茨戸油田

  • 2018.03.24 Saturday
  • 05:50
前日にああいう電話をいただくと、なんとかしてあげなくてはと、やはり気になるものです。夕方までに仕事の目途が付いたので、とりあえずネットで調べてみました。この場所でポプラを植える動機として考えられるのは、農作物に対する防風植栽がありますが、近くに大規模な幹線防風林があることや、列状植栽では効果がしれているので、まずその可能性はないと思います。そうなるともう一つ可能性があるのは、かつてこの辺りにあった茨戸油田関連かな?と。

茨戸油田

ここにあるように、昭和30年代初めに採掘が開始され、わずか10数年でその役割を終えています。1971(S46)年といえば、私が札幌に住み始めた前の年なので、そんな時期まで油田があったというのにはビックリでした。さらに北側にあった石狩油田が、戦前にほぼ役目を終えていたのに対し、茨戸地区はそれと入れ替わるように採掘されていたことになります。茨戸油田については、北区のHPにそのあたりの情報が残されていました。

北区HP

茨戸油田はどのあたりで採掘されていたのか、ネット情報や古い地図で調べて見ました。国土地理院の検索システムで、これに当たる期間の地形図がないか見てみると、1972年調査の地図があり、ぎりぎり油田の位置が確認できました。するとねらい通り、この場所に油井が並んでいたのです。

1973地形図

その頃に植えれば60年経っているので、成長の早いポプラであればかなりの大木になっていることでしょう。とはいえ、この施設とポプラに関係があるのかは何とも言えません。カンカン照りの中で仕事するのが大変だから、早く日陰を作ろうと、成長の早いポプラを植えた、なんてことがあったのでしょうか?でも手がかりとしては、まだその当時の関係者がご存命でしょうから、ここから攻めていけば手がかりが得られるかもしれません。これからの予定の隙間をぬって、なんとか解明できるでしょうか。

荒井山のあゆみ

  • 2018.02.03 Saturday
  • 05:58
私が住んでいる場所は、現在の地名では宮の森となっていますが、地域名は荒井山です。その荒井山町内会が40年以上前に出版した「荒井山のあゆみ」という小冊子をようやく手に入れました。折り込まれていた昭和10年の地形図にあるように、この地域は戦前、琴似町十二軒澤と呼ばれていたのです。
明治の初め、北海道開拓を進めるために立ち上がった東本願寺は、虻田から山を越えて札幌に至る山越えの道路(現在のR230号)を開削し、「本願寺越え」道路を完成させます。一方で本府の南に布教の拠点となるお堂を建て(現在の札幌別院)、その周辺に新潟から50戸の農民を呼び寄せて開墾を始めました。これが明治4年だったので、その干支(辛未(かのとひつじ))から「辛未(しんび)一ノ村」と名付けられたのです。ところがその5年後、山鼻や琴似に屯田兵が入植することになり、せっかく開墾した場所を追われて琴似方面に強制移住させられてしまいました。その時にはまとまって移住できず、あちらに八戸、こちらに十二戸、一番まとまったところに二十四戸と、3つのグループに分散したのです。その地名が八軒、十二軒、二十四軒と仲良く連なっていたのに、荒井山周辺に秩父宮や高松宮がやって来てスキーを楽しんでいたことから、1943(S18)年に十二軒とその奥の十二軒澤を宮の森に改名したのでした。
S10年の荒井山
 (「荒井山のあゆみ」 荒井山町内会刊行、1974(S49)より、以下同)

この写真は、私が札幌に来た2年後に写されたもので、札幌オリンピックで改装された大倉山シャンツェが大きく写っています。左奥には宮の森シャンツェもあるはずですが、その間にはまだ住宅がちらほらある程度でした。赤い矢印のところに今の家がありますが、この斜面は北炭が開発して分譲したために、北炭分譲と呼ばれていました。この10年後にここに住み始めた家は、分譲にあたって建てられたモデルハウスだったのです。
全景

