中央図書館

  • 2019.02.10 Sunday
  • 05:45
朝は寒かったけれど、ちらっとお日様が出たりして、少しだけ気温が上がりました。−10℃を境に、寒さの感じ方はずいぶんと変わるものです。道内には-20℃台が当たり前の所ばかりなので、このくらいで騒いでいては笑われそうですが。

中央図書館に行く用事があったので、西15丁目の電停まで歩いて行きました。途中にある‘ゆりや食堂’でお昼を。一応‘おか田’の前は通らずに、仲通から入ったのですが、ちゃんとおか田のおばちゃんには許しを得ていたのでした〜(笑)
ゆりや食堂

土曜日だけあって、勤め人があまりいないせいか、ガラガラにすいていてちょっとびっくり。この間はとじ蕎麦をいただいていたので、今回はやっぱりラーメンをお願いし、壁際の席に座って辺りを見回すと、なんだか昭和の香りのする置物がずらりと並んでいました。
レトロな置物

ほどなくして出てきたラーメンは、海苔となるとと小さなチャーシューが載っかった、本当に素朴な雰囲気。函館の末広町にあった、今はなき来々軒のラーメンを思い出してしまいました。味も薄味ながらしっかりと出汁がきいていて、本当に美味しかった。これで460円です〜
ラーメン

電停に着くとほとんど待たないで両方から電車が来て、どちらもかなりのお客が。買い物帰りの人だけでなく、ロープウェイで藻岩を目指す外国人も結構いたし、ループ化で乗降客も増えているのがなによりでした。
市電

中央図書館では、「失われた川を尋ねて『水の都』札幌」という展示がありました。12日までという、またぎりぎりになってしまったけれど、どうしても見たかったのです。
パネル展示

丁寧に地図や文献を調べ、札幌の町がいかに「水の都」だったのか、本当に分かりやすく解説も付いていました。これをチ・カ・ホでやったら、大混雑になって大変なことになったでしょうね。目からうろこがぼろぼろ落ちまくった、本当に素晴らしい展示で、久しぶりに満足感というか、充実感を味あわせていただきました。
水の都

チラシにも使われていた「偕楽園之圖」は見たことがなかったので、興味津々穴が空くほど見つめてしまいました。この右手にアイヌの家があったのは、実際のコタンではなく、見本的な再建住宅だったことも明らかにされていて、おっと危ない!訂正しなくてはと、背筋が冷やっとしてしまいました…
偕楽園

帰りの電車はポラリスで、これもかなりの混雑振り。グッドデザイン賞のシールが貼られていたけれど、あれこれ使い勝手などを見ていくと、ここはちょっとまずかったなぁとか、いろんな課題も見えてくるものです。新型の「シリウス」は導入早々運転手がポカをやって壊してしまい。今はまだ運休中。一度乗ってどこが改善されたのか見たかったのですが。久しぶりに電車にも乗れて。楽しい一日でした。
ポラリス

二条小周辺の変遷

  • 2018.12.20 Thursday
  • 05:58
このノニレは、一体いつからここにあるのか?いろんな地図で見てみました。まずは1928(S3)年の「最新調査 札幌明細案内圖」を見てみました。市電一条線は、円山公園まで開通したのが1924(T13)年で、このあたりはその2年前には開通していました。師範学校が、今の資生館小学校のところから移転してきたのが1894(M27)年ということなので、みなさんてくてく歩いて通っていたのですね。敷地の右端には附属小学校があり、最初は南1条西14丁目とあるので、電車通寄りだったようです。

S3住宅地図

1901(M34)発行の札幌市街圖では、師範学校の敷地は南1〜3条と西14〜15丁目の2丁角になっています。先ほどの住宅地図では西14丁目は大半が官舎になっているので、師範学校が西の方にずれていったのかもしれません。それにしてもこの地図で見れば、札幌區と山鼻屯田のズレがせめぎ合って、西の方は道路が繋がっていません。山鼻屯田はちゃんと測量して、南北の軸をきちんと設定したのに対し、札幌區は大友亀太郎が適当に掘った大友堀に合わせて区画を設定したために、こんなずれが生じたのです。

1901市街圖

もう少し新しい1936(S11)年の市街圖では、西線の電車が開通しているけれど、附属小学校の敷地を突っ切れないので、ものすごい鋭角ターンして西15丁目で一条線に合流しています。本当にこんな鋭角に曲がれたのでしょうかねぇ…

