井頭龍神

  • 2021.10.28 Thursday
  • 06:01
北大キャンパスと植物園の間には、札幌には珍しい道路や地形がゆがんだ不思議な空間が広がっています。この一帯は、札幌の開拓が始まってもまもなくの1871(M4)年に偕楽園という公園が設定されました。我が国に公園制度ができる2年前のことで、このため偕楽園は日本で一番古い公園といわれます。残念ながらこの一帯は開拓使の終焉と共に民間に払い下げられ、唯一明治天皇の休憩場所として建てられた清華亭のみが、現在も残されています。ある方のブログで、旧偕楽園の横にあった「井頭龍神(いのかみりゅうじん)」がなくなってしまったことを知りました。在りし日の姿はこの様なものです。
お宮

私が学生の頃、この辺りの地形が怪しいことに気がついて、早朝の人気のない時間にこの辺りをうろついて、人家の中に残されているサクシュコトニ川の痕跡を発見したりして遊んでいました。詳しく歩くようになったのは、集中講義で教え始めた17年ほど前のこと。ここはかつてのヌプサムメムがあったところで、こんこんと清水が湧いていたので、龍神様として祀られたわけです。
石碑

そのあたりのことは、北区役所発行の「新・北区エピソード史」にこんな写真とともに紹介されています。先ほどの写真に写っている建物は2001年に建て替えられたもので、写真を撮したのは完成の数年後。新しいはずでした、この冊子の写真に写っているのは、かつての神輿を使った社殿に、ただ雨が当たらない程度の小屋掛けにしか見えません。
古写真

民間に払い下げられてからは、かつての建物を使って料亭になり、大層なにぎわいになったようです。古い地図には「快楽園」と書かれているものがあるほどです、

その1
その3その2

この辺りは現在偕楽園緑地として公園化されていますが、この社殿の周りは政教分離の原則からはずされていました。現在もこの辺りに残されている河川敷の一部になっているのでしょう。集中講義は昨年で終わっているため、今年はこの辺りを歩く機会がありませんでした。私は龍神様とは仲がよくていつも雨を降らせてくれるのに、ちゃんとお別れが出来なくて残念でした。

パークホテルの庭園

  • 2021.01.19 Tuesday
  • 05:49
またニュース記事ですが、中島公園に接するパークホテルを建て替えて、国際会議場などを整備するMICE(マイス)の構想が、コロナ禍でストップしているそう。これを見て、思わずくそっ!と唸ってしまいました。

MICE頓挫

今から3年前に、私が事務局をしている造園学会北海道支部の『北の造園遺産』認定事業で、パークホテルの庭園を推薦しようとしたら、突然こんな発表がありました。今の駐車場に高層ホテルを建て、ホテルを取り壊した後に巨大なマイスの施設を建設するというのです。

3年前に決定

パークホテル(建設当時はホテル三愛)の庭園は、私の恩師である明道先生が中心になって計画を作ったもので、学生の時に計画当時は助教授だった奥村先生にここに連れて行かれ、コーヒーをいただきながら設計の苦労話を伺ったことがありました。
庭園

1階レベルから見ると、滝というより帯状の瀑布から流れ落ちる水が新鮮です。ところがこの庭園のねらいはそこではなかったのです。
近景

9階10階にはかなり大きな部屋があり、平成天皇ご夫妻は、来道した時には必ず泊まっていたはずです。そこから見ると、藻岩山が遠望され、近景には中島公園の池が大きく広がっています。完成当初は木が大きくなかったので、今よりももっと近くに池があり、その池の水が幅40mもある大瀑布から布落ちしてくるようになっていたのです。
遠慶
 (横山造園百年史より拝借…m(__)m)

そんな素晴らしい庭園なので、『北の造園遺産』にふさわしいと選考委員会は満場一致で推薦することができたのですが、それをホテル側にお伝えしたところ、なかなかウンという返事が来ないのです。私たちはなにも壊すなとは言っておらず、こんな素晴らしい庭園が北海道にもあったんだという記録を残したいと、何度も足を運んでお願いしたのですが、結局本社の了解が得られないと、断られてしまったのです。
坂倉準三

ホテルで働いている方たちは、ル・コルビジェの弟子であった坂倉準三設計のこの建物も、この庭園もとても大切なものだと思ってくれているのに、なにも分からない本社の人間は、計画に支障になるのではと拒否したものでしょう。計画そのものがどうなるのか分かりませんが、もう一回蒸し返してやろうかなぁ…(^^;)

ケネウシペツ

  • 2020.03.28 Saturday
  • 05:55
札幌の積雪が昨日2時にゼロになったとのこと。家の辺りは例年だと半月遅れくらいだけれど、今年はあと20cmくらいなので、来週半ばにはなくなってしまいそうです。またあわただしい春の到来です。

昨日は、月に一度の降圧剤の処方のために病院へ。院内感染すると大変なので、かなりピリピリしていました。入院患者はお年寄りばかりなので、かなり気を使っているようです。薬が出るまでロビーで待っていると、窓の外に迫っている山肌の雪に穴が空き、幹周りから融けていく根開け(根開き)がよく分かりました。西向きでもこのくらいなので、日当たりのいい所は融けてしまっていることでしょう。
根開け

窓の下を琴似川の上流が流れているので、覗き込もうとしましたが、残念ながらテラスがあって見えませんでした。その代わり、川に沿って生えている木がすべてケヤマハンノキで、おおっさすが!と感心してしまいました。というのは、琴似川のアイヌ名は「ケネウ」で、ケネはハンノキ、ウは群生する、ペは川を意味し、「ハンノキがたくさん生えている川」という意味だったのです。
ケヤマハンノキ

木の枝からブラブラ下がっているのが雄花で、その付け根のところに赤い雌花か咲いているのです。雄花は現在盛んに花粉をまき散らしているはずで、まもなく落ちてしまいます。雌花は小指の先ほどの松笠状の果実を作り、秋遅くになってようやく熟します。アイヌ名は本来ケム・ニ(血の流れる木)という意味で、幹を傷つけると赤い樹液がにじみ出ることからこの名があるそうです。繊維を赤く染めるのにも使われました。
ハンノキの花

まだ盤渓に向けては走れないので、まっすぐバス通りを動物園まで下り、帰りは神社山の山裾を中学校の前を通って、この病院の前を抜けて南側から自宅に戻っています。10日くらい前から、川の近くを通ると流れの音がゴオゴオと急に大きくなり、山の雪解けが進んでいることがよく分かります。こういうことは、車で走っていると気付かないものです。
位置図

昔の姿はやはり山田秀三さんの『札幌のアイヌ地名を尋ねて』を見なければなりません。これは明治六年に描かれた「札幌郡西部図」を模写したもので、かつてのコトニ川がどのように流れていたかよく分かります。このケ子ウスヘツと円山西町から流れてくるヨクシヘツ(ヨコシベツ)とが合流し、途中から町中のメムの水を集めてまっすぐ北東に流れています。現在は新川によって分断されましたが、もともとのコトニ川は、現在の百合が原公園の南側を流れてフシコ川に合流していたのです。
札幌郡西部図

この図を見ると、現在の三角山がマル山で、本当はモイワ(小さな山)だったのに円山になり、モイワが引っ越してエカルシベ(遠くを見晴らすところ)が藻岩山になったことが分かります。でもこのマル山というのは変だなぁ。この本では三角山をハチャムエプイとされているのに、当時の和人によってマル山と呼ばれていたのかなぁ?