最初から住んでいた人は、STVやグランドホテルなど、北炭系列の会社に勤めている人が多かったのはそのためだし、家のすぐ近くに北炭の慰霊堂があるのも、そういう土地の謂われからなのです。荒井山の名前の元になった荒井氏がこの一帯の最初の所有者で、鉱泉が湧いていていた場所に円山温泉を作っていましたが、その跡地はのちに拓銀が買収し、ここに研修所が建てられました。かつて拓銀に入社した人は、ここで研修をしていた訳ですが、今はなんと宗教団体の所有地になってしまいました。聖心女学院は築55年も経っているので、かなり古めかしくなっているのかな?
施設

昔の小別沢トンネルの写真も載っていました。入り口はコンクリートだったけれど、中は手掘りのまんまだったので、とっても怖い場所だったし、市内随一の心霊スポットだったけれど、今のトンネルではお化けも出られなくなってしまいました。盤渓峠も新しく切り開かれて間もないころの写真です。この数年後にはこのあたりを仕事でうろちょろしていたけれど、まだ砂利道でひどい道路でした。
道路

この本の中に6件広告が入っていて、これがまた懐かしい。荒井山の谷底にあった山水閣は、結構賑わっていてホテルでした。かみさんも函館からサーカスを見に来た時に、家族でここに泊まったのだそう。ここを買収して宮の森中学ができたので、うちの子供たちは28丁目の向陵中学まで行く必要がなくなったのです。宮の森ガーデンは10年くらい前に閉めて、跡地に結婚式場ができると聞いていたのに、いまだに仮囲いに囲まれたまんまです。浜崎商店は、酒も置いてる雑貨屋だったけれど、早いうちからセイコーマートに変身し、いまだにがんばっています。
広告

こういう本は、買えばきりがないのだけれど、このまま埋もれさせてしまえば後世に何も伝わらなくなってしまいます。一部でもこうしてデジタルの世界に載せておけば、何かと引っかかってくれることもあるでしょう。

円山の散歩

  • 2018.01.17 Wednesday
  • 05:45
昨日の昼休み、日が差さず肌寒かったけれど、久しぶりに散歩に出かけました。天然記念物円山原始林についての原稿を書き上げたばかりだったので、山が見たくなったのです。円山墓地の手前から見上げた円山は、ほとんどが原始林(国有林)ではなく市有林です。1903(明治36)年に当時の札幌区に払い下げられたのち、不必要な(本当は売る価値のある木だと思いますが…)樹木を伐採して売却し、その収益でカラマツなどを植樹しています。丸く囲ってあるところのカラマツ林はその名残なのです。
カラマツ林

墓地の中には細い踏み分け道があり、それをたどるとかなり奥まで続いていました。上から2段目にある宮部金吾博士の墓の前まで行けたので、お参りしておきました。この奥の沢筋から頂上に抜けることができるので、冬でも登っている方がいるのでしょう。
宮部先生

そこで引き返して円山公園に入ると、鬱蒼たる針葉樹林。といっても構成樹種はヨーロッパクロマツやヨーロッパトウヒ、スギなどの外来樹種ばかり。日が当たらないせいか、雪が硬く締まって自由に歩けました。
針葉樹林

樹林から出るところに、頭の少しつぶれた樹形の木が。よく見るとカラマツの北方系近縁種であるグイマツでした。グイマツは道内には化石として見つかりますが、樺太には今も自生があります。
グイマツ

グイマツの球果はカラマツの半分くらいしかないので、下から見上げてもたいてい区別がつきます。今までグイマツは未記録だったので、雪が融けたらもう一度調べに来なくては。
グイマツの球果

ここのトイレの裏にあるカラマツも、昔調査をしていて、ヨーロッパカラマツであることが分かりました。明治時代にここにあった養樹園の名残は、結構残されているのです。
ヨーロッパカラマツ

ヨーロッパカラマツの球果はカラマツの1.5倍くらい背が高く、富丘西公園の四阿の横にも大きな木があって、びっくりさせられました。普段意外と見逃しているけれど、いろんな木があちこちに隠されているものです。
球果