S11市街圖

これを先ほどの住宅地図に落としてみると、師範学校の敷地を横切ることになってしまいます。これは住宅地図の精度が適当なのでしょうか。ただ、1922(T11)年に附属小学校が南2条西15丁目に新校舎を建てて移転しているので、このようなショートカットが可能だったのかもしれません。

西線開通

戦後になって、1949(S24)年に北海道学芸大学が発足して山鼻に移転していき、1950(S25)年にはその跡地に札幌医科大学や二条小学校が開校しているので、当然師範学校や附属小学校の校舎を使用した可能性があります。また、それに合わせて西線の経路が、現在のような斜めの経路に移されています。
S25

こうしてみると、師範学校が移転してきた明治の中頃には、この辺りはまだ原っぱの中に道路が出来たばかりで、新校舎の周りにいろいろな樹木を植えたに違いありません。師範学校のすぐ町寄りには営林署があるので、それからいろんな苗木が供給された可能性もあります。それにしたって120〜130年しか経っていないのですから、あんなに巨木になるのでしょうかねぇ…教育大学には昔の写真が保管されていそうなので、それらを探していけば手かがりがつかめそうな気もします。うーーん、謎が深まるばかりです。

茨戸油田

  • 2018.03.24 Saturday
  • 05:50
前日にああいう電話をいただくと、なんとかしてあげなくてはと、やはり気になるものです。夕方までに仕事の目途が付いたので、とりあえずネットで調べてみました。この場所でポプラを植える動機として考えられるのは、農作物に対する防風植栽がありますが、近くに大規模な幹線防風林があることや、列状植栽では効果がしれているので、まずその可能性はないと思います。そうなるともう一つ可能性があるのは、かつてこの辺りにあった茨戸油田関連かな?と。

茨戸油田

ここにあるように、昭和30年代初めに採掘が開始され、わずか10数年でその役割を終えています。1971(S46)年といえば、私が札幌に住み始めた前の年なので、そんな時期まで油田があったというのにはビックリでした。さらに北側にあった石狩油田が、戦前にほぼ役目を終えていたのに対し、茨戸地区はそれと入れ替わるように採掘されていたことになります。茨戸油田については、北区のHPにそのあたりの情報が残されていました。

北区HP

茨戸油田はどのあたりで採掘されていたのか、ネット情報や古い地図で調べて見ました。国土地理院の検索システムで、これに当たる期間の地形図がないか見てみると、1972年調査の地図があり、ぎりぎり油田の位置が確認できました。するとねらい通り、この場所に油井が並んでいたのです。

1973地形図

その頃に植えれば60年経っているので、成長の早いポプラであればかなりの大木になっていることでしょう。とはいえ、この施設とポプラに関係があるのかは何とも言えません。カンカン照りの中で仕事するのが大変だから、早く日陰を作ろうと、成長の早いポプラを植えた、なんてことがあったのでしょうか?でも手がかりとしては、まだその当時の関係者がご存命でしょうから、ここから攻めていけば手がかりが得られるかもしれません。これからの予定の隙間をぬって、なんとか解明できるでしょうか。

荒井山のあゆみ

  • 2018.02.03 Saturday
  • 05:58
私が住んでいる場所は、現在の地名では宮の森となっていますが、地域名は荒井山です。その荒井山町内会が40年以上前に出版した「荒井山のあゆみ」という小冊子をようやく手に入れました。折り込まれていた昭和10年の地形図にあるように、この地域は戦前、琴似町十二軒澤と呼ばれていたのです。
明治の初め、北海道開拓を進めるために立ち上がった東本願寺は、虻田から山を越えて札幌に至る山越えの道路(現在のR230号)を開削し、「本願寺越え」道路を完成させます。一方で本府の南に布教の拠点となるお堂を建て(現在の札幌別院)、その周辺に新潟から50戸の農民を呼び寄せて開墾を始めました。これが明治4年だったので、その干支(辛未(かのとひつじ))から「辛未(しんび)一ノ村」と名付けられたのです。ところがその5年後、山鼻や琴似に屯田兵が入植することになり、せっかく開墾した場所を追われて琴似方面に強制移住させられてしまいました。その時にはまとまって移住できず、あちらに八戸、こちらに十二戸、一番まとまったところに二十四戸と、3つのグループに分散したのです。その地名が八軒、十二軒、二十四軒と仲良く連なっていたのに、荒井山周辺に秩父宮や高松宮がやって来てスキーを楽しんでいたことから、1943(S18)年に十二軒とその奥の十二軒澤を宮の森に改名したのでした。
S10年の荒井山
 (「荒井山のあゆみ」 荒井山町内会刊行、1974(S49)より、以下同)

