お年玉年賀切手

  • 2018.03.07 Wednesday
  • 05:54
先月初めに家のロフトで捜し物をしていて、子どもの時から集めていた切手のコレクションが出てきました。その中に、お年玉年賀切手がまとめて袋に入っていたのです。最近のは居間の整理棚に詰め込んでいたので、合わせて整理してみると、一番古いものが1962(S37)年からあり、今年2018(H30)年までの57年分のうち、45年分があることが分かりました。62年といえば小学校の4年生。家に来た年賀葉書を整理して、当たっているものを郵便局で引き替えてもらっていたことをよく覚えています。昔は葉書が5円、封書が10円だったのですが、ほどなく7円と15円に値上がりしていました。
お年玉年賀切手1

中ほどの1982(S57)年から1990(H2)年というと、結婚して子ども三人が次々と生まれていた期間に当たります。末っ子だけは昭和ではなく平成生まれになりましたが、この昭和64年というのはたった一週間しかなかったのですから。貴重なものかもしれません。最後のところで41円62円になっているので、いよいよ消費税が始まったことが分かります。
お年玉年賀切手2

その後50円80円がしばらく続いてますが、2015(H27)年からは52円82円になり、今年から62円82円となった訳です。初めの頃は葉書代×4枚付いていたものが、葉書+封書代1枚ずつになったし、昔は当選番号三つ当たっていたものが最近では二つになっているので、郵便事業もますます苦しくなっていることがよく分かります。考えてみれば、葉書も封書も手間は同じくかかるわけですからねぇ。
お年玉年賀切手3

今年は喪中だったから1枚しか当たらなかったけれど、毎年10数枚当たっているので、全体だとかなりの枚数になっています。はずして使うのも面倒だし、古物商はせめて等価で引き取ってくれるのかなぁ… 我が家には、こういうものがまだまだ隠れていそうです。

月光荘

  • 2018.02.12 Monday
  • 05:48
東京の公立小学校で、アホな校長が独断で制服をアルマーニにしたと大騒ぎになっています。そのこと自体も大きな問題ですが、背景にある保護者の特権意識とか、学校のブランド化だとか、本来子どものことが最も優先されるべき学校教育に、回りからくだらないことを持ち込んでいることこそ糾弾されるべきでしょう。

その泰明小学校の報道を見て、月光荘のことを思い出してしまいました。現在の店は銀座8丁目にあるようですが、40年前にはこの小学校の目の前にあったのです。(その後倒産していろいろあったようなので、今の店が昔の直系なのかはよく分かりません。)

月光荘

月光荘とは、創業者をひいきにしていた与謝野鉄幹、晶子夫妻から贈られた短歌からとられた名前だそうです。名前も独特の響きがありましたが、なんといってもホルンのシンボルマークが格好よかったのです。
月光荘の謂われ

月光荘のことを知ったのは、学生時代にここのグッズが身の回りで流行ったことから。中でもカーキ色のキャンバス地のショルダーバッグは、シンボルマークのホルンが格好よくて、何人も持っていたように思います。こんな形でもう少し高さが低く、色的には全くこれでした。

ショルダー

絵を描く友達がたくさんいたので、ここの画材の素晴らしさは聞いていましたが、私にはあんまり用がなく、唯一必要だったのが8Bの鉛筆でした。図面を書くにも花のスケッチをするにも、こんなに滑らかな鉛筆はいまだかつて見たことがありません。最近はボカシが必要な図面を書かないので用はなくなったけれど、引き出しの中にまだ2本入っていました。

鉛筆

銀座から有楽町方面に歩いて行くと、まもなく洋書のイエナ(JENA)がありました。札幌では丸善の上くらいしか洋書がなく、植物や園芸、花関係など皆無に等しかったので、ここでは何冊も買い込んで、重たい思いをして担いで帰ったことがあります。この店もネット購入の拡大にはあらがえず、2002年に閉店になってしまったので、このしおり1枚が店の名残になってしまいました。そして、数寄屋橋のソニービルを過ぎて左に折れていくと、まもなく泰明小学校の前に月光荘があったのです。2回くらいしか行ったことはなかったけれど、こんなニュースで思い出してしまうなんて…

古い切り抜き

  • 2018.01.25 Thursday
  • 06:00
連日厳しい寒さが続きます。昨日のお昼も、空はピーカンに晴れていたけれど気温は−6℃前後。夜に帰る時には、車載の温度計で−11℃になっていました。まだまだこんな天気が続く予報になっているけれど、これを乗り切れば春がぐんと近づいてくると、しばしの辛抱です。こんな天気でも毎朝ちゃんと走ってます。面の皮というのは意外と強く、多少ピリピリするくらいでなんともないし、5分も走れば体が温まってくるので、家に帰る頃には湯気が立つくらい汗をかいています。ちゃんと服を着ている時の方が、やけに寒く感じるのは不思議なものです。