相変わらず地下鉄から神宮を目指すアジア系外国人の多いこと。誰が祀られているのか知ってか知らでか、本当に不思議です。(開拓三神ならまだしも、余計なものまで祀ったので、私は絶対に行きませんが。)そんな場所がパワースポットとして御利益があるのですかねぇ。そんな人達が歩いている園路の脇には、道内で最も古いカラマツの林が。養樹園には全国各地や海外から大量のタネが持ち込まれ、たくさんの苗木が作られて全道に配布されました。北海道の林業を支えてきたカラマツですが、ここが道内のカラマツの故郷だということは、ほとんど知られていないのです。
カラマツ

札幌1957 生活篇

  • 2018.01.10 Wednesday
  • 06:00
昨日は1957(S32)年の札幌を、俯瞰しながら眺めてみましたが、今日は地上に下りて生活をじっくり見ることに。まずは丘珠のタマネギ畑です。まだこの頃は‘札幌黄’の全盛時代ですね。昨年暮れにこれを10キロいただき、現在食べていますが、料理されると品種の違いはなかなか分からないものです。30年ほど前に転職したときに、会社が伏古だったので、会社の回りがタマネギ畑だらけだったのにはびっくり。真っ赤な火山灰みたいな土なのに、こんな土で毎年タマネギばかり作っているんだと、いささかカルチャーショックを受けました。そんなことよりも、エアコンなんてまだなかったので、夏に窓を開けていると机がざらざらになって大変だったことを思い出します。この収穫風景では、頭もザスザスになったことでしょう。
タマネギ畑

私が札幌に住み始めた頃は、暖房が石炭から灯油に変わった時期かもしれません。ポット式のストーブの全盛時代でした。12年の間に7回引っ越して今のところに落ち着きましたが、石炭を焚いていたのはペチカのある一軒家に共同で住んでいたときだけ。確かに石炭運びや灰の処理など結構大変でしたが、みんな焚いていた頃は煤煙だらけですごかったことでしょう。この写真の下には、建設中のテレビ塔と、解体中の豊平館が写っていました。ハルニレはもう少し左手前でしたね。
煤煙の町

この頃の人は、雪が降っても傘を差すことはない、なんて書かれているけれど、今では男だって差しているので、危なくて仕方ありません。昔は除雪なんてそんなに入らなかったでしょうから、電車の線路をみんなが歩いて危なかったという話を聞いたことがあります。この頃は車自体が少なかったから、そんなに問題も起きなかったのでしょう。
雪融け

漬け物は、北国の風物詩としていまだに生きているでしょう。どんなに素敵な家でも、ベランダに大根がずらりと干されていると、思わずにやっとしてしまいます。家中が暖かくなりすぎて、保管するのには苦労しているようですが。
漬け物

この子たちは私と同じ歳くらいなんでしょう。ここまでは着ぶくれしていなかったけれど、似たような格好の写真が残っています。昔はセーターでも手袋でも、ばあちゃんがせっせと古毛糸で編んでくれるし、男三人兄弟の末っ子だったので、着ているものはほとんどお下がりばかり。おねだりしても買ってくれないのであきらめていましたが、そんな時代だったのかもしれません。角巻き姿のおばちゃんは四国にはいなかったけれど、昔の年寄りはたいていショールを羽織っていましたねぇ。
スキー

賑わう荒井山のスキー場。このリフトは、この前年(1956)に道内初の市民向けリフトとして開設されたものだそうです。(藻岩山は進駐軍専用だったため)子供たちが大倉小にいた頃まであり、長男はこれでスキー授業を受けることが出来たけれど、次男の時には休止していたので(2000)、スキー授業をコバランドかばんけいでやったはずです。やがて撤去されて、歴史あるリフトも姿を消してしまいました。市内各地から市電で円山にやって来て、ここまでスキーかついで上がってきていたのですね。
荒井山

