記念硬貨

  • 2019.03.22 Friday
  • 05:45
今日は健康診断なので、昨夜はお酒を断って早く寝たら、いつもより一時間も早く目が醒めてしまいました。今年は早くも夏用のシューズに履き替えて、気持ちよく走れるようになったけれど、週末はまた冬に逆戻りしそうです。西の空低く、十六夜(いざよい)の月が雲間隠れに見えていました。これからはどんどん日が長くなると思えば、多少の寒さも我慢できそうです〜

先日発掘した宝箱の続きです。1964年の東京オリンピック記念硬貨には、千円と百円がありました。これが我が国の記念硬貨第1号だったのですね。特に千円硬貨は直径35ミリと巨大なサイズで、実用性は全くありません。富士に桜に五輪マーク、西暦に元号、アラビア数字に漢数字、TOKYO まで描き入れているので、デザイン的にはうるさくてかないません。
オリンピック千円

それに比べて百円硬貨は、今の百円と同じ22,6mmで、表には聖火台と五輪マークがあるので記念硬貨だと分かるほどでした。(硬貨は、年号が書かれているのが裏となっています。)
オリンピック百円

2番目に大きなコインが、1972年の札幌オリンピック記念百円硬貨。直径は30mmあるけれど、縁取りがシンプルなので、そんなに大きく感じません。札幌オリンピックの聖火台はこんな形だったのでしょうか?
札幌百円

1970年に大阪であった万博でも、記念の百円硬貨がありました。これはちょっと小さく28mm程度。こういうものは、当然私が買ったのではなく、親父が買ってくれたものなので、あんまり集めたという記憶がありませんでした。
expo

もう一つ直径30mmの大型硬貨は、1976年発行の在位50年記念百円硬貨です。今でも発行しているのかと、財務省のページを見てびっくり。今の天皇の在位60年には、10万円金貨が発行されていました。
在位50年1在位50年2

右側の記念硬貨は、1975年の沖縄海洋博記念硬貨で、東京オリンピック記念硬貨以来、発行されてきた記念硬貨は、ここまですべて保有していたことになります。親父もマメだったのですね。真ん中の鳳凰の百円は、1957年発行の銀貨でした。当時はまだ板垣退助の百円札が普通だったので、銀貨でもよかったのでしょうか。1957年には稲穂に代わりましたが、さすがに銀が不足してきたので、1967年に現在の白銅貨に変わったのだそうです。
百円2
百円1

普通の硬貨にも懐かしいものが。穴の空いていない50円硬貨です。子どもの頃に、稀に流通していたギザギザのある十円玉(ギザじゅう)や穴のない五円玉などは、せっせと探して集めた記憶があります。十円玉は発行されてから毎年のものを揃えていたはずだけど、いったいどこに埋もれているものだか…
50円
50円

思い出の品

  • 2019.03.19 Tuesday
  • 05:43
春分の日が近くなり、日の出がどんどん早くなっていきます。昨日の札幌の日の出は5時43分だけど、我が家は山の陰になるので、50分過ぎに山の鞍部から日が昇ってきました。これからどんどん太陽が北に寄っていき、神社山を越えるので、しばらく日の出は足踏みしてしまいます。夏至の頃になると山より左に出てくるので、3時台にはピーカンになってくるのです。
日の出

日曜日に、捜し物をしにロフトに上ってあれこれ引っかき回しているうちに、禁断の宝箱まで引っ張り出してしまいました。お菓子のブリキ箱に、子どもの頃からの宝物がぎっしり詰まっているのです。もう忘れてしまったものもあるけれど、妙にはっきり拾った時のことを覚えている石ころまで入っているので、あまり開けたくなかったのですが…。その中ではわりとオーソドックスなものが、東京オリンピックの記念メダル。親父がセットをいくつか買って、私たちに一つずつくれたのです。オリンピックは小学6年生の時で、この時からカラーテレビになったことから、いろんな試合を色付きではっきり覚えています。
オリンピックメダル

これは 1970.4.8 と彫り込まれている壁飾りで、ちょうど高校3年になったばかりです。松山市内まで二駅を汽車通をしていたので、毎日SLに引かれた長い客車に乗って通っていました。次の駅で高校2校分がどっと降りるので、私たちが乗る時が一番混んでいて、毎度デッキにぶら下がりながら乗っていました。多分その時に、ペンキが剥がれていたのをベキッと折ってきたのでしょう。当時はSLオタクだったので、牽引していたC58(しごはち)の横顔をカリカリと彫り込んだものです。
客車のペンキ

これはなんだ?としばらく分からなかったけれど、裏を見てあらら!浪人して予備校に通っていた福岡では、昼飯をすうどん一杯ですませ、100円で入れる2軍戦によく通っていました。予備校から平和台までは、十分くらいで行けたのです。小さい時からずっと西鉄ファンだったので、予備校を福岡にしたのはこのためでした。これは、その平和台球場の座席のプレートです。記憶にはありませんが、多分取れかかっていたのがあったのでしょう。もうかなり古くなっていましたから。
平和台のプレート

1軍戦は2回くらいしか行ってなくて、これはダブルヘッダーだからかなりの長丁場。下宿の仲間と一緒に、ナイターまでたっぷり楽しんできました。450円は当時としては大枚をはたいた金額でしたが、それでも安かったのですねぇ。
入場券

このメダルは、大学に入った年の10月14日が鉄道百年だったので、札幌駅で並んで買ったもの。金貨とかも出ていたようですが、貧乏学生に買えるはずもなく、これで十分でした。でも千円くらいしたのかなぁ… このほかに記念切符とかもいろいろ買っています。
鉄道100年

これをやり始めるときりがないし、自己満足の最たるものですが、こうして振り返ってみると懐かしいものばかりだなぁ…(^^;)

新旧交代

  • 2019.02.11 Monday
  • 05:48
我が家のパソコンは、相変わらず Mac を追いかけているので、事務所のメイン機が iMac、持ち歩き用が MacBook Air 、自宅には古い iBook G4 というラインナップです。この iBook は、購入が2004年か2005年とかなり古くなり、OSも10.4までしか上げられないまま、なんとか使ってきました。自宅では、朝いちにブログをアップするくらいしか使わないので、それでもなんとか間に合っていたのです。ところがOSが古いとセキュリティの関係からいろんなHPに繋がらないことが多く、天気予報とかも見ることができなくなりました。いつブログのサーバーにも繋がらなくなるのか、冷や冷やしながらの毎日でした。
iBook