追悼:富士田金輔さん

  • 2020.01.16 Thursday
  • 05:56
ベーマー会副会長のUさんから電話があり、富士田金輔さんが年末に亡くなられたとのこと。私はまだ直接お目にかかったことはなかったけれど、遺された2冊の著書やベーマー会の会報から、多大な影響を受けていただけに、残念でなりませんでした。冨士田さんが遺した『ケプロンの教えと現術生徒』が刊行されたのは2006年なので、今から14年前のことでした。その時は全然気付かず、なにかの資料を探していてこの本のことを知り、あわてて買い求めました。膨大な開拓使文書を丁寧に読み込み、淡々と事実を掘り起こしていくこの本の素晴らしさには、本当に感激しました。

現術生徒

ケプロンが連れてきた御雇外国人は、各方面で大活躍をしましたが、北海道農業に関しては、一緒の船でアメリカからやって来たエドウィン・ダンとルイス・ベーマーの2人が、その礎をしっかり築いていったのです。2人が養成したのが現術生徒で、今でいう農業改良普及員みたいな役割で、西洋農業を各地に根付かせるために、2人から特訓を受けて各地に派遣されました。彼等は百姓出身ではなく、多くは朝敵とされた東北各地の武士たちだったのです。
ダンとベーマー

今私たちの身の回りにある作物、野菜、果樹、蔬菜、花卉に至るまで、多くのものがベーマーによって導入され、道内に定着していきました。それにもかかわらず、これまでベーマーのことが全く知られなくて抹殺されてしまったのは、札幌農学校=北大農学部のせいであると私は確信しているのですが、冨士田さんはそんなことはなにも書いておりません。
    功績

それはもう一つの著書である『リンゴの歩んだ道』を読めばよ〜く分かります。これも目からうこがぼろぼろと落ちた、素晴らしい本でした。
リンゴの歩んだ道

以前、JRの車内誌に連載している北室さんにベーマーのことを伝え、ベーマー会があることも教えたところ、マッサンブームとうまく抱き合わせて紹介してくれました。活動がほとんど停滞していたベーマー会も、これを機に息を吹き返し、お陰で私もメンバーの一員になることができたのです。記事の中にベーマー会のメンバーが写っておりますが、もちろんその中心にいるのが冨士田さんです。

ベーマー会

昨年末の同じ日には、北海道の都市計画やまちづくり、景観づくりなどの基礎を作られたHさんも亡くなられており、昨年は惜しい方をたくさん亡くしてしまったんだなぁと、改めて感じます。心よりご冥福をお祈りいたします。

今年最後の知事公館

  • 2019.11.24 Sunday
  • 05:53
知事公館の庭園公開は、11月末日まで。寒くないうちに一回りしてきました。西門の左手にある桑園碑までは、きれいに落ち葉がかき分けられていて、ずいぶんと丁寧な作業をしてくれるものです。
桑園碑

木の葉が落ちるこの時期だけ、知事公館の素敵なファサードが一望できます。1936(S11)年の建築と言われますが、誰の設計なのか?何も記録されていませんが、本当に洒落たデザインです。
知事公館

東門のところにある「国富在農」の碑は、乃木希典の揮毫によるもの。本来はこれが桑園碑で、裏の文字はもう読み取れませんが、桑園を拓いた旧鶴岡藩の藩士たちの功績をたたえたものだったそうです。明治天皇に殉じた乃木が神格化され、碑文が改刻されてこんな姿になってしまい、それを悲しんだ人達が新たに立て直したのが、西にある現在の桑園碑です。
国富在農

うっすらと雪が残るローンに出ると、流 政之さんの「サキモリ」が二体。この位置や向きまで本人が指示したものでしょう。
サキモリ

なんでこれが二年かけて二体置かれたのか、いまだに分かっておりませんが、一体だけよりもはるかに存在感があり、本当に防人が、風に向かって進んでいくように感じてしまいます。
正面

ここにはユリノキが何本かあり、黄色い落ち葉がないかと近寄って見ると、残念ながら既に茶色くなっておりました。イチョウの落ち葉は肉厚すぎて、きれいな乾燥落ち葉にならないのです。
ユリノキ

東の端の方に、木の足元が真っ黄色になっているので、なんだろうと近寄って見ると、イチョウの落ち葉の上に数え切れないほどのギンナンが落ちていました。しかも珍しいくらいの大粒なので、正月に食べる数だけ拾ってきました。少なくても洗うのが大変でしたが。
ギンナン

ここは、「コッネイの三泉」と呼ばれたメムの一つ、キムクシメムが湧き出していたところです。(あとの二つは、旧伊藤邸から旧偕楽園にかけて湧いていてヌプサムメム、植物園から湧いていたピシクシメム)ここで一番大きそうなハルニレは、樹齢が三百年くらいあるので、昔からこのメムにサケが上って産卵している様子を見守っていたことでしょう。
ハルニレ

中央図書館

  • 2019.02.10 Sunday
  • 05:45
朝は寒かったけれど、ちらっとお日様が出たりして、少しだけ気温が上がりました。−10℃を境に、寒さの感じ方はずいぶんと変わるものです。道内には-20℃台が当たり前の所ばかりなので、このくらいで騒いでいては笑われそうですが。

中央図書館に行く用事があったので、西15丁目の電停まで歩いて行きました。途中にある‘ゆりや食堂’でお昼を。一応‘おか田’の前は通らずに、仲通から入ったのですが、ちゃんとおか田のおばちゃんには許しを得ていたのでした〜(笑)
ゆりや食堂

土曜日だけあって、勤め人があまりいないせいか、ガラガラにすいていてちょっとびっくり。この間はとじ蕎麦をいただいていたので、今回はやっぱりラーメンをお願いし、壁際の席に座って辺りを見回すと、なんだか昭和の香りのする置物がずらりと並んでいました。
レトロな置物

ほどなくして出てきたラーメンは、海苔となるとと小さなチャーシューが載っかった、本当に素朴な雰囲気。函館の末広町にあった、今はなき来々軒のラーメンを思い出してしまいました。味も薄味ながらしっかりと出汁がきいていて、本当に美味しかった。これで460円です〜
ラーメン

電停に着くとほとんど待たないで両方から電車が来て、どちらもかなりのお客が。買い物帰りの人だけでなく、ロープウェイで藻岩を目指す外国人も結構いたし、ループ化で乗降客も増えているのがなによりでした。
市電

中央図書館では、「失われた川を尋ねて『水の都』札幌」という展示がありました。12日までという、またぎりぎりになってしまったけれど、どうしても見たかったのです。
パネル展示