藻岩からずっと西の三角山の山裾には、冬になると牧場や畑がたくさんの「ゲレンデ」として、子供達に利用されていたそうです。これを南から挙げてみると、こんな名前と縄張りがあったとか。
「新藤牧場及び水道山」伏見の浄水場あたり。山鼻小の縄張り(以下略)。
「温泉山」旧札幌温泉のあったあたり(旭山公園の南斜面)。山鼻小。
「源ちゃんスロープ」温泉山と双子山の間にあり、旭山公園造成により消滅。
          急斜面で起伏があり、上級者向きだったそう。
「双子山及び南斜面」双子山は急斜面、円山の山裾は緩斜面。幌西小。
「荒井山」最も利用された市民スキー場。もちろん円山小。
「寺口山」琴似山の手で国立病院の西側。北大生はシルバースロープと呼んでいた。
     琴似小と桑園小。

 (「札幌古地名考」 札幌原人(小川高人)著、1981より)

札幌 1957 俯瞰編

  • 2018.01.09 Tuesday
  • 05:51
昨日の朝から鼻水とくしゃみが止まらず、風邪引きかけているのでおとなしくしていました。早く帰って、7時から4時まで、9時間ぐっすり休んだらすっきり。年末年始の呑み疲れもあったのでしょう。肝臓休めてしばし静養に努めます。

背文字のない薄い本は、書棚では回りの本に埋もれて、なかなか手に取ることがなくなってしまいます。捜し物をしてして、ようやく見つけたのが岩波写真文庫『札幌 1957』という小さな冊子でした。1957(S32)年といえば、私はまだ5歳。札幌に住み始める15年前のことですが、来た年に行われた札幌オリンピックに合わせて町が大改造されているので、ずいぶん変貌している感じがします。町中でもビルがほとんどなく、大通より南には三越から丸井くらいしかないなんて…
表紙

北大構内も、左端にある農学部以外には、理学部と工学部の白亜館、北大病院くらいしか目立つ建物がなく、木造の建物がぎっしりと建っていたようです。今よりももっと込みいった感じですね。
北大構内

写真でよく見る大通1・2丁目の風景。ここにあった望楼の上から写したものでしょう。この間にはまだ北大通がなく、電話局と郵便局がどっしりと建っていました。煉瓦造と軟石造の重厚な作りなので、さぞや存在感があったことでしょう。のちに公園になったところには、市営バスのターミナルがありました。まだボンネットバスも現役のようです。この時には豊平館は既に中島に移設中で、この右側にテレビ塔が完成間近のはずです。
大通

望楼から南を向いた風景。手前の橋が創成橋で、その右の小さな建物が創成交番(正式には札幌警察署南一条巡査派出所)で、現在は開拓の村に移設保存されています。狸二条広場には、小さな鉄塔が立っていたのですね。その右のビルが大谷会館。ここにはライブやコンサートで何度通ったことか。懐かしい建物です。川に丸太を渡して桟敷を作り、サーカスをやったというのはこの辺りなんでしょうか?
  創成川

これもちょっと信じられない風景です。左にある藻岩山から石山通まで突き出しているのが軍艦岬。この辺りの豊平川のなんと雄大なことか。軍艦岬の下から流れ込んでいるのが山鼻川だけど、豊平川との間には築堤がなく、全くの自然河川状態です。下流に行くと幌平橋や豊平橋、東橋などで思い切り築堤間が狭められ、窮屈な川になってしまうのに対し、この辺りではまだまだ、広大な玉石河原(パラピウカ)が広がっていたのですね。(つづく)
豊平川

円山原始林

  • 2017.12.28 Thursday
  • 05:52
正月休み中に円山原始林について原稿を書かなければならないので、資料を確認していました。昔から文献はいろいろと収集してきたので、たいていのものはあるのですが、今一つ範囲や面積が確定できません。館脇先生が1957年に作った『圓山原始林』という小冊子には、円山全体の図面が描かれており、面積は42.95ha(國有林)とあります。
舘脇本
 (「圓山原始林」 舘脇 操著、日本林業技術協會発行、1957 より)

