札幌の古き建物たち

  • 2017.12.06 Wednesday
  • 05:58
札幌建築鑑賞会という、もう30年近くも熱心な活動を続けている団体があります。最近では、「札幌軟石発掘大作戦」を各区ごとにやっていたので、ご存じの方もいるのでは。その活動の一つに「古き建物を描く会」というのがあり、その開催60回、15周年記念の作品展に行って来ました。
チラシ

場所は北翔大学北方圏学術情報センター『ポルト』です。地下鉄だと西18丁目駅と円山公園駅のちょうど真ん中あたり、南大通に面しています。私にとってはうどん屋からの帰り道なので、とても行きやすいところ。昨日は朝からずっと雪だったのに、お昼前後には青空が出てちょうどいいタイミングでした。
ポルト前

ここにはギャラリーが二つ、講義室が二つあり、以前ここでお話しをしたことがあります。学園で使用していなければ一般利用ができるし、申請者が学園のどこかの卒業生であれば、さらに安く借りられるはずです。
入り口

中に入ってびっくり。15名が計74点もの作品を出しておりました。しかもその内容がかなり濃密で、デッサン力も正確な上にバッチリ決まっており、レベルがメチャ高いのです。単なる記録程度かと思っていたので、焦ってしまいました。受付に出品目録が置かれているので、それを見比べていくと、懐かしい建物が次々と現れてきます。建物から離れて、作品として見ていっても十分に楽しめるでしょう。円山近辺に行く用事があれば、10日まで行われていますので、ぜひご覧になって下さい。
内部

八紘学園の場所の由来

  • 2017.02.09 Thursday
  • 06:01
八紘学園の敷地は、もともと吉田善太郎という人が開墾して牧場にしたところです。吉田善太郎は岩手から1871(M4)年に月寒に入植し、最初は炭焼きや畑を作り、1897(M30)年に吉田牧場をこの場所に開設しています。息子をアメリカに留学させると共に、アメリカから我が国初めてのホルスタイン種を20頭も導入し、先進的な牧場経営を始めました。その時に造った畜舎とサイロが現在も八紘学園記念館として残されています。
サイロ

1909(M42)年に建てられた別荘も、道路を挟んだ樹林の中に八紘学園栗林記念館として現存し、どちらも札幌景観資産に認定されている貴重な文化財となっています。吉田牧場は月寒から大谷地あたりまでの広大な面積を誇り、札幌の東部の開拓に多大な功績を残していることから、吉田川などあちこちに足跡が残されています。さらには、息子の善助の時代に軽種馬生産に乗り出して移転したことから、この場所を栗林元二郎に売却して八紘学園となったわけです。吉田善助の子供善哉、さらにその子供三人によって、現在の社台ファームやノーザンファームなどに発展していったのですから、この場所はまさにその原点の地でもあるのです。
記念館

栗林記念館の一帯は、普段入ることはできませんが、学園に正式に申し込めば許可が出ると思います。元二郎が集めた庭木や石が所狭しと詰め込まれていて、なかなかの見物となっているのです。この水晶なんて、庭に置くものとは違うような気がするのですが…(^^;)
大水晶

庭石もすごいものがたくさんあります。日高系の大きな石はいろんなところにありますが、ここのものは値打ちが全然違っているのです。
巨岩

この石も、今は全く出なくなった貴重なものだとか。「たまころ石」だったかなぁ?
球ころ石

現役の牛舎も由緒正しいマンサード屋根で、れんがのサイロとのコントラストが何ともいえません。昔は人力で牧草をサイロに詰め込んでサイレージを造っていたのですから、大変な手間がかかっていたのです。
牛舎

せっかくなのでハナショウブの写真も。普通のハナショウブ園は水辺に栽培しているけれど、それでは大量に作ることができないので、ここでは「丘作り」と呼んでいる畑栽培が特徴です。もともと水陸両用の植物ですが、連作障害を起こさないために土壌改良と施肥に工夫を重ね、ようやく実現させたものです。
ハナショウブ

ハナショウブが盛りを過ぎた頃にラベンダーが咲き、たくさんの品種があるヘメロカリス類がお盆まで咲き続けます。つばを付けたのは月寒ドームとその周辺の牧草地なんでしょうが、この静かな空間はいつまでも残しておきたいと思います。
ラベンダー