先週のこと、昔よく行ってた中古屋のサイトを見てみると、3万ほどですごくいいマシンが出ていたので、即購入。OSが10.6.8と、一区切り以前なので、10.11までアップグレードし、新しくソフトを入れたり辞書を移し替えたりと細かく手入れし、ようやく昨日から入れ替えることができました。新しいマシンは、MacBook Pro で、外観もほとんど傷がなく、メモリーも4GBと十分で、家に置くのがもったいないくらい。
新旧

新旧のマシンを比べてみると、真っ白いポリカの筐体から、フルアルミに代わり、一回り大きくなっています。娘も同じ iBook から MacBook Pro の以前乗り換えているので、似たようなことをやっているのでした。これで iBook はお払い箱…という訳にはいかないのです。
外観

事務所の iMac もOSは 10.6.8 のままにしているのは、それ以上上げると使えなくなるソフトが幾つもあるからなのです。中でも、フィルムスキャナーが使えなくなるのは困るので、古いまま使っていましたが、あちこちのサイトに繋がらなくなってそろそろ限界が。そこでこの iBook をフィルムスキャナー専用のマシンとしてまだまだ働いてもらうことにしました。1980年から2000年くらいまで、リバーサルフィルムで撮したスライドが2万枚以上あり、今でもけっこうデジタル化する必要があるのです。今どきリバーサルフィルムを使う人なんてほとんどいないので、こんな苦労があるなんてメーカーには分からないでしょう。壊れないように大事に使わなくては。
スライド

これでメインマシンもOSを上げることができるので、またさくさくと動いてくれることでしょう。マシンのお守りも結構大変だけど、こればかりは自分でやるしかないのでがんばらないと。

デパート案内(函館編)

  • 2019.02.05 Tuesday
  • 05:49
ずいぶん昔に、札幌のデパートなどの案内図特集をやったことがありました。(札幌駅前編)(四番街編)(一番街編) そのうち函館や本州各地、九州などやろうと思っていて、すっかり忘れていました。

先月一杯で、函館駅前にあるボーニモリヤが閉店になったので、函館出身のかみさんはちょっと寂しそう。といっても、昔は家のすぐ近くの末広町に丸井さんがあったので、そこが遊び場になっていて、ボーニさんにはあんまり行っていなかったとか。函館市内の人よりも、道南の各地域の方が鉄道やバスで函館に出てきて、ボーニに買い物に行く方が多かったようです。
ボーニさん

アネックスの方はまだ3年くらい営業するようだけど、それだけではどれだけ集客力があるのでしょうか。札幌を除くと、道内の地場のデパートは、これで帯広の藤丸と函館の丸井さんだけになってしまいました。デパートに思い出のある世代は、もうかなり高齢化が進んでしまったようです。

ボーニモリヤ

その昔(40年くらい前)、まだ青函連絡船で移動していた時代には、松山から急行や鈍行を乗り継いで函館にたどり着くと、腰が痛くてたまらないので、一つ接続を遅らせ、函館の町をうろうろしていました。電車で移動できる町は本当に楽しくて、函館山の麓の想苑とか、五稜郭辺りまでよく行ってました。なので、こんな店内案内図もゲットしていたのです。
丸井函館

ロゴが新しくなっているので、こちらの方はかなり新しいものでしょう。本町の丸井周辺には、そんなに商店街が形成されていなかったので、こんなところでやって行けるのかなぁ…と思ってしまいました。やはり本州の町とは、町の構造がかなり違っているように思います。
新丸井函館

函館にはもう一つ、丸井さんからほど近く、梁川町に函館西武がありました。1981年に開店し、2003年に閉店しているので、道立公園の仕事で行き始めた頃にこの近くをうろうろしていたので、その時にゲットしたものでしょうか。このデパートは、来店客は車で来ることを前提にした造りになっていました。でも、ダイエーやヨーカドーが出来るに連れて、どんどん客を奪われていったのです。
  西武
一度だけ、青森で途中下車して町中をうろついたことがありました。冬だったことと、言葉がさっぱり分からなかったことを覚えているけれど、北にある函館よりも圧倒的に雪が多く、町が暗いなぁという印象が残っています。ここにはカネ長武田というデパートがあり、名前はさくら野百貨店青森本店に変わっているけれど、今でもちゃんと営業しているようです。
武田

昔のデパートは、確実に町のシンボルたり得ていたように思いますが、今はそれがなくなり、町がどんどん金太郎飴化したり、シャッター通ばかりの無表情な町になっていきました。こんなものを見返していると、ちょっと寂しくなってしまいます〜

断捨離なんて無理…

  • 2019.01.27 Sunday
  • 05:50
昨年掘り出した段ボール箱には、不要本と書かれていました。中身は北杜夫の本が十数冊と農学部時代のノートが十冊ほどあり、ノート類は捨てようと事務所に持ってきてました。山ほどある仕事のファイルを、この冬の間に思い切って整理しようと思っていたのです。
不要本

改めてファイルをよく見ると、大学2年の後期に農学部農学科に移行して、10月から始まった講義の資料でした。農学科は北大で最も古い基幹学科で、食用作物、工芸作物、作物育種、果樹・蔬菜、花卉・造園の五つの講座からなり、3年春に講座に配属されるまでは、25人が一緒の授業を受けていました。
ファイル

農業植物学の時間割が入っており、もうみなさん亡くなられてしまいましたが、主に助教授の先生が交代で講義されていたことが分かります。こんなものを広げて見ていくと、一人一人の先生方の講義の様子が、鮮明に思い出されてくるものです。
時間割

講義のテキストは、もちろん手書きだし、まだコピー機が出回り始めた時代でとても高価だったので、安いけど手間のかかる青焼き(青写真)だし、46年も経つとすっかり黄ばんでしまっています。先生方も講義資料作るのは、けっこう大変だったのでしょうね。
テキスト