意外と知られていませんが、天然記念物「円山原始林」に指定されているのは、円山の国有林部分だけで、しかも市街地に面している部分はほとんどが市有林になっています。開拓以来ずっと保護されたことになっているけれど、実はどんどん手近なところの木は伐り出されて、町の発展に使われたわけです。松浦武四郎が、今の藻岩を指して‘椴(とど)木立なり’と言ったにもかかわらず、現在の藻岩・円山にトドマツは数えるほどしかありません。市街に面している部分が荒れ果ててしまったために、国は用無しとして札幌区に払い下げられたのではと思っているのです。(図中の点線で区切られている部分が国有林と市有林の境界です。)
植生区分図
 (「札幌円山の自然科学的研究」 北海道教育委員会、1958 より)
 
市の教育委員会の資料がネットで公開されていますが、(※pdfにリンクしています。)
ここには「…開拓使時代から保護され、「原始林」と呼ばれてきた。しかし、実際は原生林に近い天然林で、…」と正直に書かれています。これでは43.9haとなっているので、これは大元に聞いてみなくてはと、旭ヶ丘にある石狩森林管理所に行ってきました。いきなり押しかけたにもかかわらず、次長さんが丁寧に対応していただきましたが、森林調査簿を丹念に拾っていかなければトータル面積は分からないし、市の教育委員会で出されている数字が正しいはずですと、それでも図面を頂戴してきました。
林班図

これではっきりと天然記念物に指定されている国有林の様子がよく分かりました。
全体は30林班(りんぱん)で、「い1」などと書かれているのが小班(しょうはん)という単位になり、それぞれどのような指定状況になっているかが分かります。(鳥)は鳥獣保護区、(史)は史跡名勝天然記念物、(都)は都市計画風致地区、(道)は北海道すぐれた自然指定といった具合です。(貸)とあるのは、札幌市に自然歩道として園路部分を貸していることを言っているのでしょう。
円山原始林

もちろん天然記念物に指定されているので、本来葉っぱ1枚、ドングリ1個だって拾ってはいけません。「森林としての施業も全くできないので、ただ見守るだけなんですが、回りに住宅がびっしりと貼り付いているので、枝が落ちた、木が倒れたと、強風が吹いた時にはすぐに苦情が来るので、緊急の対応はこちらでしなければなりません。かなり費用がかかる場合もあるのに、教育委員会は全く予算がないので、後始末は全部こちら持ちだから、現実はとても大変なんですよね〜」と、次長さんは訴えておりました。札幌市民はそんなことはつゆ知らず。単なるハイキングコースくらいにしか思っておりません。函館山のように、もっと利用者教育をしっかりやらなければ、本当の価値に気付かないままになってしまうでしょう。

札幌の古き建物たち

  • 2017.12.06 Wednesday
  • 05:58
札幌建築鑑賞会という、もう30年近くも熱心な活動を続けている団体があります。最近では、「札幌軟石発掘大作戦」を各区ごとにやっていたので、ご存じの方もいるのでは。その活動の一つに「古き建物を描く会」というのがあり、その開催60回、15周年記念の作品展に行って来ました。
チラシ

場所は北翔大学北方圏学術情報センター『ポルト』です。地下鉄だと西18丁目駅と円山公園駅のちょうど真ん中あたり、南大通に面しています。私にとってはうどん屋からの帰り道なので、とても行きやすいところ。昨日は朝からずっと雪だったのに、お昼前後には青空が出てちょうどいいタイミングでした。
ポルト前

ここにはギャラリーが二つ、講義室が二つあり、以前ここでお話しをしたことがあります。学園で使用していなければ一般利用ができるし、申請者が学園のどこかの卒業生であれば、さらに安く借りられるはずです。
入り口

中に入ってびっくり。15名が計74点もの作品を出しておりました。しかもその内容がかなり濃密で、デッサン力も正確な上にバッチリ決まっており、レベルがメチャ高いのです。単なる記録程度かと思っていたので、焦ってしまいました。受付に出品目録が置かれているので、それを見比べていくと、懐かしい建物が次々と現れてきます。建物から離れて、作品として見ていっても十分に楽しめるでしょう。円山近辺に行く用事があれば、10日まで行われていますので、ぜひご覧になって下さい。
内部