この写真は、私が札幌に来た2年後に写されたもので、札幌オリンピックで改装された大倉山シャンツェが大きく写っています。左奥には宮の森シャンツェもあるはずですが、その間にはまだ住宅がちらほらある程度でした。赤い矢印のところに今の家がありますが、この斜面は北炭が開発して分譲したために、北炭分譲と呼ばれていました。この10年後にここに住み始めた家は、分譲にあたって建てられたモデルハウスだったのです。
全景

最初から住んでいた人は、STVやグランドホテルなど、北炭系列の会社に勤めている人が多かったのはそのためだし、家のすぐ近くに北炭の慰霊堂があるのも、そういう土地の謂われからなのです。荒井山の名前の元になった荒井氏がこの一帯の最初の所有者で、鉱泉が湧いていていた場所に円山温泉を作っていましたが、その跡地はのちに拓銀が買収し、ここに研修所が建てられました。かつて拓銀に入社した人は、ここで研修をしていた訳ですが、今はなんと宗教団体の所有地になってしまいました。聖心女学院は築55年も経っているので、かなり古めかしくなっているのかな?
施設

昔の小別沢トンネルの写真も載っていました。入り口はコンクリートだったけれど、中は手掘りのまんまだったので、とっても怖い場所だったし、市内随一の心霊スポットだったけれど、今のトンネルではお化けも出られなくなってしまいました。盤渓峠も新しく切り開かれて間もないころの写真です。この数年後にはこのあたりを仕事でうろちょろしていたけれど、まだ砂利道でひどい道路でした。
道路

この本の中に6件広告が入っていて、これがまた懐かしい。荒井山の谷底にあった山水閣は、結構賑わっていてホテルでした。かみさんも函館からサーカスを見に来た時に、家族でここに泊まったのだそう。ここを買収して宮の森中学ができたので、うちの子供たちは28丁目の向陵中学まで行く必要がなくなったのです。宮の森ガーデンは10年くらい前に閉めて、跡地に結婚式場ができると聞いていたのに、いまだに仮囲いに囲まれたまんまです。浜崎商店は、酒も置いてる雑貨屋だったけれど、早いうちからセイコーマートに変身し、いまだにがんばっています。
広告

こういう本は、買えばきりがないのだけれど、このまま埋もれさせてしまえば後世に何も伝わらなくなってしまいます。一部でもこうしてデジタルの世界に載せておけば、何かと引っかかってくれることもあるでしょう。

円山の散歩

  • 2018.01.17 Wednesday
  • 05:45
昨日の昼休み、日が差さず肌寒かったけれど、久しぶりに散歩に出かけました。天然記念物円山原始林についての原稿を書き上げたばかりだったので、山が見たくなったのです。円山墓地の手前から見上げた円山は、ほとんどが原始林(国有林)ではなく市有林です。1903(明治36)年に当時の札幌区に払い下げられたのち、不必要な(本当は売る価値のある木だと思いますが…)樹木を伐採して売却し、その収益でカラマツなどを植樹しています。丸く囲ってあるところのカラマツ林はその名残なのです。
カラマツ林

墓地の中には細い踏み分け道があり、それをたどるとかなり奥まで続いていました。上から2段目にある宮部金吾博士の墓の前まで行けたので、お参りしておきました。この奥の沢筋から頂上に抜けることができるので、冬でも登っている方がいるのでしょう。
宮部先生

そこで引き返して円山公園に入ると、鬱蒼たる針葉樹林。といっても構成樹種はヨーロッパクロマツやヨーロッパトウヒ、スギなどの外来樹種ばかり。日が当たらないせいか、雪が硬く締まって自由に歩けました。
針葉樹林

樹林から出るところに、頭の少しつぶれた樹形の木が。よく見るとカラマツの北方系近縁種であるグイマツでした。グイマツは道内には化石として見つかりますが、樺太には今も自生があります。
グイマツ

グイマツの球果はカラマツの半分くらいしかないので、下から見上げてもたいてい区別がつきます。今までグイマツは未記録だったので、雪が融けたらもう一度調べに来なくては。
グイマツの球果

ここのトイレの裏にあるカラマツも、昔調査をしていて、ヨーロッパカラマツであることが分かりました。明治時代にここにあった養樹園の名残は、結構残されているのです。
ヨーロッパカラマツ