講義のノートも、テキストと同じくらいたくさん挟まっていました。今よりももっと小さな字で、びっしりと書いているのにちょっとびっくり。意外と真面目だったようです〜(笑) 確かに講義をさぼった記憶はないし、なによりどの講義も面白くて、夢中になって聞き取っていたように思います。すっかり忘れてしまったことも多いけれど、こうやって見返していくと、こんなことまで習っていたのかと、改めて感心してしまいました。
ノート

さて、こんな資料がぎっしり詰まったファイルが十冊あまり。これを捨てるべきか、もう少し残しておくべきか。悩んでしまいますねぇ… 残しておいてもほとんど何の役にも立たないし、捨ててしまうのは簡単だけど、一応スキャンしてデータ化だけはしておこうかと。こんなことで悩んでいるから、書類に埋もれてしまうのでしょうねぇ…(^^;)
拡大

Google Earth

  • 2019.01.08 Tuesday
  • 06:00
先月私が走っている経路を、メチャクチャ古い航空写真で説明してしまいました。これはこれで面白いのですが、あまりにも古すぎて、今の様子がさっぱり分かりません。
昔の写真

実は Google の数多ある機能の中に、Google Earth という便利な機能があるにもかかわらず、それを起動して高度や画角、方位を調整し、画面を取り込むという作業を面倒がって、昔使ったものを引っ張り出したという次第。さすがにこれではまずいので、正月休みにきちんと撮り直しました。ちゃんと立体に見えるから不思議です。
十二軒澤

そこで、もう一度走行経路を入れ直すとこんなになりました。昨日は除雪が幹線道路しか入っていなかったので、手前のくびれたところまでしか行きませんでしたが、このユースの森を回るコースも結構な距離があることが分かります。
走行経路

これでは、いろんなことができるので、講習会の時などでよく使っています。例えば藻岩山麓から円山にかけての住宅地の様子を見る場合には、真上から高度を上げていき、入る範囲が決まったら、その時点の画像をスクリーンショットで取り込みます。この時の高度は、4,750mもありました。左から、伏見、界川、円山西町、私の住んでいる宮の森(旧十二軒澤)と、山裾をぎりぎりまで宅地化していった様子がよく分かります。こうしてみると平面のように見えますが、いずれも冬には行きたくないものすごい勾配の道路です。
円山上空

昔住んでいた界川を拡大してみると、高度はちょうど600m、格子状のきれいな区画に宅地が並んでいるけれど、縦の通りは15%くらいはある急勾配で、タクシーなんかほとんど入り口あたりでダウンしてしまい、坂道を何度登らされたことか…
界川

近くのこばやし峠のあたりを見てみると、画像取得日が2016年8月27日なので、盤渓北ノ沢トンネルが開通する半年ほど前の様子がよく分かります。冬にはあまり通りたくなかった峠越えが、トンネルが開通したことで、本当に安心して通ることができるようになりました。子どもが小さな時には、よくコバランドスキー場に送迎したものですが、今はどうなっているのでしょうね。そんなことも頭によぎっていくので、これを始めると時間を忘れてしまいます。
小林峠

これをいじっていると、モーターグライダーに乗って空を飛んでいるかのように、時間を忘れてはまってしまうのが難点といえば難点でしょうか。アースの名前の通り、世界中のどんなところにでも飛んでいけるので、旅行するよりも発見が多いかもしれません。ぜひ時間のある時に楽しんでみて下さい。

PLAYBOY

  • 2018.09.15 Saturday
  • 05:59
階段の下から発掘したものの中で、私のものは段ボール箱3つだけでしたが、そのうちの超重たい2箱に入っていたのが「日本版PLAYBOY」でした。確かにこれを買っていたのは独身時代だったけど、別に裸の女を見たくて買っていた訳ではありません。
  PLAYBOY

半分くらいはアメリカ版の翻訳物ですが、日本独自の記事に結構面白いものがありました。中でも夢中になっていたのが、藤原新也の『全東洋街道』です。今読むと、なんて細かい字がぎっしり詰まっているんだろう…とあきれるほどの文字量ですが、どうしてこんな写真が写せるんだろう?という気持ちもありました。私はニコン派だったけれど、藤原さんはオリンパスOM-2N使っていたので、身軽に撮せるのかなぁ?なんて考えていました。
全東洋街道

藤原さんは69年以降、12年もアジア各地を放浪していたそうです。処女作である「インド放浪」をはじめ、いくつか本を持っていますが、月刊誌の連載は、次はなんだろう?とわくわくする楽しみがありました。ビズにも長く連載をしていたので、覚えている方もいらっしゃることでしょう。全東洋街道は連載終了後、すぐに集英社文庫から出版されたけれど、このサイズでは訴える力が全然違います。そのうち雑誌をばらして一冊に製本しようと、全部の号を残していたんだけどなぁ…どうしよう…(>_<)
藤原新也

読みごたえのある記事は結構ありました。ベニグノ・アキノのインタビューなんて、記録としても貴重なものでしょう。このインタビューの最後に、モットーとしている言葉は?という問に、マッカーサーの『アイ・シャル・リターン』と答えています。この2年後、帰国を決意してマニラの空港に降り立ったところを、国軍兵士によって暗殺されてしまったのです。
アキノ2 アキノ1

あの頃私が一番好きだった北杜夫も、たまたま躁状態の時だったのでしょう、へんてこりんな記事を書いています。これほど躁鬱の変化の激しい作家もいないでしょうが、どちらの時も面白く、この頃出た本はすべて持っています。
北杜夫

今回階段の下には段ボール3箱だけだったけれど、三階のロフトには何十箱分もの本が詰まっています。私はその真下で寝ているので、その床が地震に耐えられるのか、ちょっと不安になってきました。事務所にある植物系の本は、なんとか行き場も見つかるだろうけれど、ロフトにある本は、私以外には単なるゴミにしかならないだろうし、そろそろ身辺整理に入らなければならないのかなぁ…