八紘学園の場所の由来

  • 2017.02.09 Thursday
  • 06:01
八紘学園の敷地は、もともと吉田善太郎という人が開墾して牧場にしたところです。吉田善太郎は岩手から1871(M4)年に月寒に入植し、最初は炭焼きや畑を作り、1897(M30)年に吉田牧場をこの場所に開設しています。息子をアメリカに留学させると共に、アメリカから我が国初めてのホルスタイン種を20頭も導入し、先進的な牧場経営を始めました。その時に造った畜舎とサイロが現在も八紘学園記念館として残されています。
サイロ

1909(M42)年に建てられた別荘も、道路を挟んだ樹林の中に八紘学園栗林記念館として現存し、どちらも札幌景観資産に認定されている貴重な文化財となっています。吉田牧場は月寒から大谷地あたりまでの広大な面積を誇り、札幌の東部の開拓に多大な功績を残していることから、吉田川などあちこちに足跡が残されています。さらには、息子の善助の時代に軽種馬生産に乗り出して移転したことから、この場所を栗林元二郎に売却して八紘学園となったわけです。吉田善助の子供善哉、さらにその子供三人によって、現在の社台ファームやノーザンファームなどに発展していったのですから、この場所はまさにその原点の地でもあるのです。
記念館

栗林記念館の一帯は、普段入ることはできませんが、学園に正式に申し込めば許可が出ると思います。元二郎が集めた庭木や石が所狭しと詰め込まれていて、なかなかの見物となっているのです。この水晶なんて、庭に置くものとは違うような気がするのですが…(^^;)
大水晶

庭石もすごいものがたくさんあります。日高系の大きな石はいろんなところにありますが、ここのものは値打ちが全然違っているのです。
巨岩

この石も、今は全く出なくなった貴重なものだとか。「たまころ石」だったかなぁ?
球ころ石

現役の牛舎も由緒正しいマンサード屋根で、れんがのサイロとのコントラストが何ともいえません。昔は人力で牧草をサイロに詰め込んでサイレージを造っていたのですから、大変な手間がかかっていたのです。
牛舎

せっかくなのでハナショウブの写真も。普通のハナショウブ園は水辺に栽培しているけれど、それでは大量に作ることができないので、ここでは「丘作り」と呼んでいる畑栽培が特徴です。もともと水陸両用の植物ですが、連作障害を起こさないために土壌改良と施肥に工夫を重ね、ようやく実現させたものです。
ハナショウブ

ハナショウブが盛りを過ぎた頃にラベンダーが咲き、たくさんの品種があるヘメロカリス類がお盆まで咲き続けます。つばを付けたのは月寒ドームとその周辺の牧草地なんでしょうが、この静かな空間はいつまでも残しておきたいと思います。
ラベンダー

 (参考:「八紘学園七十周年史」  学校法人八紘学園発行、2002 など)

中島公園上空から

  • 2016.11.30 Wednesday
  • 05:56
先日の円山公園上空の写真に続いて、中島公園上空から撮された古い航空写真を紹介しましょう。円山の方は戦後まもなくの米軍によるものでは?としましたが、こちらはよく見るともっと後のもので、中島スポーツセンターが出来たのが1954(S29)年ですから、昭和30年前後のものではないかと推測しています。
中島公園全景

さっぽろ文庫84『中島公園』を見ていくと、アングルが違う別の航空写真があり(p293)、それには昭和29年とあるので、どうもそのあたりが正解なのかもしれません。この本には各年代の変遷図があり、ちょうど1954(S29)年というのが載っていたので、これを元に細部を確認してみることにしました。
絵図
(さっぽろ文庫84『中島公園』  札幌市教育委員会編、北海道新聞社、1998 より)

現在パークホテルが建っているところは、割烹西の宮の支店がまだありました。駐車場の所には中島中学も。リコーによって「ホテル三愛」が建設されたのが1964(S39)なので、この約10年後ということになります。豊水通に面して白く大きな建物があるのがNHK札幌放送局。豊平館が1957(S32)年に中島に移転した後に引っ越すわけですから、まだこの時には現役ということになります。物産展示場として建てられた拓殖館や農業館は、札幌短期大学(現在の札幌学院大学)や道立地下資源調査所として使われていた時代です。
拡大1