 (参考:「八紘学園七十周年史」  学校法人八紘学園発行、2002 など)

中島公園上空から

  • 2016.11.30 Wednesday
  • 05:56
先日の円山公園上空の写真に続いて、中島公園上空から撮された古い航空写真を紹介しましょう。円山の方は戦後まもなくの米軍によるものでは?としましたが、こちらはよく見るともっと後のもので、中島スポーツセンターが出来たのが1954(S29)年ですから、昭和30年前後のものではないかと推測しています。
中島公園全景

さっぽろ文庫84『中島公園』を見ていくと、アングルが違う別の航空写真があり(p293)、それには昭和29年とあるので、どうもそのあたりが正解なのかもしれません。この本には各年代の変遷図があり、ちょうど1954(S29)年というのが載っていたので、これを元に細部を確認してみることにしました。
絵図
(さっぽろ文庫84『中島公園』  札幌市教育委員会編、北海道新聞社、1998 より)

現在パークホテルが建っているところは、割烹西の宮の支店がまだありました。駐車場の所には中島中学も。リコーによって「ホテル三愛」が建設されたのが1964(S39)なので、この約10年後ということになります。豊水通に面して白く大きな建物があるのがNHK札幌放送局。豊平館が1957(S32)年に中島に移転した後に引っ越すわけですから、まだこの時には現役ということになります。物産展示場として建てられた拓殖館や農業館は、札幌短期大学(現在の札幌学院大学)や道立地下資源調査所として使われていた時代です。
拡大1

現在のKitaraのところにある丸いものが、なんと相撲場だというのはこの絵図で初めて知りました。このまま野外音楽堂になったのでしょうか?岡田花園の跡地の池が、市営釣堀だったというのも初耳です。岡田山も今一つ形がよく分かりません。△の所にウォータースライダーで設置されるのも、1958(S33)年に行われた北海道大博覧会の時のようです。博覧会の後、日本庭園や百花園が整備されるわけですが、まだ影も形もないようです。ただ、日本庭園のところにある方形の整形式花壇のようなものは、絵図では円形になっているし、後の百花園建設に際してこれを再現したということなんでしょうか。このあたりの整備を行った公園課の人達は、もうみなさん亡くなられてしまったので、ちゃんと聞き取っておけばよかったなぁとつくづく思います。でもこういう写真を丹念に見ていけば、いろんなことが分かるものですねぇ。
拡大2

(参考:「中島公園百年」 山崎長吉著、北海タイムス社、1988)

知事公館へ

  • 2016.11.29 Tuesday
  • 05:47
早朝のランニングは、風邪のため四日も休んでいましたが、ようやく再開。やはり朝いちでしっかり体の血液を回しておかないと、一日どよーーんとしてしまいます。昼間も籠もりっきりで全然出かけなかったので、郵便局に出かけたついでに知事公館まで歩いてきました。30日で閉園になるので、ちょうどいいタイミングでした。去年もちょうど今頃に通っていましたねぇ。
知事公館

去年歩いてないところをと、右手の管理事務所の方に歩いて行くと、あちこちに燈籠が立っていました。なんでこんな所に燈籠なんか立てたんだろう?と感覚を疑ってしまいますが、この燈籠はなんじゃい?と考え込んでしまいました。笠がひょろ長いのは蓮華寺型燈籠の特徴ですが、これはなんと四角なのです。軟石で作られているところを見ると、こちらの業者が本歌を見よう見まねでまねしたけれど、六角は面倒なので四角に手抜きしたものでしょうか。今一度こんな燈籠があるのか調べてみようと思います。
燈籠

その奥にかなり大きなイチョウがありました。一度強剪定されているけれど、そこからたくましく復活して大きく育っていました。このサイズでは珍しく、幹から大きな乳が垂れていました。赤れんが庁舎前のイチョウでもこれほど大きな乳にはなっていないので、乳が出やすい系統なのでしょうか。
イチョウ

時折日が差すものの、結構冷え込んでおり、人っ子一人構内を歩いている人はおりませんでしたが、芝生の中にある流正之さんの「サキモリ」まで行くと、たくさんの足跡がありました。観光客がやってくるのでしょうか。
サキモリ