今週はガーデニング検定の作問作業。今年も8人で手分けして問題作成に当たります。前回の合格率が65%を超したので、今回は最低でも2/3の壁を越えるよう、分かりやすく解きやすい問題を心掛けています。受験申込みの締め切りは3月2日、試験対策講習会の申込み締め切りは2月16日となっていますが、今年の受験者数が少なければ、来年は打ち切りになる可能性も十分ありますので、迷っている方はぜひ受けてくださいませ。

問題を作成するに当たっては、テキストだけでなくいろんな本で確認しなければならないため、本棚のあちこちから本や図鑑の出し入ればかりやっています。久しぶりに引き出した朝日「植物の世界」の中から、黄色く変色した切り抜きの束が出てきてびっくり。これは週刊で2年ほどかけて刊行されていたので、家でやっていた切り抜きと共に会社に持って行き、そのまま綴じてしまったようです。1995年の新聞なので、まだ前の会社の最盛期頃のこと。連日飛び回っていたので、すっかり忘れてしまったものでしょう。
切り抜き

切り抜きというのは、ついつい読んでしまうものですが、今なら切り抜かないだろうなぁというものまで。当時は海岸整備事業の仕事もやっていたし、このネット式海水浴場は、函館湯の川の熱帯植物園の海岸に整備されたもので、ちょうど子供たちが小学生だったから、夏休みに里帰りした時には毎度ここで泳いでいたところなので、懐かしく見てしまいました。
海水浴場

山岳博物館なんてものもありました。岩手県大迫(おおはさま)町にある山岳博物館は、早池峰山特産のハヤチネウスユキソウがエーデルワイスに近縁であることから、日本初のエーデルワイス展をやっていました。調べてみるとこの町は平成大合併の際に花巻市と合併し、この博物館も既に老朽化のため取り壊されて、収蔵品は後継施設に収蔵されておりました。時代の流れを感じてしまいます。
山岳博物館

明治の初めに一羽だけが捕獲されたミヤコショウビンの探索ルポが、4回のシリーズで残されていました。今では同定間違いではないかといわれている鳥ですが、こんなのんびりしたルポが認められるなんて…と、まだ世間にゆとりがあった時代なんだ思ってしまいました。
ミヤコショウビン

仕事で煮詰まってしまいがちな時に、こういうものが出てくると、かなり息抜きになってくれるのがうれしいもの。もう少しなので今日もがんばらなくては。

武四郎ブーム

  • 2018.01.24 Wednesday
  • 05:45
函館でこんなサイコロキャラメルが出てるよ〜と、送ってくれました。明治の「サイコロキャラメル®」は、昨年3月で販売が終了してしまいましたが、明治の生産子会社で実際にサイコロキャラメルを製造していた道南食品が、北海道「サイコロ®」キャラメルとして販売を再開していました。それの「北海道150年事業」バージョンとして作られたものです。
サイコロキャラメル

その中に、おまけとして小さく折られた絵図が入っており、それがなんと松浦武四郎が作った『新版 蝦夷土産道中寿五六』だったのです。開道150年ではまずいので、北海道命名150年としたために、今まで見向きもされなかった武四郎に、にわかにスポットライトが当たり始めました。なんと雪まつりの雪像にも登場するとか。きっと目を白黒させていることでしょう。
  双六

振り出しはやはり「箱館湊」。現在なら津軽富士とするところを、「ナンブ山」としています。
既に開港されて、函館山の麓には外国の公館ができていたので、旗が立っているようです。
振り出し

このあと日本海岸を北上し、江刺、熊石、島古巻、岩内などを経てシャコ丹、輿市に着きます。
余市ではサケがたくさん捕れていたのでしょうか。
余市

このあともずっと日本海岸を北上を続け、なんと利尻にも立ち寄り、今度はオホーツク海沿岸を南下してヱサシ、紋別、舎利を経て根諸に到着。ここでもクナシリとエトロフの寄り道があります。このあとは太平洋岸を西進して、アツケシ、十勝、幌泉、シャマニ、ユウフツ、モロラン、ヲシャマンベ、山越内を経て上りですが、上りの場所はどこ?
上がり

ここには『奥ふかき 千島のはても 二十一ツ ふりて見玉え 蝦夷しらぬ人』との歌が書かれているけれど、アイヌの人達は、なんでこんなに楽しく踊っているのかな?