お年玉年賀切手

  • 2018.03.07 Wednesday
  • 05:54
先月初めに家のロフトで捜し物をしていて、子どもの時から集めていた切手のコレクションが出てきました。その中に、お年玉年賀切手がまとめて袋に入っていたのです。最近のは居間の整理棚に詰め込んでいたので、合わせて整理してみると、一番古いものが1962(S37)年からあり、今年2018(H30)年までの57年分のうち、45年分があることが分かりました。62年といえば小学校の4年生。家に来た年賀葉書を整理して、当たっているものを郵便局で引き替えてもらっていたことをよく覚えています。昔は葉書が5円、封書が10円だったのですが、ほどなく7円と15円に値上がりしていました。
お年玉年賀切手1

中ほどの1982(S57)年から1990(H2)年というと、結婚して子ども三人が次々と生まれていた期間に当たります。末っ子だけは昭和ではなく平成生まれになりましたが、この昭和64年というのはたった一週間しかなかったのですから。貴重なものかもしれません。最後のところで41円62円になっているので、いよいよ消費税が始まったことが分かります。
お年玉年賀切手2

その後50円80円がしばらく続いてますが、2015(H27)年からは52円82円になり、今年から62円82円となった訳です。初めの頃は葉書代×4枚付いていたものが、葉書+封書代1枚ずつになったし、昔は当選番号三つ当たっていたものが最近では二つになっているので、郵便事業もますます苦しくなっていることがよく分かります。考えてみれば、葉書も封書も手間は同じくかかるわけですからねぇ。
お年玉年賀切手3

今年は喪中だったから1枚しか当たらなかったけれど、毎年10数枚当たっているので、全体だとかなりの枚数になっています。はずして使うのも面倒だし、古物商はせめて等価で引き取ってくれるのかなぁ… 我が家には、こういうものがまだまだ隠れていそうです。

月光荘

  • 2018.02.12 Monday
  • 05:48
東京の公立小学校で、アホな校長が独断で制服をアルマーニにしたと大騒ぎになっています。そのこと自体も大きな問題ですが、背景にある保護者の特権意識とか、学校のブランド化だとか、本来子どものことが最も優先されるべき学校教育に、回りからくだらないことを持ち込んでいることこそ糾弾されるべきでしょう。

その泰明小学校の報道を見て、月光荘のことを思い出してしまいました。現在の店は銀座8丁目にあるようですが、40年前にはこの小学校の目の前にあったのです。(その後倒産していろいろあったようなので、今の店が昔の直系なのかはよく分かりません。)

月光荘

月光荘とは、創業者をひいきにしていた与謝野鉄幹、晶子夫妻から贈られた短歌からとられた名前だそうです。名前も独特の響きがありましたが、なんといってもホルンのシンボルマークが格好よかったのです。
月光荘の謂われ

月光荘のことを知ったのは、学生時代にここのグッズが身の回りで流行ったことから。中でもカーキ色のキャンバス地のショルダーバッグは、シンボルマークのホルンが格好よくて、何人も持っていたように思います。こんな形でもう少し高さが低く、色的には全くこれでした。

ショルダー

絵を描く友達がたくさんいたので、ここの画材の素晴らしさは聞いていましたが、私にはあんまり用がなく、唯一必要だったのが8Bの鉛筆でした。図面を書くにも花のスケッチをするにも、こんなに滑らかな鉛筆はいまだかつて見たことがありません。最近はボカシが必要な図面を書かないので用はなくなったけれど、引き出しの中にまだ2本入っていました。

鉛筆

銀座から有楽町方面に歩いて行くと、まもなく洋書のイエナ(JENA)がありました。札幌では丸善の上くらいしか洋書がなく、植物や園芸、花関係など皆無に等しかったので、ここでは何冊も買い込んで、重たい思いをして担いで帰ったことがあります。この店もネット購入の拡大にはあらがえず、2002年に閉店になってしまったので、このしおり1枚が店の名残になってしまいました。そして、数寄屋橋のソニービルを過ぎて左に折れていくと、まもなく泰明小学校の前に月光荘があったのです。2回くらいしか行ったことはなかったけれど、こんなニュースで思い出してしまうなんて…

古い切り抜き

  • 2018.01.25 Thursday
  • 06:00
連日厳しい寒さが続きます。昨日のお昼も、空はピーカンに晴れていたけれど気温は−6℃前後。夜に帰る時には、車載の温度計で−11℃になっていました。まだまだこんな天気が続く予報になっているけれど、これを乗り切れば春がぐんと近づいてくると、しばしの辛抱です。こんな天気でも毎朝ちゃんと走ってます。面の皮というのは意外と強く、多少ピリピリするくらいでなんともないし、5分も走れば体が温まってくるので、家に帰る頃には湯気が立つくらい汗をかいています。ちゃんと服を着ている時の方が、やけに寒く感じるのは不思議なものです。

今週はガーデニング検定の作問作業。今年も8人で手分けして問題作成に当たります。前回の合格率が65%を超したので、今回は最低でも2/3の壁を越えるよう、分かりやすく解きやすい問題を心掛けています。受験申込みの締め切りは3月2日、試験対策講習会の申込み締め切りは2月16日となっていますが、今年の受験者数が少なければ、来年は打ち切りになる可能性も十分ありますので、迷っている方はぜひ受けてくださいませ。

問題を作成するに当たっては、テキストだけでなくいろんな本で確認しなければならないため、本棚のあちこちから本や図鑑の出し入ればかりやっています。久しぶりに引き出した朝日「植物の世界」の中から、黄色く変色した切り抜きの束が出てきてびっくり。これは週刊で2年ほどかけて刊行されていたので、家でやっていた切り抜きと共に会社に持って行き、そのまま綴じてしまったようです。1995年の新聞なので、まだ前の会社の最盛期頃のこと。連日飛び回っていたので、すっかり忘れてしまったものでしょう。
切り抜き

切り抜きというのは、ついつい読んでしまうものですが、今なら切り抜かないだろうなぁというものまで。当時は海岸整備事業の仕事もやっていたし、このネット式海水浴場は、函館湯の川の熱帯植物園の海岸に整備されたもので、ちょうど子供たちが小学生だったから、夏休みに里帰りした時には毎度ここで泳いでいたところなので、懐かしく見てしまいました。
海水浴場