イチイやヨーロッパクロマツ以外に、常緑の葉を持っているのがツルマサキ。ここにはほかの木に捉まって大きく枝を伸ばし、まるで木のようになって株が何本もあります。
ツルマサキ

こちらは10mくらいにもなっている大きなツルマサキですが、その隣にユリノキがありました。ユリノキの花は大きな葉の上に咲くので、歩いていてもまず気付きません。こんな所にもあったんだという木が、この時期には意外とあちこちに見つかるものです。
ユリノキ

旧伊藤邸から旧偕楽園にかけてあったヌップサムメム、植物園から流れ出していたピシクシメムは、今一つ昔の姿を偲ぶのが難しいのですが、このキムクシメムはゆったりとした地形がそのまま残されていて、一番好きなところです。つまらない石組みをすべて取り払い、元の姿に戻してあげたいといつも思ってしまいます。
キムクシメム

帰り道、気象台の裏を歩いていると、マンホールのわずかなすき間に生えていたエノコログサが、ほとんどドライフラワーになっていました。このままそっと持ち帰って飾っておきたいくらいです。
エノコログサ

円山上空から

  • 2016.11.26 Saturday
  • 05:41
資料を探してパソコンの中をあちこち覗いていたら、ある方からいただいた資料ファイルの中に、円山の上空から撮した古い航空写真がでてきました。円山競技場、庭球場、野球場が整備されているので、1935(S10)年以降であることは間違いなく、と言って戦争中にこんな写真撮せるはずもありません。どうやら円山動物園がまだで来ていないようなので、敗戦直後の写真では?という感じがします。同じような感じで中島公園の上空から撮した写真があるのですが、当時はまだ公園課すらなく、都市計画課の中に担当がいたくらいの組織なので、とても飛行機をチャーターできるはずもなさそうです。となるとこれを撮したのは、やはり米軍によるものかもしれません。
航空写真

まずパッと目に入ったのは、札幌神社の参道の正面にある神社山が、こちら側を除いてほとんどはげ山になっていることでした。私の家から正面に見える西斜面には、それでもぽつぽつと植林していることが分かります。今でも葉が落ちてしまうと、山頂に向かってジグザクと上っている道跡が見えるのは、この時の作業道だったのですね。調べてみると、1910(M43)年に盤之沢(現在の円山西町)から出火した山火事によって、十二軒沢、小別沢、盤渓にかけて焼き尽くす大火事になったのだそうです。この時神社山にも延焼したけれど、風向きが変わって北斜面だけが焼け残ったとありました。ここにはカツラの巨木も何本か残っていることが調べられており、円山原始林以外で手つかずの自然が残されている、貴重な樹林ということになります。(赤丸が現在のセイコーマートになります。)
神社山

私の家は、下の写真のちょうど赤丸の所に建っています。この辺りはずっと農地だったものを、昭和40年代頃に北炭が買収して住宅地として分譲したそうで、今はマンションになっていますが、北炭のアパートも建っていました。ここに引っ越した30年ほど前に、タクシーに乗って宮の森2条17丁目と言ったら、そんな所があるのかい?と怪訝そうな顔をされて、とことこ上っていくと、こんなところまで宮の森かい?ここは北炭分譲というんだわ!と言われたことがありました。こんなのどかなところだったのですね。写真中央の右側には、荒井山市民スキー場が広がっているけれど、こんな狭いゲレンデにひしめいて滑っていたのですねぇ。
十二軒沢

表参道は、第二鳥居を通り過ぎて、そのまま競技場の方に上がって行きます。右に伸びる矢印の位置に現在の北1条宮の沢通が出来たのは、札幌オリンピック関連の道路整備に合わせてのはずです。その時は西高のところを通る山麓通までで、西野の方まで繋がったのはそれからずいぶん経ってからでした。こんな馬鹿でかい道路がいるのかい?と思ったほど、だだっ広い空き地が伸びていたのを覚えています。
神宮前
下に伸びる青い矢印のところには、2mほどの小さな崖が今でも切れ切れに残っており、昔は小さな川があった名残です。赤い○はユニークな品を置いてあるので知られている杉原商店で、戦後まもなくの創業なのでちょうど店が出来た頃でしょうか。神宮前は今では高級住宅地になりましたが、道路がメチャクチャ狭いのは、基盤が農地のまんまに住宅が建っていった結果だということがよく分かります。