フロッピーディスク

  • 2018.01.15 Monday
  • 05:54
先日捜し物をして、滅多に上がらないロフトのキャビネットや机の引き出しを開けてました。そうしたら懐かしいものが。5インチのフロッピーディスクです(正式には5.25インチですが)。これを開発したIBMは「Diskette」を正式名にしていたけれど、通称のフロッピー(柔らかい)ディスクのの方が通用してしまったそうです。
5インチ

30年以上前の植木屋時代、冬のヒマな時に見に行った事務用品の展示会で、当時出始めのワープロに釘付けになり、40万以上もするマシンを衝動買いしてしまいました。もちろんローンでしたが、当時の月給の何ヶ月分もするものを、よくもまぁ買ったものです。この画像の機種とは違いますが、頭にプリンターが乗っかっている、どでかいワープロでした。これにはフロッピードライブが二つ付いていて、まず左にシステムフロッピー(右の2HD、多分容量1.2MBくらい)を差し込んで起動し、次にもう1枚の記録用フロッピー(左の2DD)を差し込んで使うしくみでした。

  ワープロ

その後転職して入った会社は、コンサル部門だけでなく、オフコン部という、当時最先端のコンピューターの販売とリースも行っている会社でした。NECの代理店をしていたので、企業向けのオフィスコンピューター(オフコン)と、個人向けのパーソナルコンピューター(パソコン)の二本立てで、オフコンはこのN5200、パソコンは出たばかりのPC9800が主力でした。
N5200

N5200にはなんと8インチのフロッピー(同 1.6MB)が使われていたのです。こんな大きさで、なよなよしたディスクを扱うのですから、よくも傷ついたりほこりで読めなくなったりする事故が起きなかったものです。
8インチ

さすがにこんなディスクでは危険なので、ソニーが開発したのが3.5インチのフロッピー(同 1.44MB)でした。私はマイクロソフトが大嫌いだったので、会社の中で1人Macを使っていましたが、アップルは容量の小さなフロッピーでは対応できないと、まもなくCD(同 650MB)に移行してしまったので、3.5インチを使ったのもほんのわずかな期間だったかと。このMacフォーマットのディスクは、今となっては貴重なものかもしれません。
3.5インチ

今ではCDやDVDドライブのないノートパソコンは当たり前になっており、持ち歩いているUSBだって4GB(ギガバイト)もあるのですから、本当に隔世の感があります。私の世代は幼少時にテレビや洗濯機、冷蔵庫などが出現し、あらゆる電化製品の誕生を体現してきましたが、コンピューターの世界もずっと翻弄され続けてきたものだと、あらためて感じてしまいました。

植木屋時代

  • 2017.12.27 Wednesday
  • 05:45
打合せの帰りに、昔勤めていた植木屋に寄ってきました。国道から坂道を登り詰めた行き止まりにあり、この向こうは札樽道になっています。私がいた頃は事務所は国道沿いにあり、ここは資材置き場として使われていた所です。もう35年以上も昔のことになりました。
元の会社

ちょうど先輩がいたので、しばし話し込んでしまいました。もう70歳を過ぎているのですが、総務の元締めとして会社にはなくてはならない方なので、無理のない範囲で出勤されているのです。昔の現場の話になったので、まだ図面が残されているのを見てみました。30数年前に書いた図面類は、私が辞める時にそれまでの資料や図面と共にきちんと整理しておいたのです。
新十津川

よく知っていた新十津川の町長から仕事をもらい、コンサルもどきの基本計画書を作っていたのですね。今読み返すと恥ずかしくなるような文章だけど、まぎれもなく30歳頃の仕業ですから仕方ない…(>_<) ちょうど出始めのワープロが欲しくなり、40万くらいしたデスクトップ型のワープロ(ナショナル製)をローンで買い、打ち込み始めた時期に当たります。5インチのフロッピーディスクに保存する形式で、夜になるとみんな自宅に見に来てましたねぇ。そのくらい珍しかったのです。結婚したてで貧乏な生活していたのに、よくもあんな高価なものを衝動買いしたものですが、そのうち社長が会社で借り上げてくれたので、ローン地獄にはならなかったのは幸いでした。
イラスト

千歳のキリンビール園温室や回りのガーデンの図面、その翌年に施工した岩見沢公園(当時は漢字)の旧温室の植栽図も出てきました。岩見沢公園の旧温室は、なぜか写真が一枚も残っていないのでとても寂しかったのですが、この図面を見ていくと、かなり記憶が甦ってきます。
岩見沢温室