ヨーロッパカラマツの球果はカラマツの1.5倍くらい背が高く、富丘西公園の四阿の横にも大きな木があって、びっくりさせられました。普段意外と見逃しているけれど、いろんな木があちこちに隠されているものです。
球果

相変わらず地下鉄から神宮を目指すアジア系外国人の多いこと。誰が祀られているのか知ってか知らでか、本当に不思議です。(開拓三神ならまだしも、余計なものまで祀ったので、私は絶対に行きませんが。)そんな場所がパワースポットとして御利益があるのですかねぇ。そんな人達が歩いている園路の脇には、道内で最も古いカラマツの林が。養樹園には全国各地や海外から大量のタネが持ち込まれ、たくさんの苗木が作られて全道に配布されました。北海道の林業を支えてきたカラマツですが、ここが道内のカラマツの故郷だということは、ほとんど知られていないのです。
カラマツ

札幌1957 生活篇

  • 2018.01.10 Wednesday
  • 06:00
昨日は1957(S32)年の札幌を、俯瞰しながら眺めてみましたが、今日は地上に下りて生活をじっくり見ることに。まずは丘珠のタマネギ畑です。まだこの頃は‘札幌黄’の全盛時代ですね。昨年暮れにこれを10キロいただき、現在食べていますが、料理されると品種の違いはなかなか分からないものです。30年ほど前に転職したときに、会社が伏古だったので、会社の回りがタマネギ畑だらけだったのにはびっくり。真っ赤な火山灰みたいな土なのに、こんな土で毎年タマネギばかり作っているんだと、いささかカルチャーショックを受けました。そんなことよりも、エアコンなんてまだなかったので、夏に窓を開けていると机がざらざらになって大変だったことを思い出します。この収穫風景では、頭もザスザスになったことでしょう。
タマネギ畑

私が札幌に住み始めた頃は、暖房が石炭から灯油に変わった時期かもしれません。ポット式のストーブの全盛時代でした。12年の間に7回引っ越して今のところに落ち着きましたが、石炭を焚いていたのはペチカのある一軒家に共同で住んでいたときだけ。確かに石炭運びや灰の処理など結構大変でしたが、みんな焚いていた頃は煤煙だらけですごかったことでしょう。この写真の下には、建設中のテレビ塔と、解体中の豊平館が写っていました。ハルニレはもう少し左手前でしたね。
煤煙の町

この頃の人は、雪が降っても傘を差すことはない、なんて書かれているけれど、今では男だって差しているので、危なくて仕方ありません。昔は除雪なんてそんなに入らなかったでしょうから、電車の線路をみんなが歩いて危なかったという話を聞いたことがあります。この頃は車自体が少なかったから、そんなに問題も起きなかったのでしょう。
雪融け

漬け物は、北国の風物詩としていまだに生きているでしょう。どんなに素敵な家でも、ベランダに大根がずらりと干されていると、思わずにやっとしてしまいます。家中が暖かくなりすぎて、保管するのには苦労しているようですが。
漬け物

この子たちは私と同じ歳くらいなんでしょう。ここまでは着ぶくれしていなかったけれど、似たような格好の写真が残っています。昔はセーターでも手袋でも、ばあちゃんがせっせと古毛糸で編んでくれるし、男三人兄弟の末っ子だったので、着ているものはほとんどお下がりばかり。おねだりしても買ってくれないのであきらめていましたが、そんな時代だったのかもしれません。角巻き姿のおばちゃんは四国にはいなかったけれど、昔の年寄りはたいていショールを羽織っていましたねぇ。
スキー

賑わう荒井山のスキー場。このリフトは、この前年(1956)に道内初の市民向けリフトとして開設されたものだそうです。(藻岩山は進駐軍専用だったため)子供たちが大倉小にいた頃まであり、長男はこれでスキー授業を受けることが出来たけれど、次男の時には休止していたので(2000)、スキー授業をコバランドかばんけいでやったはずです。やがて撤去されて、歴史あるリフトも姿を消してしまいました。市内各地から市電で円山にやって来て、ここまでスキーかついで上がってきていたのですね。
荒井山