山岳博物館なんてものもありました。岩手県大迫(おおはさま)町にある山岳博物館は、早池峰山特産のハヤチネウスユキソウがエーデルワイスに近縁であることから、日本初のエーデルワイス展をやっていました。調べてみるとこの町は平成大合併の際に花巻市と合併し、この博物館も既に老朽化のため取り壊されて、収蔵品は後継施設に収蔵されておりました。時代の流れを感じてしまいます。
山岳博物館

明治の初めに一羽だけが捕獲されたミヤコショウビンの探索ルポが、4回のシリーズで残されていました。今では同定間違いではないかといわれている鳥ですが、こんなのんびりしたルポが認められるなんて…と、まだ世間にゆとりがあった時代なんだ思ってしまいました。
ミヤコショウビン

仕事で煮詰まってしまいがちな時に、こういうものが出てくると、かなり息抜きになってくれるのがうれしいもの。もう少しなので今日もがんばらなくては。

武四郎ブーム

  • 2018.01.24 Wednesday
  • 05:45
函館でこんなサイコロキャラメルが出てるよ〜と、送ってくれました。明治の「サイコロキャラメル®」は、昨年3月で販売が終了してしまいましたが、明治の生産子会社で実際にサイコロキャラメルを製造していた道南食品が、北海道「サイコロ®」キャラメルとして販売を再開していました。それの「北海道150年事業」バージョンとして作られたものです。
サイコロキャラメル

その中に、おまけとして小さく折られた絵図が入っており、それがなんと松浦武四郎が作った『新版 蝦夷土産道中寿五六』だったのです。開道150年ではまずいので、北海道命名150年としたために、今まで見向きもされなかった武四郎に、にわかにスポットライトが当たり始めました。なんと雪まつりの雪像にも登場するとか。きっと目を白黒させていることでしょう。
  双六

振り出しはやはり「箱館湊」。現在なら津軽富士とするところを、「ナンブ山」としています。
既に開港されて、函館山の麓には外国の公館ができていたので、旗が立っているようです。
振り出し

このあと日本海岸を北上し、江刺、熊石、島古巻、岩内などを経てシャコ丹、輿市に着きます。
余市ではサケがたくさん捕れていたのでしょうか。
余市

このあともずっと日本海岸を北上を続け、なんと利尻にも立ち寄り、今度はオホーツク海沿岸を南下してヱサシ、紋別、舎利を経て根諸に到着。ここでもクナシリとエトロフの寄り道があります。このあとは太平洋岸を西進して、アツケシ、十勝、幌泉、シャマニ、ユウフツ、モロラン、ヲシャマンベ、山越内を経て上りですが、上りの場所はどこ?
上がり

ここには『奥ふかき 千島のはても 二十一ツ ふりて見玉え 蝦夷しらぬ人』との歌が書かれているけれど、アイヌの人達は、なんでこんなに楽しく踊っているのかな?

フロッピーディスク

  • 2018.01.15 Monday
  • 05:54
先日捜し物をして、滅多に上がらないロフトのキャビネットや机の引き出しを開けてました。そうしたら懐かしいものが。5インチのフロッピーディスクです(正式には5.25インチですが)。これを開発したIBMは「Diskette」を正式名にしていたけれど、通称のフロッピー(柔らかい)ディスクのの方が通用してしまったそうです。
5インチ

30年以上前の植木屋時代、冬のヒマな時に見に行った事務用品の展示会で、当時出始めのワープロに釘付けになり、40万以上もするマシンを衝動買いしてしまいました。もちろんローンでしたが、当時の月給の何ヶ月分もするものを、よくもまぁ買ったものです。この画像の機種とは違いますが、頭にプリンターが乗っかっている、どでかいワープロでした。これにはフロッピードライブが二つ付いていて、まず左にシステムフロッピー(右の2HD、多分容量1.2MBくらい)を差し込んで起動し、次にもう1枚の記録用フロッピー(左の2DD)を差し込んで使うしくみでした。

  ワープロ

その後転職して入った会社は、コンサル部門だけでなく、オフコン部という、当時最先端のコンピューターの販売とリースも行っている会社でした。NECの代理店をしていたので、企業向けのオフィスコンピューター(オフコン)と、個人向けのパーソナルコンピューター(パソコン)の二本立てで、オフコンはこのN5200、パソコンは出たばかりのPC9800が主力でした。
N5200

N5200にはなんと8インチのフロッピー(同 1.6MB)が使われていたのです。こんな大きさで、なよなよしたディスクを扱うのですから、よくも傷ついたりほこりで読めなくなったりする事故が起きなかったものです。
8インチ

さすがにこんなディスクでは危険なので、ソニーが開発したのが3.5インチのフロッピー(同 1.44MB)でした。私はマイクロソフトが大嫌いだったので、会社の中で1人Macを使っていましたが、アップルは容量の小さなフロッピーでは対応できないと、まもなくCD(同 650MB)に移行してしまったので、3.5インチを使ったのもほんのわずかな期間だったかと。このMacフォーマットのディスクは、今となっては貴重なものかもしれません。
3.5インチ

今ではCDやDVDドライブのないノートパソコンは当たり前になっており、持ち歩いているUSBだって4GB(ギガバイト)もあるのですから、本当に隔世の感があります。私の世代は幼少時にテレビや洗濯機、冷蔵庫などが出現し、あらゆる電化製品の誕生を体現してきましたが、コンピューターの世界もずっと翻弄され続けてきたものだと、あらためて感じてしまいました。

植木屋時代

  • 2017.12.27 Wednesday
  • 05:45
打合せの帰りに、昔勤めていた植木屋に寄ってきました。国道から坂道を登り詰めた行き止まりにあり、この向こうは札樽道になっています。私がいた頃は事務所は国道沿いにあり、ここは資材置き場として使われていた所です。もう35年以上も昔のことになりました。
元の会社

ちょうど先輩がいたので、しばし話し込んでしまいました。もう70歳を過ぎているのですが、総務の元締めとして会社にはなくてはならない方なので、無理のない範囲で出勤されているのです。昔の現場の話になったので、まだ図面が残されているのを見てみました。30数年前に書いた図面類は、私が辞める時にそれまでの資料や図面と共にきちんと整理しておいたのです。
新十津川