昨日の昼間、手稲方面はかなりの吹雪模様。この温室の施工をやったのも真冬で、公園周辺があまりの吹雪で帰れなくなるから早く帰れと、市の担当者に言われて、吹き溜まりを乗り越えながら必死で帰ったことを思い出してしまいました。

稲尾記念館

  • 2017.11.23 Thursday
  • 05:58
別府には都合26時間しか滞在しなかったけれど、本当にみっちりと詰まった時間を過ごしたものだと思います。いよいよフェリーの時間が迫った来た時に、わずかな時間を使って案内されたのが『稲尾記念館』でした。
  記念館

私は西鉄ライオンズの大ファンだったので、西鉄グッズはずいぶんと持っています。浪人時代をわざわざ福岡で過ごしたのも、稲尾監督時代のどん底に弱かった西鉄を応援するためだったし、稲尾が死んだときには、本当にショックを受けました。
  号外
  (西日本新聞の号外  2007年11月13日)

稲尾記念館は、別府の高台にある別府市民球場(愛称:稲尾記念球場)の中にあります。入り口には稲尾の銅像があったけれど、やはり地元だから高校生くらいの顔のように見え、私の知る稲尾にはあんまり似ていなかったなぁ。
入り口

中には稲尾が獲得した様々なトロフィーやペナントがぎっしりと。でもなんか寒々しいのです。
ペナント

こういう展示品というのは、スポーツ選手の家にはぎっしりと置かれているけれど、どれも似たり寄ったりでそこにドラマを感じません。たくさんあるだけに、よけいそう思ってしまうのでしょう。
展示


あの野武士軍団の中では、中西と稲尾は別格に好きだったけれど、どちらかというと中西のファンだったので、
今でも宝物のように大切にしまっているものがあります。もちろん稲尾だって大好きだったから、パッチンや切り抜きをあれこれ持っているけれど、一つ一つ自分の思い出が染みついているものだけに、こんなちっぽけなものの方が稲尾の姿をより思いだしてくれるように思います。
パッチン1  パッチン2

街歩きをしていても、稲尾の生家ははこのあたりとか、よくお参りに来ていた神社はここだとか、地域の方には今でも生き続けているように感じられたのが嬉しかったです。

モンブラン

  • 2017.04.09 Sunday
  • 05:56
万年筆のインクがなくなったので、セントラルまで出かけてようやく入手。先日ハンズに行ったら、うちではモンブランは取り扱っておりませんといわれ、びっくりしてしまいました。ほかは全部揃っているのに、なんでこれだけないんだろう?
インクボトル

普段はボールペンやらサインペンばかり使っていますが、手紙とかちゃんとしたものは万年筆で書くようにしています。中高生の時はオヤジの確かセーラーのお下がり、浪人時代に中国の英雄(ヒーロー)を500円くらいで買って、しばらく使っていました。それがかなり片減りして書きにくくなったので、プラチナを買ったと記憶しています。ちょうど20年前、初めて技術士に合格した時に、ある方から合格祝にプレゼントされたのがこのモンブランでした。2〜3万くらいかと思っていたら、実はその倍以上もするものだったのですね・・・(^^;)
モンブラン

ペン先に何か書いていると思っていたけれど、調べもしないで今まで来てしまってました。4810と書かれているのは品番か何かと思ったら、なんとモンブランの高さだったとは… そんなことも知らずに20年も使っていたのか…(>_<)
ペン先

箱の中に入っていた取説は、9ヶ国語で書かれており、さすが国際的な商品です。たっぷりとインクを入れると再びすらすらと書けるようになりました。本当になめらかな書き味です。このペンに見合うきれいな字を書かなければといつも思いながら、悪筆が直ることはありませんねぇ…
取説

親不孝通り

  • 2017.02.22 Wednesday
  • 05:56
ニュースを見ていたら、「親不孝通り復活決定」というのが目に入りました。せっかくなので、地元西日本新聞で見てみると、初めは「親不孝通り」だったものが、イメージが悪くなったので「親富孝通り」と言い換えていたものを、再度元に戻すことにしたんだそう… この近くにに「円山豆富店」という豆腐屋があるようなものです。
  西日本新聞
  (西日本新聞より借用しました…m(__)m  2017.2.20)

私が福岡で浪人生活をしていたのが、1971年4月から72年1月まで。札幌は遠かったし、東京や大阪はいやなので、九大のある福岡なら予備校もしっかりしてると両親を説得して、やって来たのでした。本当は西鉄ライオンズの応援ができる!!というのが一番の目的でもあったのですが…(笑) 下宿は、福岡の西の端にある姪浜(めいのはま)。当時は西鉄の市内電車の貫線という路線が、姪浜から東の端の九大前まで走っており、中心市街である天神の一つ手前の「西鉄グランドホテル前」で下りて、北に向かって細い道をぞろぞろと歩いて行きました。
マップ