現在のKitaraのところにある丸いものが、なんと相撲場だというのはこの絵図で初めて知りました。このまま野外音楽堂になったのでしょうか?岡田花園の跡地の池が、市営釣堀だったというのも初耳です。岡田山も今一つ形がよく分かりません。△の所にウォータースライダーで設置されるのも、1958(S33)年に行われた北海道大博覧会の時のようです。博覧会の後、日本庭園や百花園が整備されるわけですが、まだ影も形もないようです。ただ、日本庭園のところにある方形の整形式花壇のようなものは、絵図では円形になっているし、後の百花園建設に際してこれを再現したということなんでしょうか。このあたりの整備を行った公園課の人達は、もうみなさん亡くなられてしまったので、ちゃんと聞き取っておけばよかったなぁとつくづく思います。でもこういう写真を丹念に見ていけば、いろんなことが分かるものですねぇ。
拡大2

(参考:「中島公園百年」 山崎長吉著、北海タイムス社、1988)

知事公館へ

  • 2016.11.29 Tuesday
  • 05:47
早朝のランニングは、風邪のため四日も休んでいましたが、ようやく再開。やはり朝いちでしっかり体の血液を回しておかないと、一日どよーーんとしてしまいます。昼間も籠もりっきりで全然出かけなかったので、郵便局に出かけたついでに知事公館まで歩いてきました。30日で閉園になるので、ちょうどいいタイミングでした。去年もちょうど今頃に通っていましたねぇ。
知事公館

去年歩いてないところをと、右手の管理事務所の方に歩いて行くと、あちこちに燈籠が立っていました。なんでこんな所に燈籠なんか立てたんだろう?と感覚を疑ってしまいますが、この燈籠はなんじゃい?と考え込んでしまいました。笠がひょろ長いのは蓮華寺型燈籠の特徴ですが、これはなんと四角なのです。軟石で作られているところを見ると、こちらの業者が本歌を見よう見まねでまねしたけれど、六角は面倒なので四角に手抜きしたものでしょうか。今一度こんな燈籠があるのか調べてみようと思います。
燈籠

その奥にかなり大きなイチョウがありました。一度強剪定されているけれど、そこからたくましく復活して大きく育っていました。このサイズでは珍しく、幹から大きな乳が垂れていました。赤れんが庁舎前のイチョウでもこれほど大きな乳にはなっていないので、乳が出やすい系統なのでしょうか。
イチョウ

時折日が差すものの、結構冷え込んでおり、人っ子一人構内を歩いている人はおりませんでしたが、芝生の中にある流正之さんの「サキモリ」まで行くと、たくさんの足跡がありました。観光客がやってくるのでしょうか。
サキモリ

イチイやヨーロッパクロマツ以外に、常緑の葉を持っているのがツルマサキ。ここにはほかの木に捉まって大きく枝を伸ばし、まるで木のようになって株が何本もあります。
ツルマサキ

こちらは10mくらいにもなっている大きなツルマサキですが、その隣にユリノキがありました。ユリノキの花は大きな葉の上に咲くので、歩いていてもまず気付きません。こんな所にもあったんだという木が、この時期には意外とあちこちに見つかるものです。
ユリノキ

旧伊藤邸から旧偕楽園にかけてあったヌップサムメム、植物園から流れ出していたピシクシメムは、今一つ昔の姿を偲ぶのが難しいのですが、このキムクシメムはゆったりとした地形がそのまま残されていて、一番好きなところです。つまらない石組みをすべて取り払い、元の姿に戻してあげたいといつも思ってしまいます。
キムクシメム

帰り道、気象台の裏を歩いていると、マンホールのわずかなすき間に生えていたエノコログサが、ほとんどドライフラワーになっていました。このままそっと持ち帰って飾っておきたいくらいです。
エノコログサ

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