よく知っていた新十津川の町長から仕事をもらい、コンサルもどきの基本計画書を作っていたのですね。今読み返すと恥ずかしくなるような文章だけど、まぎれもなく30歳頃の仕業ですから仕方ない…(>_<) ちょうど出始めのワープロが欲しくなり、40万くらいしたデスクトップ型のワープロ(ナショナル製)をローンで買い、打ち込み始めた時期に当たります。5インチのフロッピーディスクに保存する形式で、夜になるとみんな自宅に見に来てましたねぇ。そのくらい珍しかったのです。結婚したてで貧乏な生活していたのに、よくもあんな高価なものを衝動買いしたものですが、そのうち社長が会社で借り上げてくれたので、ローン地獄にはならなかったのは幸いでした。
イラスト

千歳のキリンビール園温室や回りのガーデンの図面、その翌年に施工した岩見沢公園(当時は漢字)の旧温室の植栽図も出てきました。岩見沢公園の旧温室は、なぜか写真が一枚も残っていないのでとても寂しかったのですが、この図面を見ていくと、かなり記憶が甦ってきます。
岩見沢温室

昨日の昼間、手稲方面はかなりの吹雪模様。この温室の施工をやったのも真冬で、公園周辺があまりの吹雪で帰れなくなるから早く帰れと、市の担当者に言われて、吹き溜まりを乗り越えながら必死で帰ったことを思い出してしまいました。

稲尾記念館

  • 2017.11.23 Thursday
  • 05:58
別府には都合26時間しか滞在しなかったけれど、本当にみっちりと詰まった時間を過ごしたものだと思います。いよいよフェリーの時間が迫った来た時に、わずかな時間を使って案内されたのが『稲尾記念館』でした。
  記念館

私は西鉄ライオンズの大ファンだったので、西鉄グッズはずいぶんと持っています。浪人時代をわざわざ福岡で過ごしたのも、稲尾監督時代のどん底に弱かった西鉄を応援するためだったし、稲尾が死んだときには、本当にショックを受けました。
  号外
  (西日本新聞の号外  2007年11月13日)

稲尾記念館は、別府の高台にある別府市民球場(愛称:稲尾記念球場)の中にあります。入り口には稲尾の銅像があったけれど、やはり地元だから高校生くらいの顔のように見え、私の知る稲尾にはあんまり似ていなかったなぁ。
入り口

中には稲尾が獲得した様々なトロフィーやペナントがぎっしりと。でもなんか寒々しいのです。
ペナント

こういう展示品というのは、スポーツ選手の家にはぎっしりと置かれているけれど、どれも似たり寄ったりでそこにドラマを感じません。たくさんあるだけに、よけいそう思ってしまうのでしょう。
展示


あの野武士軍団の中では、中西と稲尾は別格に好きだったけれど、どちらかというと中西のファンだったので、
今でも宝物のように大切にしまっているものがあります。もちろん稲尾だって大好きだったから、パッチンや切り抜きをあれこれ持っているけれど、一つ一つ自分の思い出が染みついているものだけに、こんなちっぽけなものの方が稲尾の姿をより思いだしてくれるように思います。
パッチン1  パッチン2

街歩きをしていても、稲尾の生家ははこのあたりとか、よくお参りに来ていた神社はここだとか、地域の方には今でも生き続けているように感じられたのが嬉しかったです。

モンブラン

  • 2017.04.09 Sunday
  • 05:56
万年筆のインクがなくなったので、セントラルまで出かけてようやく入手。先日ハンズに行ったら、うちではモンブランは取り扱っておりませんといわれ、びっくりしてしまいました。ほかは全部揃っているのに、なんでこれだけないんだろう?
インクボトル

普段はボールペンやらサインペンばかり使っていますが、手紙とかちゃんとしたものは万年筆で書くようにしています。中高生の時はオヤジの確かセーラーのお下がり、浪人時代に中国の英雄(ヒーロー)を500円くらいで買って、しばらく使っていました。それがかなり片減りして書きにくくなったので、プラチナを買ったと記憶しています。ちょうど20年前、初めて技術士に合格した時に、ある方から合格祝にプレゼントされたのがこのモンブランでした。2〜3万くらいかと思っていたら、実はその倍以上もするものだったのですね・・・(^^;)
モンブラン

ペン先に何か書いていると思っていたけれど、調べもしないで今まで来てしまってました。4810と書かれているのは品番か何かと思ったら、なんとモンブランの高さだったとは… そんなことも知らずに20年も使っていたのか…(>_<)
ペン先

箱の中に入っていた取説は、9ヶ国語で書かれており、さすが国際的な商品です。たっぷりとインクを入れると再びすらすらと書けるようになりました。本当になめらかな書き味です。このペンに見合うきれいな字を書かなければといつも思いながら、悪筆が直ることはありませんねぇ…
取説

親不孝通り

  • 2017.02.22 Wednesday
  • 05:56
ニュースを見ていたら、「親不孝通り復活決定」というのが目に入りました。せっかくなので、地元西日本新聞で見てみると、初めは「親不孝通り」だったものが、イメージが悪くなったので「親富孝通り」と言い換えていたものを、再度元に戻すことにしたんだそう… この近くにに「円山豆富店」という豆腐屋があるようなものです。
  西日本新聞
  (西日本新聞より借用しました…m(__)m  2017.2.20)

私が福岡で浪人生活をしていたのが、1971年4月から72年1月まで。札幌は遠かったし、東京や大阪はいやなので、九大のある福岡なら予備校もしっかりしてると両親を説得して、やって来たのでした。本当は西鉄ライオンズの応援ができる!!というのが一番の目的でもあったのですが…(笑) 下宿は、福岡の西の端にある姪浜(めいのはま)。当時は西鉄の市内電車の貫線という路線が、姪浜から東の端の九大前まで走っており、中心市街である天神の一つ手前の「西鉄グランドホテル前」で下りて、北に向かって細い道をぞろぞろと歩いて行きました。
マップ

当時はこの道に名前なんかついていなかったのですが、その何年か後にもう一つの予備校が近くに移転してきたことから、浪人生が一日中ぞろぞろ歩くので、「親不孝通り」という名前がついたのだそうです。私の「母校」は九州英数学舘という、大阪以西では最大の予備校で、一体何人いたんだろう?ものすごい数の浪人が西日本各地から集まっていました。調べてみると、大手予備校が進出してきて成り立たなくなり、今では外国語教育の専修学校に。札幌も似たような感じでした。

