮できなかったのですが、完全になくなってしまえばどうするのでしょうね。

山線

私が北海道に来た72年は、国鉄百年とかいろんなイベントがあった中に、最大のSLだったC62のお別れ運転も行われ、この頃の山線が一番盛り上がっていた時かもしれません。

  C62引退

当時はまだ山線回りの特急北海と急行ニセコがあり、四国と行き来する時はどちらかを使っていました。このキップは上りなので夜行になりますが、下りだと特急白鳥は大阪を9時頃に発車して、青森には真夜中の0時頃に到着。青函連絡船に乗り換えて4時間、函館からは山線周りの北海と海線周りのおおぞらが並んでいて、確かおおぞらが先に発車していました。長万部から山線に入る頃に明るくなり、羊蹄山を眺めたり切り通しにカタクリが満開になっていたり、山線の方が圧倒的に面白かったのです。

特急券

私が結婚したのが84年で、86年には北海もニセコも廃止されて優等列車がなくなっていますが、ちょうどこの頃からのんびり列車で移動する余裕がなくなり、飛行機を使い始めています。山線の思い出も、ちょうどこのあたりで途切れてしまいました。当時の車輌は、手宮の博物館に準鉄道記念物として保存されています。

北海

余市に娘が住むようになり、車を使わない時にはバスにあまり乗らないで、ほとんど列車を使っています。そのほうが子供たちが喜ぶみたいですが、いつまで乗れるのでしょうね。本当に残念です。

滝上錦仙峡

  • 2021.06.05 Saturday
  • 05:42
滝上には初めて泊まりました。陽殖園御用達のホテル渓谷は、道の駅から橋を渡ってすぐの所。シバザクラの時期にもかかわらず、宿泊客は両手で足りるほどではなかったかと。夕食はレストランでいただきましたが、静まりかえってました。テーブルには大きなアクリル板がセットされていましたが、さすが林業の盛んな町だけに、固定された台が立派な木工製品でした。食事はちょっと豪華すぎて食べきれないほど。もっと軽いプランにすればよかったかも…(^^;)
夕食

翌朝は一転して素晴らしい快晴になりました。でもこの時の気温はアメダスで確認すると2℃で、明け方には0℃まで下がっていました。恐る恐る窓を開けてびっくりな冷気です。
快晴

朝食前に腹ごなしの散歩。渚滑川に架かるこの橋は何度も渡っているので、ここに「錦仙峡」と名付けられている渓谷があるのは知っていましたが、この程度かなと思っていたのです。立派なバリアフリーの遊歩道が整備されているので、ここから歩いて行きました。
渓谷

しばらく行くと、ものすごい水音がして展望できる場所が。水しぶきがもうもうと立ち上ってすさまじい水音です。看板を見るとこの堰堤は『洛陽の滝』の名があり、なんと戦前(1933(S8))に発電と取水のために造られたものです。こんな大規模な土木工事が戦前に行われていたのですね。雪融け水が集まるこの時期が一番水量は多そうですが、町の真ん中にこんな施設があるなんて!
洛陽の滝

遊歩道の脇には、スズランやタチギボウシなどの野草がたくさん生えており、白花のノビネチドリが3本も咲いていました。町まで歩くと食事までに戻れなくなるのでここで引き返すことに。
ノビネチドリ

チェックアウトして町の中心部に車を置き、散策の続きを。この洒落た建物はなんとほくでんの水力発電所で、正式な名前は「滝上芝ざくら発電所」となっていました。これも造られたのが1925(T14)年で、現在の発電能力は260kWだそうです。この排水には「白亜の滝」という立派な名前も付いていました。
発電所

もう少し行くと、渚滑川に右手からサクルー川が合流しており、ここにも「蛟竜の滝」と「白馬の滝」と名付けられた場所がありますが、左の細い水路が蛟竜の滝らしいことは分かったものの、白馬の滝は右側の部分なのかな?とにかくものすごい水音で、この近くに住んでいる人は気にならなくなるのかなぁ?と思ってしまうほど。いくらカヌーの名手でも、この渓谷は下ることはできないでしょう。町のど真ん中に、こんな渓谷が続いていることには本当に驚かされてしまいました。
合流点

ハーブガーデンは定休日だったし、シバザクラも色が落ちていたのでパスして帰途につきました。車がほとんど走らない真っ直ぐな国道を上っていくと、道端の様子が変なので車を止めました。かなり強い霜が下りたらしく、オオイタドリやフキが茹だったように融けているのです。陽殖園は大丈夫だったかなぁ…?
遅霜

143列車

  • 2021.01.25 Monday
  • 05:48
数日前の新聞に、「ムーンライトながら 運転終了」という記事が。この列車には乗ったことがありませんが、この元になった東京発大垣行きの夜行列車には、若い頃にずいぶんとお世話になったので、ちょっと懐かしくなりました。

ながら

学生のころは、四国の実家に帰るのはせいぜい一年に一度で、飛行機なんかに乗らないのから大旅行になりました。一番安く上がるのがこの四国周遊券で、有効期間が20日あり、急行の自由席にも乗ることができたのです。札幌から15時くらいの山線回りの急行宗谷で函館へ、青函連絡船で青森に渡り、0時発の急行八甲田に乗ると上野に11時過ぎに着きました。東京で2,3日過ごしてから、東京発23時半くらいの大垣行きの夜行電車に乗るのです。
列車番号が143Mだったので、これを143(いちよんさん)列車と呼んでました。サラリーマンが小田原くらいで下りてしまうと、あとはガラガラで、ボックスシートに一人でのんびり寝ながら移動し、7時過ぎくらいに大垣に着くと、すぐに西明石行きの電車に乗り継ぐことができました。新幹線ができてからは、東京・大阪間には急行などなくなり(寝台急行の銀河はありましたが)、一番安く移動するにはこれしかなかったのです。

四国周遊券

その後はディスカバージャパンや、青春18きっぷなど、列車での移動が盛んになって来て、143列車も全席指定の「大垣夜行」やこの「ムーンライトながら」のような、特急車両を使った立派な列車になっていったのです。当時の写真など撮していませんが、ネットで探していたらなんと鉄道模型が売られていてびっくり。いわゆる湘南色の電車でした。

大垣夜行
車輌
内訳

松山からの帰りは、大阪から日本海回りで青森まで、18時間半ぶっ通しの急行「北国」に何度か乗りましたが、これはきつかった…(>_<) 今でいうエコノミー症候群で、連絡船に乗るための長い跨線橋を、よろよろ倒れそうになりながら歩いたことを思い出します。二度とできない貴重な思い出ではありますが…(^^;)

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