丁寧に地図や文献を調べ、札幌の町がいかに「水の都」だったのか、本当に分かりやすく解説も付いていました。これをチ・カ・ホでやったら、大混雑になって大変なことになったでしょうね。目からうろこがぼろぼろ落ちまくった、本当に素晴らしい展示で、久しぶりに満足感というか、充実感を味あわせていただきました。
水の都

チラシにも使われていた「偕楽園之圖」は見たことがなかったので、興味津々穴が空くほど見つめてしまいました。この右手にアイヌの家があったのは、実際のコタンではなく、見本的な再建住宅だったことも明らかにされていて、おっと危ない!訂正しなくてはと、背筋が冷やっとしてしまいました…
偕楽園

帰りの電車はポラリスで、これもかなりの混雑振り。グッドデザイン賞のシールが貼られていたけれど、あれこれ使い勝手などを見ていくと、ここはちょっとまずかったなぁとか、いろんな課題も見えてくるものです。新型の「シリウス」は導入早々運転手がポカをやって壊してしまい。今はまだ運休中。一度乗ってどこが改善されたのか見たかったのですが。久しぶりに電車にも乗れて。楽しい一日でした。
ポラリス

二条小周辺の変遷

  • 2018.12.20 Thursday
  • 05:58
このノニレは、一体いつからここにあるのか?いろんな地図で見てみました。まずは1928(S3)年の「最新調査 札幌明細案内圖」を見てみました。市電一条線は、円山公園まで開通したのが1924(T13)年で、このあたりはその2年前には開通していました。師範学校が、今の資生館小学校のところから移転してきたのが1894(M27)年ということなので、みなさんてくてく歩いて通っていたのですね。敷地の右端には附属小学校があり、最初は南1条西14丁目とあるので、電車通寄りだったようです。

S3住宅地図

1901(M34)発行の札幌市街圖では、師範学校の敷地は南1〜3条と西14〜15丁目の2丁角になっています。先ほどの住宅地図では西14丁目は大半が官舎になっているので、師範学校が西の方にずれていったのかもしれません。それにしてもこの地図で見れば、札幌區と山鼻屯田のズレがせめぎ合って、西の方は道路が繋がっていません。山鼻屯田はちゃんと測量して、南北の軸をきちんと設定したのに対し、札幌區は大友亀太郎が適当に掘った大友堀に合わせて区画を設定したために、こんなずれが生じたのです。

1901市街圖

もう少し新しい1936(S11)年の市街圖では、西線の電車が開通しているけれど、附属小学校の敷地を突っ切れないので、ものすごい鋭角ターンして西15丁目で一条線に合流しています。本当にこんな鋭角に曲がれたのでしょうかねぇ…

S11市街圖

これを先ほどの住宅地図に落としてみると、師範学校の敷地を横切ることになってしまいます。これは住宅地図の精度が適当なのでしょうか。ただ、1922(T11)年に附属小学校が南2条西15丁目に新校舎を建てて移転しているので、このようなショートカットが可能だったのかもしれません。

西線開通

戦後になって、1949(S24)年に北海道学芸大学が発足して山鼻に移転していき、1950(S25)年にはその跡地に札幌医科大学や二条小学校が開校しているので、当然師範学校や附属小学校の校舎を使用した可能性があります。また、それに合わせて西線の経路が、現在のような斜めの経路に移されています。
S25

こうしてみると、師範学校が移転してきた明治の中頃には、この辺りはまだ原っぱの中に道路が出来たばかりで、新校舎の周りにいろいろな樹木を植えたに違いありません。師範学校のすぐ町寄りには営林署があるので、それからいろんな苗木が供給された可能性もあります。それにしたって120〜130年しか経っていないのですから、あんなに巨木になるのでしょうかねぇ…教育大学には昔の写真が保管されていそうなので、それらを探していけば手かがりがつかめそうな気もします。うーーん、謎が深まるばかりです。

茨戸油田

  • 2018.03.24 Saturday
  • 05:50
前日にああいう電話をいただくと、なんとかしてあげなくてはと、やはり気になるものです。夕方までに仕事の目途が付いたので、とりあえずネットで調べてみました。この場所でポプラを植える動機として考えられるのは、農作物に対する防風植栽がありますが、近くに大規模な幹線防風林があることや、列状植栽では効果がしれているので、まずその可能性はないと思います。そうなるともう一つ可能性があるのは、かつてこの辺りにあった茨戸油田関連かな?と。

茨戸油田

ここにあるように、昭和30年代初めに採掘が開始され、わずか10数年でその役割を終えています。1971(S46)年といえば、私が札幌に住み始めた前の年なので、そんな時期まで油田があったというのにはビックリでした。さらに北側にあった石狩油田が、戦前にほぼ役目を終えていたのに対し、茨戸地区はそれと入れ替わるように採掘されていたことになります。茨戸油田については、北区のHPにそのあたりの情報が残されていました。

北区HP

茨戸油田はどのあたりで採掘されていたのか、ネット情報や古い地図で調べて見ました。国土地理院の検索システムで、これに当たる期間の地形図がないか見てみると、1972年調査の地図があり、ぎりぎり油田の位置が確認できました。するとねらい通り、この場所に油井が並んでいたのです。

1973地形図

その頃に植えれば60年経っているので、成長の早いポプラであればかなりの大木になっていることでしょう。とはいえ、この施設とポプラに関係があるのかは何とも言えません。カンカン照りの中で仕事するのが大変だから、早く日陰を作ろうと、成長の早いポプラを植えた、なんてことがあったのでしょうか?でも手がかりとしては、まだその当時の関係者がご存命でしょうから、ここから攻めていけば手がかりが得られるかもしれません。これからの予定の隙間をぬって、なんとか解明できるでしょうか。

荒井山のあゆみ

  • 2018.02.03 Saturday
  • 05:58
私が住んでいる場所は、現在の地名では宮の森となっていますが、地域名は荒井山です。その荒井山町内会が40年以上前に出版した「荒井山のあゆみ」という小冊子をようやく手に入れました。折り込まれていた昭和10年の地形図にあるように、この地域は戦前、琴似町十二軒澤と呼ばれていたのです。
明治の初め、北海道開拓を進めるために立ち上がった東本願寺は、虻田から山を越えて札幌に至る山越えの道路(現在のR230号)を開削し、「本願寺越え」道路を完成させます。一方で本府の南に布教の拠点となるお堂を建て(現在の札幌別院)、その周辺に新潟から50戸の農民を呼び寄せて開墾を始めました。これが明治4年だったので、その干支(辛未(かのとひつじ))から「辛未(しんび)一ノ村」と名付けられたのです。ところがその5年後、山鼻や琴似に屯田兵が入植することになり、せっかく開墾した場所を追われて琴似方面に強制移住させられてしまいました。その時にはまとまって移住できず、あちらに八戸、こちらに十二戸、一番まとまったところに二十四戸と、3つのグループに分散したのです。その地名が八軒、十二軒、二十四軒と仲良く連なっていたのに、荒井山周辺に秩父宮や高松宮がやって来てスキーを楽しんでいたことから、1943(S18)年に十二軒とその奥の十二軒澤を宮の森に改名したのでした。
S10年の荒井山
 (「荒井山のあゆみ」 荒井山町内会刊行、1974(S49)より、以下同)