英数学館
  (Wikipediaより)

当時は那の津通りに面した大きなビルだったので、年末に走る福岡朝日マラソンの中継を見ていると、「浪人生たちが声援を送っています〜」と紹介されて懐かしかったものですが。ストリートビューで見てみると、今は空き地になってセブンが立っており、奥にあった別館だけが残っているようです。卒業生の欄を見ると、タモリや陽水が。陽水は4年上、タモリは7年上なので、意外と近かったんだ。あんまりここに出ていないところを見ると、浪人したことは誰も明かさないからなんでしょう。

  卒業生

数年前、熊本に墓参りに行ったついでに一回りして
、やっぱり懐かしい町でしたが、こんな通りには行ってみたくないですねぇ…(^^;)

ネクタイピン

  • 2017.01.31 Tuesday
  • 06:00
この時期は、それほど仕事がぎちぎちに詰まっていないため、少しは余裕があります。ちょうどかみさんが実家に帰って不在だし、ラグビーの決勝もあったので、日曜日は昼過ぎには帰宅しました。こまめもひとりぽっちで留守番させると、ものすごく寂しがるのです。ラグビーが終わってから、久しぶりに書棚などの整理を始めましたが、そういえばタンスの小物入れの引き出しがグチャグチャだったなぁと、開けてびっくり。使い古したベルトのような到底使わないものがたくさん詰まっていました。それらを片付けていくと、中からネクタイピンがいくつも出てきました。

今はネクタイも滅多にしないし、使うピンも一つあれば十分なので、こんなところを開けることもありませんでした。これは、北大の創基百周年記念に農学部でもらったものです。
百周年

卒業した年(1976(S51)年)が、札幌農学校が開校してからちょうど百年に当たっていたので、農学部を中心に結構盛り上がりました。私は一年だけ研究生で残っていたので、この式典にも参加することができたのです。ネクタイピンの形は、この時に作成した農学部の紋章から作られています。
紋章

これを作ったのは、作物育種学を習った高橋萬右衛門先生で、のちに学士院賞をもらった大先生です。でもこの謂われを見るとかなりこじつけだなぁ…と思わず苦笑してしまいました。
由来

もう一つは、それから10年後の1987(S62)年に百周年を迎えた、札幌同窓会が作ったものです。札幌同窓会というのは、出来た時には「札幌農学校同窓会」でしたが、1907(M40)年に東北帝国大学農科大学に名称が変わったときに、札幌同窓会となりました。道庁の西側にある道庁西ビルの底地をかなり持っていたため、その賃貸料があるのでこういうものを作ることができたのでしょう。最近までずっとこの名前で通していましたが、他の学部から農学部の同窓会なのに、なんで札幌なんだとか、たくさん入ってくる賃貸料は、本来全学で使うべきだから少しよこせとか、いろいろ言われ続けてきました。名前は法人改革の際に「札幌農学同窓会」と変えたけれど、賃貸料は奨学金や海外留学の支援金など、農学同窓会だけでいまだに確保しているようです…(^^;)
同窓会記念

この模様は、北大にあるクラーク像の台座に取り付けられているレリーフ。クラークは、イギリスのキューガーデンの温室でオオオニバスを見て感動し、それまでの鉱物学から植物学に転じたと言われています。
クラーク像

もう一つ出てきたのが、1990(H2)年に大阪鶴見緑地で開かれた国際花と緑の博覧会の記念品です。こんなのをもらっていたのもすっかり忘れていました。コンサルに転職してすぐ、挨拶に植物園の辻井先生の所に行ったら、ちょうどよかった、あんたに手伝ってもらいたいことがあるんだと、いきなり花博に巻き込まれてしまいました。それはまたあとで紹介するとして、私はカフスなんかしないので、一度も使っていないものですが。
花博

こういうものも、一つ一つ眺めているといろんな思い出が蘇ってくるのですが、私が死んだら形見になるようなものでもないし、やっぱりガラクタになってしまうのでしょうかねぇ。

くじ運

  • 2017.01.25 Wednesday
  • 05:53
私はくじ運だけはからきしダメで、宝くじはもちろんのこと、スーパーの福引きでもほとんど当たったことがありません。なので、年賀葉書も切手シート以上が当たったことは一度もなく、そうこうしているうちに下3桁もなくなってしまい、ますます当たりが悪くなってしまいました。昨日郵便局に用事があったので、ぱらぱらと探してみることに。忙しさに取り紛れて、交換しない年もあったので、こういうのは思い立ったが吉日です。今は当たりが全部で4つしかないので、とても探しやすくなりました。すると14枚も当たっていたので、1/50の確率からすれば、当たりが多かったかもしれません。

当たり葉書
不思議なもので、14枚中下二桁(51)が12枚と、多分一番多かった数字が当たりになったようです。正月に息子が「おみくじ箸」というものを買ってきました。筒型の箱を振って割り箸を出すと、私は中吉で、宝くじを買うといいとありました。ここ数年しんどいことが多かったので、今年はいいことがあるのかもしれません♪

家の引き出しに、お年玉切手シートが詰め込まれているのを思い出し、出してみると昭和時代のものも入っていました。昭和62年(1987)といえば、4月に長男が生まれ、秋には植木屋からコンサルに転職した年でした。いろいろと賑やかな年だったなぁ。
昭和時代

中で一番派手なのが平成20年(2008)。なんでこの年だけこんな大きな切手になったのでしょうか?その前のねずみ年の地味さとは比べものになりません。次のねずみ年はあと3年なので、アメリカは大変なことになっていることでしょう。
ねずみ年

今年は酉年なので、どんな図柄かと楽しみだったけれど、なんかなぁ… ネットでは「カラフルで可愛いです!ちょっと北欧風でもあり、アジアっぽくもあり」なんて結構評判がよろしいようですが。だんだん玩具などもネタが尽きてきたので、苦労して作っているのでしょうから、もっと喜んであげなくてはいけないか。
酉年