東皐園

  • 2016.11.18 Friday
  • 06:02
上島(かみしま)正は、信州諏訪郡湖南村の生まれで、信州の名家の出であるという。旧習になずむ郷里の生活に飽き足らず、大阪や東京に出て様々な技術を身に付けるが、「かの北海道のことを聞きしより、北海道に心しばられ」明治10年単身横浜から北海道行きの船に乗って札幌にやって来ます。当初は造田する場所を探していたため、月寒の一角に試験的に水稲を栽培して見事な成績を納め、翌年札幌の町の北郊に一万坪の土地の貸し付けを受けました。妻子を呼び寄せて開墾を始めましたが、東京を発つ時に何かの手慰めにと、堀切村の花屋から花菖蒲の苗170株を持ってきて植えておいたところ、活着して見事な花を咲かせたのです。
由来
 (「花翁、咲き誇る私邸を公開」 荒井宏明著、季刊札幌人、2004 より)

しかし、ただ東京からもってきた花が咲いているだけでは面白くない、自分の手で新しい花を咲かせたいと、交配を始めたところ全然うまく行かない… その時に、開拓使の御雇い外国人で、植物培養方であったルイス・ベーマーが花を見に来た時に、そっと交配のしくみを教えたのだそうです。その結果、新しい品種が次々と出来るようになり、水田のことより花菖蒲の育種に夢中になっていきます。この頃には偕楽園はあったものの、中島遊園地もまだなく、人びとはここの花菖蒲を見に次々と訪れるようになりました。すっかりフラワーパークになってしまい、それで生計を立てることになってしまったのです。
(なお、明治14年に明治天皇の北海道巡幸に際しては、お休み所として偕楽園に清華亭を、宿泊のためには豊平館を建設し、その庭園をルイス・ベーマーが手がけましたが、その助手として上島正が参加しています。また、ベーマーが開拓使の契約を満了して、横浜に日本の優れた花を輸出する会社を設立しますが、上島の育種した花菖蒲が大量に輸出されたそうです。ベーマーが体調を崩してアメリカに帰ったあと、その会社を引き継いだのが、現在の横浜植木です。)
花菖蒲園
 (「花翁、咲き誇る私邸を公開」 荒井宏明著、季刊札幌人、2004 より)

このあたりを字東耕といったので、初めは「東耕園」としていましたが、皐月(五月)の皐という字が、水辺や沢地、気の澄みわたる所という意味を持つことから、「東皐園(とうこうえん)」と改めました。この場所には諏訪神社があり、これも信濃からもたらされた分霊を上島が祭ったものだそうです。今は全く影も形もありませんが、子や孫によって引き継がれて、終戦までやっていました。
大正期の姿

昭和3年の住宅地図で見てみると、ちょうどここが当時の札幌市の、北の外れになっていました。現在の地図と重ねると、ほぼぴったりその位置が特定できます。敷地の中にある斜めの区画によって、現在の建物も影響を受けていました。上島の子孫は、現在新琴似に移られたそうで、ここには何も名残は残っておりませんが、北隣の諏訪神社、東隣のカトリック教会は、当時のままの姿を留めているのでしょう。
今昔

東隣にある天使病院や修道院には、外国から渡ってきたたくさんの修道女が生活していました。彼女らの唯一の楽しみがこの花園を散歩することであり、「少女のようにはしゃいでいる童貞さま(カトリック修道女)たちの姿がはっきりと記憶に残っている。」と、正の孫の手記にあるとのこと。家族が病んだ時には、天使病院に入院して特別やさしい看護を受け、正もあたたかい看取りの中に83歳の生涯を閉じたととあります。

そんな天使病院に入院していた孫2号は、ちょうど一ヶ月目の今日退院できることに。手厚い看護はさすが天使病院と、昨日最後の面会に行ってお礼を述べてきました。そんな日にこれを書いているのも、なんだか不思議な縁を感じてしまいます。