この写真は、私が札幌に来た2年後に写されたもので、札幌オリンピックで改装された大倉山シャンツェが大きく写っています。左奥には宮の森シャンツェもあるはずですが、その間にはまだ住宅がちらほらある程度でした。赤い矢印のところに今の家がありますが、この斜面は北炭が開発して分譲したために、北炭分譲と呼ばれていました。この10年後にここに住み始めた家は、分譲にあたって建てられたモデルハウスだったのです。
全景

最初から住んでいた人は、STVやグランドホテルなど、北炭系列の会社に勤めている人が多かったのはそのためだし、家のすぐ近くに北炭の慰霊堂があるのも、そういう土地の謂われからなのです。荒井山の名前の元になった荒井氏がこの一帯の最初の所有者で、鉱泉が湧いていていた場所に円山温泉を作っていましたが、その跡地はのちに拓銀が買収し、ここに研修所が建てられました。かつて拓銀に入社した人は、ここで研修をしていた訳ですが、今はなんと宗教団体の所有地になってしまいました。聖心女学院は築55年も経っているので、かなり古めかしくなっているのかな?
施設

昔の小別沢トンネルの写真も載っていました。入り口はコンクリートだったけれど、中は手掘りのまんまだったので、とっても怖い場所だったし、市内随一の心霊スポットだったけれど、今のトンネルではお化けも出られなくなってしまいました。盤渓峠も新しく切り開かれて間もないころの写真です。この数年後にはこのあたりを仕事でうろちょろしていたけれど、まだ砂利道でひどい道路でした。
道路

この本の中に6件広告が入っていて、これがまた懐かしい。荒井山の谷底にあった山水閣は、結構賑わっていてホテルでした。かみさんも函館からサーカスを見に来た時に、家族でここに泊まったのだそう。ここを買収して宮の森中学ができたので、うちの子供たちは28丁目の向陵中学まで行く必要がなくなったのです。宮の森ガーデンは10年くらい前に閉めて、跡地に結婚式場ができると聞いていたのに、いまだに仮囲いに囲まれたまんまです。浜崎商店は、酒も置いてる雑貨屋だったけれど、早いうちからセイコーマートに変身し、いまだにがんばっています。
広告

こういう本は、買えばきりがないのだけれど、このまま埋もれさせてしまえば後世に何も伝わらなくなってしまいます。一部でもこうしてデジタルの世界に載せておけば、何かと引っかかってくれることもあるでしょう。

円山の散歩

  • 2018.01.17 Wednesday
  • 05:45
昨日の昼休み、日が差さず肌寒かったけれど、久しぶりに散歩に出かけました。天然記念物円山原始林についての原稿を書き上げたばかりだったので、山が見たくなったのです。円山墓地の手前から見上げた円山は、ほとんどが原始林(国有林)ではなく市有林です。1903(明治36)年に当時の札幌区に払い下げられたのち、不必要な(本当は売る価値のある木だと思いますが…)樹木を伐採して売却し、その収益でカラマツなどを植樹しています。丸く囲ってあるところのカラマツ林はその名残なのです。
カラマツ林

墓地の中には細い踏み分け道があり、それをたどるとかなり奥まで続いていました。上から2段目にある宮部金吾博士の墓の前まで行けたので、お参りしておきました。この奥の沢筋から頂上に抜けることができるので、冬でも登っている方がいるのでしょう。
宮部先生

そこで引き返して円山公園に入ると、鬱蒼たる針葉樹林。といっても構成樹種はヨーロッパクロマツやヨーロッパトウヒ、スギなどの外来樹種ばかり。日が当たらないせいか、雪が硬く締まって自由に歩けました。
針葉樹林

樹林から出るところに、頭の少しつぶれた樹形の木が。よく見るとカラマツの北方系近縁種であるグイマツでした。グイマツは道内には化石として見つかりますが、樺太には今も自生があります。
グイマツ

グイマツの球果はカラマツの半分くらいしかないので、下から見上げてもたいてい区別がつきます。今までグイマツは未記録だったので、雪が融けたらもう一度調べに来なくては。
グイマツの球果

ここのトイレの裏にあるカラマツも、昔調査をしていて、ヨーロッパカラマツであることが分かりました。明治時代にここにあった養樹園の名残は、結構残されているのです。
ヨーロッパカラマツ

ヨーロッパカラマツの球果はカラマツの1.5倍くらい背が高く、富丘西公園の四阿の横にも大きな木があって、びっくりさせられました。普段意外と見逃しているけれど、いろんな木があちこちに隠されているものです。
球果

相変わらず地下鉄から神宮を目指すアジア系外国人の多いこと。誰が祀られているのか知ってか知らでか、本当に不思議です。(開拓三神ならまだしも、余計なものまで祀ったので、私は絶対に行きませんが。)そんな場所がパワースポットとして御利益があるのですかねぇ。そんな人達が歩いている園路の脇には、道内で最も古いカラマツの林が。養樹園には全国各地や海外から大量のタネが持ち込まれ、たくさんの苗木が作られて全道に配布されました。北海道の林業を支えてきたカラマツですが、ここが道内のカラマツの故郷だということは、ほとんど知られていないのです。
カラマツ

札幌1957 生活篇

  • 2018.01.10 Wednesday
  • 06:00
昨日は1957(S32)年の札幌を、俯瞰しながら眺めてみましたが、今日は地上に下りて生活をじっくり見ることに。まずは丘珠のタマネギ畑です。まだこの頃は‘札幌黄’の全盛時代ですね。昨年暮れにこれを10キロいただき、現在食べていますが、料理されると品種の違いはなかなか分からないものです。30年ほど前に転職したときに、会社が伏古だったので、会社の回りがタマネギ畑だらけだったのにはびっくり。真っ赤な火山灰みたいな土なのに、こんな土で毎年タマネギばかり作っているんだと、いささかカルチャーショックを受けました。そんなことよりも、エアコンなんてまだなかったので、夏に窓を開けていると机がざらざらになって大変だったことを思い出します。この収穫風景では、頭もザスザスになったことでしょう。
タマネギ畑

私が札幌に住み始めた頃は、暖房が石炭から灯油に変わった時期かもしれません。ポット式のストーブの全盛時代でした。12年の間に7回引っ越して今のところに落ち着きましたが、石炭を焚いていたのはペチカのある一軒家に共同で住んでいたときだけ。確かに石炭運びや灰の処理など結構大変でしたが、みんな焚いていた頃は煤煙だらけですごかったことでしょう。この写真の下には、建設中のテレビ塔と、解体中の豊平館が写っていました。ハルニレはもう少し左手前でしたね。
煤煙の町