藻岩からずっと西の三角山の山裾には、冬になると牧場や畑がたくさんの「ゲレンデ」として、子供達に利用されていたそうです。これを南から挙げてみると、こんな名前と縄張りがあったとか。
「新藤牧場及び水道山」伏見の浄水場あたり。山鼻小の縄張り(以下略)。
「温泉山」旧札幌温泉のあったあたり(旭山公園の南斜面)。山鼻小。
「源ちゃんスロープ」温泉山と双子山の間にあり、旭山公園造成により消滅。
          急斜面で起伏があり、上級者向きだったそう。
「双子山及び南斜面」双子山は急斜面、円山の山裾は緩斜面。幌西小。
「荒井山」最も利用された市民スキー場。もちろん円山小。
「寺口山」琴似山の手で国立病院の西側。北大生はシルバースロープと呼んでいた。
     琴似小と桑園小。

 (「札幌古地名考」 札幌原人(小川高人)著、1981より)

札幌 1957 俯瞰編

  • 2018.01.09 Tuesday
  • 05:51
昨日の朝から鼻水とくしゃみが止まらず、風邪引きかけているのでおとなしくしていました。早く帰って、7時から4時まで、9時間ぐっすり休んだらすっきり。年末年始の呑み疲れもあったのでしょう。肝臓休めてしばし静養に努めます。

背文字のない薄い本は、書棚では回りの本に埋もれて、なかなか手に取ることがなくなってしまいます。捜し物をしてして、ようやく見つけたのが岩波写真文庫『札幌 1957』という小さな冊子でした。1957(S32)年といえば、私はまだ5歳。札幌に住み始める15年前のことですが、来た年に行われた札幌オリンピックに合わせて町が大改造されているので、ずいぶん変貌している感じがします。町中でもビルがほとんどなく、大通より南には三越から丸井くらいしかないなんて…
表紙

北大構内も、左端にある農学部以外には、理学部と工学部の白亜館、北大病院くらいしか目立つ建物がなく、木造の建物がぎっしりと建っていたようです。今よりももっと込みいった感じですね。
北大構内

写真でよく見る大通1・2丁目の風景。ここにあった望楼の上から写したものでしょう。この間にはまだ北大通がなく、電話局と郵便局がどっしりと建っていました。煉瓦造と軟石造の重厚な作りなので、さぞや存在感があったことでしょう。のちに公園になったところには、市営バスのターミナルがありました。まだボンネットバスも現役のようです。この時には豊平館は既に中島に移設中で、この右側にテレビ塔が完成間近のはずです。
大通

望楼から南を向いた風景。手前の橋が創成橋で、その右の小さな建物が創成交番(正式には札幌警察署南一条巡査派出所)で、現在は開拓の村に移設保存されています。狸二条広場には、小さな鉄塔が立っていたのですね。その右のビルが大谷会館。ここにはライブやコンサートで何度通ったことか。懐かしい建物です。川に丸太を渡して桟敷を作り、サーカスをやったというのはこの辺りなんでしょうか?
  創成川

これもちょっと信じられない風景です。左にある藻岩山から石山通まで突き出しているのが軍艦岬。この辺りの豊平川のなんと雄大なことか。軍艦岬の下から流れ込んでいるのが山鼻川だけど、豊平川との間には築堤がなく、全くの自然河川状態です。下流に行くと幌平橋や豊平橋、東橋などで思い切り築堤間が狭められ、窮屈な川になってしまうのに対し、この辺りではまだまだ、広大な玉石河原(パラピウカ)が広がっていたのですね。(つづく)
豊平川

円山原始林

  • 2017.12.28 Thursday
  • 05:52
正月休み中に円山原始林について原稿を書かなければならないので、資料を確認していました。昔から文献はいろいろと収集してきたので、たいていのものはあるのですが、今一つ範囲や面積が確定できません。館脇先生が1957年に作った『圓山原始林』という小冊子には、円山全体の図面が描かれており、面積は42.95ha(國有林)とあります。
舘脇本
 (「圓山原始林」 舘脇 操著、日本林業技術協會発行、1957 より)

意外と知られていませんが、天然記念物「円山原始林」に指定されているのは、円山の国有林部分だけで、しかも市街地に面している部分はほとんどが市有林になっています。開拓以来ずっと保護されたことになっているけれど、実はどんどん手近なところの木は伐り出されて、町の発展に使われたわけです。松浦武四郎が、今の藻岩を指して‘椴(とど)木立なり’と言ったにもかかわらず、現在の藻岩・円山にトドマツは数えるほどしかありません。市街に面している部分が荒れ果ててしまったために、国は用無しとして札幌区に払い下げられたのではと思っているのです。(図中の点線で区切られている部分が国有林と市有林の境界です。)
植生区分図
 (「札幌円山の自然科学的研究」 北海道教育委員会、1958 より)
 