参考・引用
 ・「札幌百年の人びと」  札幌市史編さん委員会編、札幌市、1968
 ・「東区今昔」  札幌市東区総務部総務課、1979
 ・「花翁、咲き誇る私邸を公開」 荒井宏明著、季刊札幌人、2004

古い住宅地図

  • 2016.11.17 Thursday
  • 05:58
手元に札幌の古い住宅地図があります。駅前通整備の時に知り合った、昔から駅前で商店を営んできた方が持っていたもので、お願いしてコピーさせていただきました。昭和三年(1928)の発行なので、その当時の札幌の町並みなどを調べるのに、とても役に立つのです。
  札幌案内圖

表紙の一番下には、札幌駅から発着する国鉄の列車の時刻表と、豊平駅から発着する定山渓鉄道が載っています。国鉄の上りは大半が小樽や手宮行きで、函館行きが5本、その他に余市、黒松内行きが1本ずつあります。これに対して下りの方は本数が少なく、稚内、釧路、網走、滝川、音威子府、岩見沢、旭川など、全道各地に散らばっています。根室稚内というのは、滝川で連結が分かれて、それぞれの目的地に向かうのでしょうか?
定山渓鉄道の方は、上り下りが4本ずつと、ちょっとびっくりな本数でした。途中の乗り降りはあまり関係なく、あくまで湯治客の輸送ということであれば、このくらいでもよかったのでしょう。
時刻表

その先頭には、札幌市の案内が簡潔に印されており、市の沿革の次に遊覧地案内がありました。中島公園、円山公園、そして植物園が来て、最後が大通になっていて、当時の市民の認識度がよく分かります。大通が公園になったのは1980(S55)年なので、まだこの頃は逍遙地といっていた時代でした。
札幌案内

地図の前に、主な官公署や銀行、商店などが、電話番号と住所とともにずらりと索引になっており、当時どんな商店があったのかよく分かって面白いのです。職業の中には売炭所や見番など、時代を映すものがあって面白く、その中でやはり緑・花に関係するものを探してみると二つありました。一つが「種物並びに農園芸」で、もう一つが「花園庭園業」となっています。「種物並びに農園芸」の方は、より農業に近い種苗店で、五番館デパートを作った札幌興農園を筆頭に、たくさんの種苗店があったことが分かります。今も残っているのは、札幌農園と原育種園くらいでしょうか。
種物・園芸

もう一つの「花園庭園業」は、今でいう園芸・造園業で、歴史のある東皐園(とうこうえん)、中島公園にあった岡田花園で修行したのち独立した横山花園(現在は発寒にある横山造園)と、今は円山クラスになった場所にあった小林鉄太郎(現在は北の沢にある小林集楽園)に目が行きます。豊平公園緑のセンターの売店を開館以来ずっとやっており、昔から大変お世話になってきた豊平神社前の高波隆花園もちゃんと載っていました。
花園庭園

東皐園は、石狩街道の東側、諏訪神社の北側にあったフラワーパークで、信州から来た上島正(かみしま ただし)が独力で造りあげたものです。まだこの時代でも残っていたのかと、ちょっとびっくりでした。まだこれを紹介していなかったようなので、乞うご期待。
上島正
  (「東区今昔」  札幌市東区役所総務部総務課発行、1979 より)

イロハモミジ

  • 2016.11.15 Tuesday
  • 05:56
山鼻地区は、屯田兵によって開かれた町で、今も東西の屯田通などの名残を残しています。山鼻屯田兵村は、1874(M7)年の琴似屯田兵村に続き、2番目の兵村として1875(M8)年から翌年にかけて開設されたものです。その本部が置かれたのが今の山鼻公園の周辺で、このあたりに小学校や役場などが集まっていました。1881(M14)年9月1日には、開拓の進捗状況を視察に来た明治天皇が、真駒内牧場見学ののち石山通を通って山鼻小学校で休息しています。それを記念した「明治天皇御駐蹕(ひつ)之碑」という碑石が石山通交差点付近に立っています。
明治天皇

この時明治天皇が、校庭の向こうにある大木を指して、この木はなんの木か?と聞かれたので、以来この木は『お声掛かりの槲(かしわ)』と呼ばれ、大切に守られていました。
お声掛かりの槲
  (『さっぽろ山鼻百年』 山鼻百年記念誌編纂委員会編、さろるん書房、1977 より)