この頃の人は、雪が降っても傘を差すことはない、なんて書かれているけれど、今では男だって差しているので、危なくて仕方ありません。昔は除雪なんてそんなに入らなかったでしょうから、電車の線路をみんなが歩いて危なかったという話を聞いたことがあります。この頃は車自体が少なかったから、そんなに問題も起きなかったのでしょう。
雪融け

漬け物は、北国の風物詩としていまだに生きているでしょう。どんなに素敵な家でも、ベランダに大根がずらりと干されていると、思わずにやっとしてしまいます。家中が暖かくなりすぎて、保管するのには苦労しているようですが。
漬け物

この子たちは私と同じ歳くらいなんでしょう。ここまでは着ぶくれしていなかったけれど、似たような格好の写真が残っています。昔はセーターでも手袋でも、ばあちゃんがせっせと古毛糸で編んでくれるし、男三人兄弟の末っ子だったので、着ているものはほとんどお下がりばかり。おねだりしても買ってくれないのであきらめていましたが、そんな時代だったのかもしれません。角巻き姿のおばちゃんは四国にはいなかったけれど、昔の年寄りはたいていショールを羽織っていましたねぇ。
スキー

賑わう荒井山のスキー場。このリフトは、この前年(1956)に道内初の市民向けリフトとして開設されたものだそうです。(藻岩山は進駐軍専用だったため)子供たちが大倉小にいた頃まであり、長男はこれでスキー授業を受けることが出来たけれど、次男の時には休止していたので(2000)、スキー授業をコバランドかばんけいでやったはずです。やがて撤去されて、歴史あるリフトも姿を消してしまいました。市内各地から市電で円山にやって来て、ここまでスキーかついで上がってきていたのですね。
荒井山

藻岩からずっと西の三角山の山裾には、冬になると牧場や畑がたくさんの「ゲレンデ」として、子供達に利用されていたそうです。これを南から挙げてみると、こんな名前と縄張りがあったとか。
「新藤牧場及び水道山」伏見の浄水場あたり。山鼻小の縄張り(以下略)。
「温泉山」旧札幌温泉のあったあたり(旭山公園の南斜面)。山鼻小。
「源ちゃんスロープ」温泉山と双子山の間にあり、旭山公園造成により消滅。
          急斜面で起伏があり、上級者向きだったそう。
「双子山及び南斜面」双子山は急斜面、円山の山裾は緩斜面。幌西小。
「荒井山」最も利用された市民スキー場。もちろん円山小。
「寺口山」琴似山の手で国立病院の西側。北大生はシルバースロープと呼んでいた。
     琴似小と桑園小。

 (「札幌古地名考」 札幌原人(小川高人)著、1981より)

札幌 1957 俯瞰編

  • 2018.01.09 Tuesday
  • 05:51
昨日の朝から鼻水とくしゃみが止まらず、風邪引きかけているのでおとなしくしていました。早く帰って、7時から4時まで、9時間ぐっすり休んだらすっきり。年末年始の呑み疲れもあったのでしょう。肝臓休めてしばし静養に努めます。

背文字のない薄い本は、書棚では回りの本に埋もれて、なかなか手に取ることがなくなってしまいます。捜し物をしてして、ようやく見つけたのが岩波写真文庫『札幌 1957』という小さな冊子でした。1957(S32)年といえば、私はまだ5歳。札幌に住み始める15年前のことですが、来た年に行われた札幌オリンピックに合わせて町が大改造されているので、ずいぶん変貌している感じがします。町中でもビルがほとんどなく、大通より南には三越から丸井くらいしかないなんて…
表紙

北大構内も、左端にある農学部以外には、理学部と工学部の白亜館、北大病院くらいしか目立つ建物がなく、木造の建物がぎっしりと建っていたようです。今よりももっと込みいった感じですね。
北大構内

写真でよく見る大通1・2丁目の風景。ここにあった望楼の上から写したものでしょう。この間にはまだ北大通がなく、電話局と郵便局がどっしりと建っていました。煉瓦造と軟石造の重厚な作りなので、さぞや存在感があったことでしょう。のちに公園になったところには、市営バスのターミナルがありました。まだボンネットバスも現役のようです。この時には豊平館は既に中島に移設中で、この右側にテレビ塔が完成間近のはずです。
大通

望楼から南を向いた風景。手前の橋が創成橋で、その右の小さな建物が創成交番(正式には札幌警察署南一条巡査派出所)で、現在は開拓の村に移設保存されています。狸二条広場には、小さな鉄塔が立っていたのですね。その右のビルが大谷会館。ここにはライブやコンサートで何度通ったことか。懐かしい建物です。川に丸太を渡して桟敷を作り、サーカスをやったというのはこの辺りなんでしょうか?
  創成川

これもちょっと信じられない風景です。左にある藻岩山から石山通まで突き出しているのが軍艦岬。この辺りの豊平川のなんと雄大なことか。軍艦岬の下から流れ込んでいるのが山鼻川だけど、豊平川との間には築堤がなく、全くの自然河川状態です。下流に行くと幌平橋や豊平橋、東橋などで思い切り築堤間が狭められ、窮屈な川になってしまうのに対し、この辺りではまだまだ、広大な玉石河原(パラピウカ)が広がっていたのですね。(つづく)
豊平川

円山原始林

  • 2017.12.28 Thursday
  • 05:52
正月休み中に円山原始林について原稿を書かなければならないので、資料を確認していました。昔から文献はいろいろと収集してきたので、たいていのものはあるのですが、今一つ範囲や面積が確定できません。館脇先生が1957年に作った『圓山原始林』という小冊子には、円山全体の図面が描かれており、面積は42.95ha(國有林)とあります。
舘脇本
 (「圓山原始林」 舘脇 操著、日本林業技術協會発行、1957 より)

意外と知られていませんが、天然記念物「円山原始林」に指定されているのは、円山の国有林部分だけで、しかも市街地に面している部分はほとんどが市有林になっています。開拓以来ずっと保護されたことになっているけれど、実はどんどん手近なところの木は伐り出されて、町の発展に使われたわけです。松浦武四郎が、今の藻岩を指して‘椴(とど)木立なり’と言ったにもかかわらず、現在の藻岩・円山にトドマツは数えるほどしかありません。市街に面している部分が荒れ果ててしまったために、国は用無しとして札幌区に払い下げられたのではと思っているのです。(図中の点線で区切られている部分が国有林と市有林の境界です。)
植生区分図
 (「札幌円山の自然科学的研究」 北海道教育委員会、1958 より)
 
市の教育委員会の資料がネットで公開されていますが、(※pdfにリンクしています。)
ここには「…開拓使時代から保護され、「原始林」と呼ばれてきた。しかし、実際は原生林に近い天然林で、…」と正直に書かれています。これでは43.9haとなっているので、これは大元に聞いてみなくてはと、旭ヶ丘にある石狩森林管理所に行ってきました。いきなり押しかけたにもかかわらず、次長さんが丁寧に対応していただきましたが、森林調査簿を丹念に拾っていかなければトータル面積は分からないし、市の教育委員会で出されている数字が正しいはずですと、それでも図面を頂戴してきました。
林班図