当時はこの道に名前なんかついていなかったのですが、その何年か後にもう一つの予備校が近くに移転してきたことから、浪人生が一日中ぞろぞろ歩くので、「親不孝通り」という名前がついたのだそうです。私の「母校」は九州英数学舘という、大阪以西では最大の予備校で、一体何人いたんだろう?ものすごい数の浪人が西日本各地から集まっていました。調べてみると、大手予備校が進出してきて成り立たなくなり、今では外国語教育の専修学校に。札幌も似たような感じでした。

英数学館
  (Wikipediaより)

当時は那の津通りに面した大きなビルだったので、年末に走る福岡朝日マラソンの中継を見ていると、「浪人生たちが声援を送っています〜」と紹介されて懐かしかったものですが。ストリートビューで見てみると、今は空き地になってセブンが立っており、奥にあった別館だけが残っているようです。卒業生の欄を見ると、タモリや陽水が。陽水は4年上、タモリは7年上なので、意外と近かったんだ。あんまりここに出ていないところを見ると、浪人したことは誰も明かさないからなんでしょう。

  卒業生

数年前、熊本に墓参りに行ったついでに一回りして
、やっぱり懐かしい町でしたが、こんな通りには行ってみたくないですねぇ…(^^;)

ネクタイピン

  • 2017.01.31 Tuesday
  • 06:00
この時期は、それほど仕事がぎちぎちに詰まっていないため、少しは余裕があります。ちょうどかみさんが実家に帰って不在だし、ラグビーの決勝もあったので、日曜日は昼過ぎには帰宅しました。こまめもひとりぽっちで留守番させると、ものすごく寂しがるのです。ラグビーが終わってから、久しぶりに書棚などの整理を始めましたが、そういえばタンスの小物入れの引き出しがグチャグチャだったなぁと、開けてびっくり。使い古したベルトのような到底使わないものがたくさん詰まっていました。それらを片付けていくと、中からネクタイピンがいくつも出てきました。

今はネクタイも滅多にしないし、使うピンも一つあれば十分なので、こんなところを開けることもありませんでした。これは、北大の創基百周年記念に農学部でもらったものです。
百周年

卒業した年(1976(S51)年)が、札幌農学校が開校してからちょうど百年に当たっていたので、農学部を中心に結構盛り上がりました。私は一年だけ研究生で残っていたので、この式典にも参加することができたのです。ネクタイピンの形は、この時に作成した農学部の紋章から作られています。
紋章

これを作ったのは、作物育種学を習った高橋萬右衛門先生で、のちに学士院賞をもらった大先生です。でもこの謂われを見るとかなりこじつけだなぁ…と思わず苦笑してしまいました。
由来

もう一つは、それから10年後の1987(S62)年に百周年を迎えた、札幌同窓会が作ったものです。札幌同窓会というのは、出来た時には「札幌農学校同窓会」でしたが、1907(M40)年に東北帝国大学農科大学に名称が変わったときに、札幌同窓会となりました。道庁の西側にある道庁西ビルの底地をかなり持っていたため、その賃貸料があるのでこういうものを作ることができたのでしょう。最近までずっとこの名前で通していましたが、他の学部から農学部の同窓会なのに、なんで札幌なんだとか、たくさん入ってくる賃貸料は、本来全学で使うべきだから少しよこせとか、いろいろ言われ続けてきました。名前は法人改革の際に「札幌農学同窓会」と変えたけれど、賃貸料は奨学金や海外留学の支援金など、農学同窓会だけでいまだに確保しているようです…(^^;)
同窓会記念

この模様は、北大にあるクラーク像の台座に取り付けられているレリーフ。クラークは、イギリスのキューガーデンの温室でオオオニバスを見て感動し、それまでの鉱物学から植物学に転じたと言われています。
クラーク像

もう一つ出てきたのが、1990(H2)年に大阪鶴見緑地で開かれた国際花と緑の博覧会の記念品です。こんなのをもらっていたのもすっかり忘れていました。コンサルに転職してすぐ、挨拶に植物園の辻井先生の所に行ったら、ちょうどよかった、あんたに手伝ってもらいたいことがあるんだと、いきなり花博に巻き込まれてしまいました。それはまたあとで紹介するとして、私はカフスなんかしないので、一度も使っていないものですが。
花博

こういうものも、一つ一つ眺めているといろんな思い出が蘇ってくるのですが、私が死んだら形見になるようなものでもないし、やっぱりガラクタになってしまうのでしょうかねぇ。

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