私が札幌に来たのは1972(S47)年ですが、初め半年は大学の目の前の下宿に住んでいたものの、何かと煩わしさがつのって、学生などほとんど住んでいない東屯田通の安アパートに引っ越しました。まだあたりの道はすべて未舗装の砂利道で、すぐ近くには新通市場があり、下町の賑わいを感じるようなところでした。その時に実はこの木に出会っていたのです。もちろんその時にはそんな由来は知る由もなく、でも道路にはみ出て立っている大木にびっくりしました。ちょうどこんな位置に立っていたのです。
行啓通

その後のちの大正天皇が皇太子時代にもここを通ったことから、この道を行啓道路とか行啓通と呼ぶようになりました。その道路にはみ出て立っていた老大木は、私が見た4年後の1976(S51)10月15日に惜しまれながら伐採されたとあるので、少しでも記憶に残っていることは幸いです。
今回確認に行ったのはカシワの木ではなく、ここに植えられているイロハモミジの並木のことでした。いつも通って見ている割には詳しく調べたこともなく、調べても由来などが出てこないので、あらためて現地確認に行って来ました。
イロハモミジ並木

イロハモミジは、道内にも自生のあるヤマモミジより葉が小さく、枝振りも細やかなことから庭木として用いられることの多い木です。月寒公園の中にもまとまって植えられていますが、札幌周辺でもそれほど植えられていることはありません。
イロハモミジ

ここに立っている看板によると、1915(T4)年に京都嵐山から取り寄せた苗木とのことなので、筋金入りの銘木の子孫ということになります。
看板

植えられてからちょうど百年経ち、かなり老木化していますが、回りの木がすっかり寂しくなる頃まで美しい紅葉を付けています。でもこの行啓通はいずれ拡幅されることになっており、はたしてこの木が今のように安泰とは言えなくなるおそれがあります。なので、しっかりと由来を検証し、その価値を記録しておく必要があるのです。

一日じっとり…

  • 2016.07.31 Sunday
  • 06:09
昨日の武市さん、ベニシアさん相手にどこか緊張顔。少年のような顔が微笑ましかったです〜
それにしても蒸し蒸しと湿度が高いです。夏らしい日があるのはいいけれど、せめて夜だけでも涼しくなってくれないかな。

昨日はまず北大へ。どんなに忙しくても、体が空いていれば圃場整備には出かけます。30℃の予報ではありましたが、いつものメンバーがいつも通り参加して、黙々と作業をこなしてくれました。
サンクン

前回出られなかった学生さんも一人参加してくれたので、手分けして作業をお願いし、私はつるバラの整理を。ドロシーパーキンスの枝の整理は、他の人にお願いできないので、あちこち刺されながらなんとか整理ができました。
アーチ

午後からは私が主宰する研究会の夏季研修会。もうまもなく30年を迎えようとしている研究会なのに、設立当初のメンバーが5名も集まりました。毎年いろんな場所に行っており、今回は中島公園の穴場巡り。緑関係の方がほとんどですが、意外と知られていない札幌の歴史も見ていただこうと企画しました。まずは幌平橋駅から護国神社にかけて、札幌の原風景が偲ばれる場所です。これだけのヤナギが残っているのも珍しいでしょう。
ヤナギ

彌彦神社(伊夜日子と書くのは「読み」を漢字にしたもの)の脇にある株立の大ケヤキと、隣に誰が植えたものか分からない、ホウキ立ち品種の‘むさしの1号’。こういうものを見ると、このメンバーは大盛り上がりになってしまいます。
ケヤキ

メンバーが誰も知らなかった木下成太郎(しげたろう)像。これは誰しも驚く存在です。一度しっかり見ていただきたいです。
木下成太郎像

ツアーの最後はパークホテルの中庭。ここがホテル三愛として建てられた時、私の恩師である明道先生をトップにこのデザインを検討する研究会が作られ、藻岩山と中島公園を借景にして作られた滝のラインが本当に美しい庭園です。これもみなさん初めて見た方ばかりでした。公園との連絡通路脇に出入り口があり、いつでも観覧できるようになっています。
パークホテル