これではっきりと天然記念物に指定されている国有林の様子がよく分かりました。
全体は30林班(りんぱん)で、「い1」などと書かれているのが小班(しょうはん)という単位になり、それぞれどのような指定状況になっているかが分かります。(鳥)は鳥獣保護区、(史)は史跡名勝天然記念物、(都)は都市計画風致地区、(道)は北海道すぐれた自然指定といった具合です。(貸)とあるのは、札幌市に自然歩道として園路部分を貸していることを言っているのでしょう。
円山原始林

もちろん天然記念物に指定されているので、本来葉っぱ1枚、ドングリ1個だって拾ってはいけません。「森林としての施業も全くできないので、ただ見守るだけなんですが、回りに住宅がびっしりと貼り付いているので、枝が落ちた、木が倒れたと、強風が吹いた時にはすぐに苦情が来るので、緊急の対応はこちらでしなければなりません。かなり費用がかかる場合もあるのに、教育委員会は全く予算がないので、後始末は全部こちら持ちだから、現実はとても大変なんですよね〜」と、次長さんは訴えておりました。札幌市民はそんなことはつゆ知らず。単なるハイキングコースくらいにしか思っておりません。函館山のように、もっと利用者教育をしっかりやらなければ、本当の価値に気付かないままになってしまうでしょう。

札幌の古き建物たち

  • 2017.12.06 Wednesday
  • 05:58
札幌建築鑑賞会という、もう30年近くも熱心な活動を続けている団体があります。最近では、「札幌軟石発掘大作戦」を各区ごとにやっていたので、ご存じの方もいるのでは。その活動の一つに「古き建物を描く会」というのがあり、その開催60回、15周年記念の作品展に行って来ました。
チラシ

場所は北翔大学北方圏学術情報センター『ポルト』です。地下鉄だと西18丁目駅と円山公園駅のちょうど真ん中あたり、南大通に面しています。私にとってはうどん屋からの帰り道なので、とても行きやすいところ。昨日は朝からずっと雪だったのに、お昼前後には青空が出てちょうどいいタイミングでした。
ポルト前

ここにはギャラリーが二つ、講義室が二つあり、以前ここでお話しをしたことがあります。学園で使用していなければ一般利用ができるし、申請者が学園のどこかの卒業生であれば、さらに安く借りられるはずです。
入り口

中に入ってびっくり。15名が計74点もの作品を出しておりました。しかもその内容がかなり濃密で、デッサン力も正確な上にバッチリ決まっており、レベルがメチャ高いのです。単なる記録程度かと思っていたので、焦ってしまいました。受付に出品目録が置かれているので、それを見比べていくと、懐かしい建物が次々と現れてきます。建物から離れて、作品として見ていっても十分に楽しめるでしょう。円山近辺に行く用事があれば、10日まで行われていますので、ぜひご覧になって下さい。
内部

八紘学園の場所の由来

  • 2017.02.09 Thursday
  • 06:01
八紘学園の敷地は、もともと吉田善太郎という人が開墾して牧場にしたところです。吉田善太郎は岩手から1871(M4)年に月寒に入植し、最初は炭焼きや畑を作り、1897(M30)年に吉田牧場をこの場所に開設しています。息子をアメリカに留学させると共に、アメリカから我が国初めてのホルスタイン種を20頭も導入し、先進的な牧場経営を始めました。その時に造った畜舎とサイロが現在も八紘学園記念館として残されています。
サイロ

1909(M42)年に建てられた別荘も、道路を挟んだ樹林の中に八紘学園栗林記念館として現存し、どちらも札幌景観資産に認定されている貴重な文化財となっています。吉田牧場は月寒から大谷地あたりまでの広大な面積を誇り、札幌の東部の開拓に多大な功績を残していることから、吉田川などあちこちに足跡が残されています。さらには、息子の善助の時代に軽種馬生産に乗り出して移転したことから、この場所を栗林元二郎に売却して八紘学園となったわけです。吉田善助の子供善哉、さらにその子供三人によって、現在の社台ファームやノーザンファームなどに発展していったのですから、この場所はまさにその原点の地でもあるのです。
記念館

栗林記念館の一帯は、普段入ることはできませんが、学園に正式に申し込めば許可が出ると思います。元二郎が集めた庭木や石が所狭しと詰め込まれていて、なかなかの見物となっているのです。この水晶なんて、庭に置くものとは違うような気がするのですが…(^^;)
大水晶

庭石もすごいものがたくさんあります。日高系の大きな石はいろんなところにありますが、ここのものは値打ちが全然違っているのです。
巨岩

この石も、今は全く出なくなった貴重なものだとか。「たまころ石」だったかなぁ?
球ころ石

現役の牛舎も由緒正しいマンサード屋根で、れんがのサイロとのコントラストが何ともいえません。昔は人力で牧草をサイロに詰め込んでサイレージを造っていたのですから、大変な手間がかかっていたのです。
牛舎

せっかくなのでハナショウブの写真も。普通のハナショウブ園は水辺に栽培しているけれど、それでは大量に作ることができないので、ここでは「丘作り」と呼んでいる畑栽培が特徴です。もともと水陸両用の植物ですが、連作障害を起こさないために土壌改良と施肥に工夫を重ね、ようやく実現させたものです。
ハナショウブ

ハナショウブが盛りを過ぎた頃にラベンダーが咲き、たくさんの品種があるヘメロカリス類がお盆まで咲き続けます。つばを付けたのは月寒ドームとその周辺の牧草地なんでしょうが、この静かな空間はいつまでも残しておきたいと思います。
ラベンダー

 (参考:「八紘学園七十周年史」  学校法人八紘学園発行、2002 など)

中島公園上空から

  • 2016.11.30 Wednesday
  • 05:56
先日の円山公園上空の写真に続いて、中島公園上空から撮された古い航空写真を紹介しましょう。円山の方は戦後まもなくの米軍によるものでは?としましたが、こちらはよく見るともっと後のもので、中島スポーツセンターが出来たのが1954(S29)年ですから、昭和30年前後のものではないかと推測しています。
中島公園全景

さっぽろ文庫84『中島公園』を見ていくと、アングルが違う別の航空写真があり(p293)、それには昭和29年とあるので、どうもそのあたりが正解なのかもしれません。この本には各年代の変遷図があり、ちょうど1954(S29)年というのが載っていたので、これを元に細部を確認してみることにしました。
絵図
(さっぽろ文庫84『中島公園』  札幌市教育委員会編、北海道新聞社、1998 より)

現在パークホテルが建っているところは、割烹西の宮の支店がまだありました。駐車場の所には中島中学も。リコーによって「ホテル三愛」が建設されたのが1964(S39)なので、この約10年後ということになります。豊水通に面して白く大きな建物があるのがNHK札幌放送局。豊平館が1957(S32)年に中島に移転した後に引っ越すわけですから、まだこの時には現役ということになります。物産展示場として建てられた拓殖館や農業館は、札幌短期大学(現在の札幌学院大学)や道立地下資源調査所として使われていた時代です。
拡大1