ますむらひろし

  • 2017.01.18 Wednesday
  • 06:03
冬になると事務所に籠もりきりになることが多く、たいした話題もないときには、また我が家のガラクタ箱をひっくり返すことになります。かなりひっくり返したつもりですが、まだまだ湧き出て来るようです〜(^^;)

年末の新聞の書評欄に、懐かしい名前を見つけました。「ますむらひろし」という、何ともへんてこな漫画家です。彼の作品が流行ったのはまだ私が20代の終わり頃、流行ったといってもごく一部で熱狂的に持ち上げられただけで、ついぞメジャーになることなく、近作も全然なかったと思います。なので、知っている人はほとんどいないでしょう。
新聞記事
 (朝日新聞の朝刊から一部抜粋…   2016.12.4)

この頃に入りびたっていた飲み屋「エルフィンランド」では、この主人公のヒデヨシは完全にスターであり、背中に背負っている「猫正宗」まで委託して造っていたくらいですから…(^^;) マッチもすべてヒデヨシ印。洋さんは、ますむらさんにちゃんと断っていたそうなので、猫正宗も送っていたのかもしれません。
アタゴオル
(「アタゴオルは猫の森」ますむらひろし著、朝日ソノラマ刊第五版、1980)

ますむらさんの本は、ほぼすべて持っています。東北の出身だったこともあって、若い時から宮澤賢治に強く惹かれていたようです。銀鉄のあとがきには、「東京の下宿の一室で、賢治の文庫本を夜ごと読みふけっていたのは、二十歳の秋のことでした。」と書かれています。彼は私と同じ歳なので、ちょうど同じ頃、賢治の文庫本をお互い読みふけっていたことになります。いつも松山に帰省するときには、山線回りの急行宗谷で函館に行き、青函連絡船で青森に着くのがちょうど夜中の十二時。青森から上野行きの急行八甲田に乗るのが定番でした。当時の急行は、古い木製客車で堅くて狭いボックスシートに横になり、いつも賢治の文庫本を読みながら、真っ暗な東北本線を走っていたのです。
銀鉄
(「銀河鉄道の夜」 ますむらひろし著、朝日ソノラマ刊、1983)

なので、のちにこの賢治シリーズが出た時には、何ともいえない現実感に包まれたものでした。難解な賢治の物語が、少しは分かったような気がしたのです。

銀鉄の最後

今から思えば、二十歳の若者には、賢治の物語や詩は難解すぎます。もう一度読み返してみれば、少しは理解できるのかもしれないなぁと、この新聞記事を読みながら思ってしまいました。
風の又三郎
(「風の又三郎」 ますむらひろし著、朝日ソノラマ刊、1983)

又三郎では、ふんだんに出てくるオノマトペ(擬音語や擬態語)が、物語にリズムを付けてくれます。自然と向き合いながら、それをどう表現すれば一番身近に感じられるのか、思いを形に変えられるのか、賢治はいつも試みていたのでしょう。ますむらさんは、人間が主役になるとどぎつ過ぎてしまうことを恐れて、ネコに置き換えたのでしょうか。この試みは見事にはまっているのです。
又三郎

漫画鳥瞰圖

  • 2017.01.17 Tuesday
  • 06:00
しばらく続いた厳しい寒さがようやく緩み、少し過ごしやすくなりました。朝晩少しずつ昼間が長くなっていくのがよく分かり、まだまだ春は遠いものの、少しずつ近づいているのは確かです。

吉田発三郎による、格調高い鳥瞰図には及びもしませんが、函館の『漫画鳥瞰圖』なるものがあることを思い出しました。結婚して間もないころに、函館の義父にコピーをいただいたもので(といってもA1サイズもありますが)、大正時代末期の函館の様子がよく分かって面白いものです。1925(T14)年に、青函連絡船が直接貨車を船倉に引き込んで、貨物輸送を始めた記念の年でした。それまでははしけに積み替えて輸送していたので、ものすごく手間と時間がかかっていたのです。
漫画鳥瞰図

函館の町は、何度も大火に見舞われており、1934(S9)年の大火では、市街地の約半分、一万戸以上もの家屋を焼き尽くし、死者も2,166名を数える最大の被害を出していますが、その前が1921(T10)年の大火で、いわゆる西部地区を焼き尽くしています。その後コンクリート造の建築物が通りに面して建てられ始め、現在も数多く残って西部地区の景観を作り出しているわけです。
  函館大火
 (「函館大火と復興・再生のまちなみ」  市立函館博物館館長 田原良信氏作成資料より)

この鳥瞰圖が発行された年は、大正大火から四年、まさに復興に邁進して町に活気があった時代を反映しているものと考えられます。それにしても、この大澤観文なる人がどんな方なのか全く分からず、地元新聞に挿絵でも描いていたのでしょうか?戦前は、地図は軍事機密のため、必ず軍の検閲を受けなければ発行できません。当時の絵葉書を見ても、函館山には必ず雲がかかって、見えなくされてしまっているのです。
奥付 査閲済

湯の川までは電車が開通しているけれど、千代台を過ぎる頃には町並みがなくなり、五稜郭のお堀ではスケートや氷の切り出しが行われいたようです。亀田八幡は亀田村ですが、師範学校(現教育大函館校)までがぎりぎり絵図に載っており、函館はここまでだったわけです。
五稜郭

駅前には朝市もなければ棒二さんもなく、函館の賑わいの中心はまだ十字街にありました。それでも大森稲荷の前にあった函館(大森)遊郭に向けて、両側に映画館などがたくさんたち始めていた時期でしょう。遊郭の前には大きな門柱が立っていて、それを大門と呼んでいたことから、駅前地区全体が大門と呼ばれるようになり、その呼び名だけが残されているわけです。
大門

十字街から末広町にかけては、景観地区として現在もたくさんの建造物が残されている地区となっています。この赤丸のところがかみさんの実家のあるところで、これには寺井商店となっていますねぇ…?この建物は、1907(M40)年にリューリ商会として建てられたことになっているけれど、いろいろ調べた方によると1921(T10)〜1926(T15)に建てられたものではないかとされておりました。これが1925(T14)年に描かれたところを見ると、まだできていなかったのでしょうか??絵図としてはあんまりいい出来ではないけれど、細かく見ていくといろんな情報が見つけられそうです。
末広町

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