ここで一応解散し、夜の部の参加者は道路を渡ってビール園に向かうのですが、ここのところにある緑地帯のような三角形の空間は、「南10条西2丁目」という市内では最も小さな「町」で、1,400屬里Δ疎臧分は道路が占めており、緑地帯になっている部分はわずか300屬靴ありません。ここにはかつて木下成太郎の家があり、父である木下彌八郎の顕彰碑がポツンと建っています。
南10西2

私は一人3時間しゃべり続けたので、完全にパンク状態。冷えたピールがとっても美味しかったです♪この夏一番の暑さになったので、ビール園内は大賑わい。大通も賑わったことでしょう。暑い中みなさんお疲れ様でした〜
ジンギスカン

カッター先生の水飲み場

  • 2016.02.23 Tuesday
  • 06:00
紺野さんの出された「札幌農学校遊戯会・チャチャニレの木」という冊子からは、もう一つ発見がありました。チャチャニレの下に水飲み場があったことは、他の記事でも知っていたのですが、これも「カッター先生の水飲み場」だということを初めて知ったのです。
カッター先生 水飲み台
 (「札幌農学校遊戯会・チャチャニレの木」紺野哲郎氏私家本、2008 より)
これによると、札幌の水道事業が完成した翌年の1937(S13)年に、道の林務部の技師であったH氏が市長にかけ合って設置したもので、余った水がハルニレの足元に供給されるように作っていたとのこと。その翌年に完成した聖恩碑の水飲み場と共に、「カッター先生の水飲み場」として作られたことが、札幌水道局50年誌に書かれていることを突き止められました。

ジョン・C・カッター(John Clarence Cutter)は、マサチューセッツ農科大学を卒業後さらにハーバード大学医学部で学んだ医師でもあり、札幌農学校では生理学、比較解剖学、英文学を担当することになっていましたが、このほか動物学、獣医学、水産学、心理学、さらには経済学、近世史、地理学に至るまで担当するという多才ぶりを発揮して、内村や新渡戸を初めてする生徒たちに多大の影響を与えた教師だったようです。10年近く教鞭を取られ、札幌の町をこよなく愛していたようで、病のため1910(M43)年に亡くなられた時の遺言では、「元の農学校付近に公共水飲み場を設置して、飲料水を供給すること」という条件のもと、1,025円19銭を札幌区に寄付していました。

大通公園西5丁目には、聖恩碑という巨大な石碑が立っています。これは1935(S11)年に行われた陸軍大演習の際に、昭和天皇が行幸されたことを記念し、碑文に『聖恩無彊』とあるように、明治以来三代の天皇の業績を称えて建てられたものです。この時に札幌の水道事業が一通り完成したことも合わせて、この碑を取り囲むように四隅に小さな水飲み台が設けられました。
聖恩碑

これが、カッター先生から遺贈されたお金によって設けられた水飲み場であると聞いていたのです。(豊平川の伏流水の豊富な札幌では、水道の普及が著しく遅れてしまい、結果として27年間もほったらかしになっていたしまいました。) それなりのお金の割には、あまりにもしょぼい水飲み場なので、不思議に思っていたのです。
水飲み場
 (冬囲いした写真しか見つかりませんでした…(>_<))

この碑には、舞楽面蘭陵王が彫刻され、東正面に首領(右側)、両側に家来(左側)が彫り込まれて噴水となっています。この面は、北大のクラーク像の作者として知られる札幌出身の彫刻家田嶼碩郎(たじま せきろう)の手によるもの。総建設費は31,035円で、約1万円は市の持ち出し、残り約2万円は寄付によったとの記録があるので、この端数がカッター先生の遺産に当たるのでしょうか。
蘭陵王

チャチャニレが伐採されたのは仕方ないとしても、カッター先生の水飲み台は一体どこに行ったのでしょう?そんな大切なものであれば捨ててしまうはずはないと思うのですが、どこにも記載は見当たりません。もし残っていれば、市民ホール前のハルニレの足元に据えてあげるのに…

(なお、「札幌農学校遊戯会・チャチャニレの木」の冊子は、時計台閲覧室や道立文書館閲覧室などに置かれているとのことです。)

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