現在のKitaraのところにある丸いものが、なんと相撲場だというのはこの絵図で初めて知りました。このまま野外音楽堂になったのでしょうか?岡田花園の跡地の池が、市営釣堀だったというのも初耳です。岡田山も今一つ形がよく分かりません。△の所にウォータースライダーで設置されるのも、1958(S33)年に行われた北海道大博覧会の時のようです。博覧会の後、日本庭園や百花園が整備されるわけですが、まだ影も形もないようです。ただ、日本庭園のところにある方形の整形式花壇のようなものは、絵図では円形になっているし、後の百花園建設に際してこれを再現したということなんでしょうか。このあたりの整備を行った公園課の人達は、もうみなさん亡くなられてしまったので、ちゃんと聞き取っておけばよかったなぁとつくづく思います。でもこういう写真を丹念に見ていけば、いろんなことが分かるものですねぇ。
拡大2

(参考:「中島公園百年」 山崎長吉著、北海タイムス社、1988)

知事公館へ

  • 2016.11.29 Tuesday
  • 05:47
早朝のランニングは、風邪のため四日も休んでいましたが、ようやく再開。やはり朝いちでしっかり体の血液を回しておかないと、一日どよーーんとしてしまいます。昼間も籠もりっきりで全然出かけなかったので、郵便局に出かけたついでに知事公館まで歩いてきました。30日で閉園になるので、ちょうどいいタイミングでした。去年もちょうど今頃に通っていましたねぇ。
知事公館

去年歩いてないところをと、右手の管理事務所の方に歩いて行くと、あちこちに燈籠が立っていました。なんでこんな所に燈籠なんか立てたんだろう?と感覚を疑ってしまいますが、この燈籠はなんじゃい?と考え込んでしまいました。笠がひょろ長いのは蓮華寺型燈籠の特徴ですが、これはなんと四角なのです。軟石で作られているところを見ると、こちらの業者が本歌を見よう見まねでまねしたけれど、六角は面倒なので四角に手抜きしたものでしょうか。今一度こんな燈籠があるのか調べてみようと思います。
燈籠

その奥にかなり大きなイチョウがありました。一度強剪定されているけれど、そこからたくましく復活して大きく育っていました。このサイズでは珍しく、幹から大きな乳が垂れていました。赤れんが庁舎前のイチョウでもこれほど大きな乳にはなっていないので、乳が出やすい系統なのでしょうか。
イチョウ

時折日が差すものの、結構冷え込んでおり、人っ子一人構内を歩いている人はおりませんでしたが、芝生の中にある流正之さんの「サキモリ」まで行くと、たくさんの足跡がありました。観光客がやってくるのでしょうか。
サキモリ

イチイやヨーロッパクロマツ以外に、常緑の葉を持っているのがツルマサキ。ここにはほかの木に捉まって大きく枝を伸ばし、まるで木のようになって株が何本もあります。
ツルマサキ

こちらは10mくらいにもなっている大きなツルマサキですが、その隣にユリノキがありました。ユリノキの花は大きな葉の上に咲くので、歩いていてもまず気付きません。こんな所にもあったんだという木が、この時期には意外とあちこちに見つかるものです。
ユリノキ

旧伊藤邸から旧偕楽園にかけてあったヌップサムメム、植物園から流れ出していたピシクシメムは、今一つ昔の姿を偲ぶのが難しいのですが、このキムクシメムはゆったりとした地形がそのまま残されていて、一番好きなところです。つまらない石組みをすべて取り払い、元の姿に戻してあげたいといつも思ってしまいます。
キムクシメム

帰り道、気象台の裏を歩いていると、マンホールのわずかなすき間に生えていたエノコログサが、ほとんどドライフラワーになっていました。このままそっと持ち帰って飾っておきたいくらいです。
エノコログサ

円山上空から

  • 2016.11.26 Saturday
  • 05:41
資料を探してパソコンの中をあちこち覗いていたら、ある方からいただいた資料ファイルの中に、円山の上空から撮した古い航空写真がでてきました。円山競技場、庭球場、野球場が整備されているので、1935(S10)年以降であることは間違いなく、と言って戦争中にこんな写真撮せるはずもありません。どうやら円山動物園がまだで来ていないようなので、敗戦直後の写真では?という感じがします。同じような感じで中島公園の上空から撮した写真があるのですが、当時はまだ公園課すらなく、都市計画課の中に担当がいたくらいの組織なので、とても飛行機をチャーターできるはずもなさそうです。となるとこれを撮したのは、やはり米軍によるものかもしれません。
航空写真

まずパッと目に入ったのは、札幌神社の参道の正面にある神社山が、こちら側を除いてほとんどはげ山になっていることでした。私の家から正面に見える西斜面には、それでもぽつぽつと植林していることが分かります。今でも葉が落ちてしまうと、山頂に向かってジグザクと上っている道跡が見えるのは、この時の作業道だったのですね。調べてみると、1910(M43)年に盤之沢(現在の円山西町)から出火した山火事によって、十二軒沢、小別沢、盤渓にかけて焼き尽くす大火事になったのだそうです。この時神社山にも延焼したけれど、風向きが変わって北斜面だけが焼け残ったとありました。ここにはカツラの巨木も何本か残っていることが調べられており、円山原始林以外で手つかずの自然が残されている、貴重な樹林ということになります。(赤丸が現在のセイコーマートになります。)
神社山

私の家は、下の写真のちょうど赤丸の所に建っています。この辺りはずっと農地だったものを、昭和40年代頃に北炭が買収して住宅地として分譲したそうで、今はマンションになっていますが、北炭のアパートも建っていました。ここに引っ越した30年ほど前に、タクシーに乗って宮の森2条17丁目と言ったら、そんな所があるのかい?と怪訝そうな顔をされて、とことこ上っていくと、こんなところまで宮の森かい?ここは北炭分譲というんだわ!と言われたことがありました。こんなのどかなところだったのですね。写真中央の右側には、荒井山市民スキー場が広がっているけれど、こんな狭いゲレンデにひしめいて滑っていたのですねぇ。
十二軒沢

表参道は、第二鳥居を通り過ぎて、そのまま競技場の方に上がって行きます。右に伸びる矢印の位置に現在の北1条宮の沢通が出来たのは、札幌オリンピック関連の道路整備に合わせてのはずです。その時は西高のところを通る山麓通までで、西野の方まで繋がったのはそれからずいぶん経ってからでした。こんな馬鹿でかい道路がいるのかい?と思ったほど、だだっ広い空き地が伸びていたのを覚えています。
神宮前
下に伸びる青い矢印のところには、2mほどの小さな崖が今でも切れ切れに残っており、昔は小さな川があった名残です。赤い○はユニークな品を置いてあるので知られている杉原商店で、戦後まもなくの創業なのでちょうど店が出来た頃でしょうか。神宮前は今では高級住宅地になりましたが、道路がメチャクチャ狭いのは、基盤が農地のまんまに住宅が建っていった結果だということがよく分かります。

東皐園

  • 2016.11.18 Friday
  • 06:02
上島(かみじま)正は、信州諏訪郡湖南村の生まれで、信州の名家の出であるという。旧習になずむ郷里の生活に飽き足らず、大阪や東京に出て様々な技術を身に付けるが、「かの北海道のことを聞きしより、北海道に心しばられ」明治10年単身横浜から北海道行きの船に乗って札幌にやって来ます。当初は造田する場所を探していたため、月寒の一角に試験的に水稲を栽培して見事な成績を納め、翌年札幌の町の北郊に一万坪の土地の貸し付けを受けました。妻子を呼び寄せて開墾を始めましたが、東京を発つ時に何かの手慰めにと、堀切村の花屋から花菖蒲の苗170株を持ってきて植えておいたところ、活着して見事な花を咲かせたのです。
由来
 (「花翁、咲き誇る私邸を公開」 荒井宏明著、季刊札幌人、2004 より)

しかし、ただ東京からもってきた花が咲いているだけでは面白くない、自分の手で新しい花を咲かせたいと、交配を始めたところ全然うまく行かない… その時に、開拓使の御雇い外国人で、植物培養方であったルイス・ベーマーが花を見に来た時に、そっと交配のしくみを教えたのだそうです。その結果、新しい品種が次々と出来るようになり、水田のことより花菖蒲の育種に夢中になっていきます。この頃には偕楽園はあったものの、中島遊園地もまだなく、人びとはここの花菖蒲を見に次々と訪れるようになりました。すっかりフラワーパークになってしまい、それで生計を立てることになってしまったのです。
(なお、明治14年に明治天皇の北海道巡幸に際しては、お休み所として偕楽園に清華亭を、宿泊のためには豊平館を建設し、その庭園をルイス・ベーマーが手がけましたが、その助手として上島正が参加しています。また、ベーマーが開拓使の契約を満了して、横浜に日本の優れた花を輸出する会社を設立しますが、上島の育種した花菖蒲が大量に輸出されたそうです。ベーマーが体調を崩してアメリカに帰ったあと、その会社を引き継いだのが、現在の横浜植木です。)
花菖蒲園
 (「花翁、咲き誇る私邸を公開」 荒井宏明著、季刊札幌人、2004 より)

このあたりを字東耕といったので、初めは「東耕園」としていましたが、皐月(五月)の皐という字が、水辺や沢地、気の澄みわたる所という意味を持つことから、「東皐園(とうこうえん)」と改めました。この場所には諏訪神社があり、これも信濃からもたらされた分霊を上島が祭ったものだそうです。今は全く影も形もありませんが、子や孫によって引き継がれて、終戦までやっていました。
大正期の姿

昭和3年の住宅地図で見てみると、ちょうどここが当時の札幌市の、北の外れになっていました。現在の地図と重ねると、ほぼぴったりその位置が特定できます。敷地の中にある斜めの区画によって、現在の建物も影響を受けていました。上島の子孫は、現在新琴似に移られたそうで、ここには何も名残は残っておりませんが、北隣の諏訪神社、東隣のカトリック教会は、当時のままの姿を留めているのでしょう。
今昔

東隣にある天使病院や修道院には、外国から渡ってきたたくさんの修道女が生活していました。彼女らの唯一の楽しみがこの花園を散歩することであり、「少女のようにはしゃいでいる童貞さま(カトリック修道女)たちの姿がはっきりと記憶に残っている。」と、正の孫の手記にあるとのこと。家族が病んだ時には、天使病院に入院して特別やさしい看護を受け、正もあたたかい看取りの中に83歳の生涯を閉じたととあります。

そんな天使病院に入院していた孫2号は、ちょうど一ヶ月目の今日退院できることに。手厚い看護はさすが天使病院と、昨日最後の面会に行ってお礼を述べてきました。そんな日にこれを書いているのも、なんだか不思議な縁を感じてしまいます。

参考・引用
 ・「札幌百年の人びと」  札幌市史編さん委員会編、札幌市、1968
 ・「東区今昔」  札幌市東区総務部総務課、1979
 ・「花翁、咲き誇る私邸を公開」 荒井宏明著、季刊札幌人、2004

古い住宅地図

  • 2016.11.17 Thursday
  • 05:58
手元に札幌の古い住宅地図があります。駅前通整備の時に知り合った、昔から駅前で商店を営んできた方が持っていたもので、お願いしてコピーさせていただきました。昭和三年(1928)の発行なので、その当時の札幌の町並みなどを調べるのに、とても役に立つのです。
  札幌案内圖

表紙の一番下には、札幌駅から発着する国鉄の列車の時刻表と、豊平駅から発着する定山渓鉄道が載っています。国鉄の上りは大半が小樽や手宮行きで、函館行きが5本、その他に余市、黒松内行きが1本ずつあります。これに対して下りの方は本数が少なく、稚内、釧路、網走、滝川、音威子府、岩見沢、旭川など、全道各地に散らばっています。根室稚内というのは、滝川で連結が分かれて、それぞれの目的地に向かうのでしょうか?
定山渓鉄道の方は、上り下りが4本ずつと、ちょっとびっくりな本数でした。途中の乗り降りはあまり関係なく、あくまで湯治客の輸送ということであれば、このくらいでもよかったのでしょう。
時刻表

その先頭には、札幌市の案内が簡潔に印されており、市の沿革の次に遊覧地案内がありました。中島公園、円山公園、そして植物園が来て、最後が大通になっていて、当時の市民の認識度がよく分かります。大通が公園になったのは1980(S55)年なので、まだこの頃は逍遙地といっていた時代でした。
札幌案内

地図の前に、主な官公署や銀行、商店などが、電話番号と住所とともにずらりと索引になっており、当時どんな商店があったのかよく分かって面白いのです。職業の中には売炭所や見番など、時代を映すものがあって面白く、その中でやはり緑・花に関係するものを探してみると二つありました。一つが「種物並びに農園芸」で、もう一つが「花園庭園業」となっています。「種物並びに農園芸」の方は、より農業に近い種苗店で、五番館デパートを作った札幌興農園を筆頭に、たくさんの種苗店があったことが分かります。今も残っているのは、札幌農園と原育種園くらいでしょうか。
種物・園芸

もう一つの「花園庭園業」は、今でいう園芸・造園業で、歴史のある東皐園(とうこうえん)、中島公園にあった岡田花園で修行したのち独立した横山花園(現在は発寒にある横山造園)と、今は円山クラスになった場所にあった小林鉄太郎(現在は北の沢にある小林集楽園)に目が行きます。豊平公園緑のセンターの売店を開館以来ずっとやっており、昔から大変お世話になってきた豊平神社前の高波隆花園もちゃんと載っていました。
花園庭園

東皐園は、石狩街道の東側、諏訪神社の北側にあったフラワーパークで、信州から来た上島正(かみしま ただし)が独力で造りあげたものです。まだこの時代でも残っていたのかと、ちょっとびっくりでした。まだこれを紹介していなかったようなので、乞うご期待。
上島正
  (「東区今昔」  札幌市東区役所総務部総務課発行、1979 より)

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