市の教育委員会の資料がネットで公開されていますが、(※pdfにリンクしています。)
ここには「…開拓使時代から保護され、「原始林」と呼ばれてきた。しかし、実際は原生林に近い天然林で、…」と正直に書かれています。これでは43.9haとなっているので、これは大元に聞いてみなくてはと、旭ヶ丘にある石狩森林管理所に行ってきました。いきなり押しかけたにもかかわらず、次長さんが丁寧に対応していただきましたが、森林調査簿を丹念に拾っていかなければトータル面積は分からないし、市の教育委員会で出されている数字が正しいはずですと、それでも図面を頂戴してきました。
林班図

これではっきりと天然記念物に指定されている国有林の様子がよく分かりました。
全体は30林班(りんぱん)で、「い1」などと書かれているのが小班(しょうはん)という単位になり、それぞれどのような指定状況になっているかが分かります。(鳥)は鳥獣保護区、(史)は史跡名勝天然記念物、(都)は都市計画風致地区、(道)は北海道すぐれた自然指定といった具合です。(貸)とあるのは、札幌市に自然歩道として園路部分を貸していることを言っているのでしょう。
円山原始林

もちろん天然記念物に指定されているので、本来葉っぱ1枚、ドングリ1個だって拾ってはいけません。「森林としての施業も全くできないので、ただ見守るだけなんですが、回りに住宅がびっしりと貼り付いているので、枝が落ちた、木が倒れたと、強風が吹いた時にはすぐに苦情が来るので、緊急の対応はこちらでしなければなりません。かなり費用がかかる場合もあるのに、教育委員会は全く予算がないので、後始末は全部こちら持ちだから、現実はとても大変なんですよね〜」と、次長さんは訴えておりました。札幌市民はそんなことはつゆ知らず。単なるハイキングコースくらいにしか思っておりません。函館山のように、もっと利用者教育をしっかりやらなければ、本当の価値に気付かないままになってしまうでしょう。

札幌の古き建物たち

  • 2017.12.06 Wednesday
  • 05:58
札幌建築鑑賞会という、もう30年近くも熱心な活動を続けている団体があります。最近では、「札幌軟石発掘大作戦」を各区ごとにやっていたので、ご存じの方もいるのでは。その活動の一つに「古き建物を描く会」というのがあり、その開催60回、15周年記念の作品展に行って来ました。
チラシ

場所は北翔大学北方圏学術情報センター『ポルト』です。地下鉄だと西18丁目駅と円山公園駅のちょうど真ん中あたり、南大通に面しています。私にとってはうどん屋からの帰り道なので、とても行きやすいところ。昨日は朝からずっと雪だったのに、お昼前後には青空が出てちょうどいいタイミングでした。
ポルト前

ここにはギャラリーが二つ、講義室が二つあり、以前ここでお話しをしたことがあります。学園で使用していなければ一般利用ができるし、申請者が学園のどこかの卒業生であれば、さらに安く借りられるはずです。
入り口

中に入ってびっくり。15名が計74点もの作品を出しておりました。しかもその内容がかなり濃密で、デッサン力も正確な上にバッチリ決まっており、レベルがメチャ高いのです。単なる記録程度かと思っていたので、焦ってしまいました。受付に出品目録が置かれているので、それを見比べていくと、懐かしい建物が次々と現れてきます。建物から離れて、作品として見ていっても十分に楽しめるでしょう。円山近辺に行く用事があれば、10日まで行われていますので、ぜひご覧になって下さい。
内部

八紘学園の場所の由来

  • 2017.02.09 Thursday
  • 06:01
八紘学園の敷地は、もともと吉田善太郎という人が開墾して牧場にしたところです。吉田善太郎は岩手から1871(M4)年に月寒に入植し、最初は炭焼きや畑を作り、1897(M30)年に吉田牧場をこの場所に開設しています。息子をアメリカに留学させると共に、アメリカから我が国初めてのホルスタイン種を20頭も導入し、先進的な牧場経営を始めました。その時に造った畜舎とサイロが現在も八紘学園記念館として残されています。
サイロ

1909(M42)年に建てられた別荘も、道路を挟んだ樹林の中に八紘学園栗林記念館として現存し、どちらも札幌景観資産に認定されている貴重な文化財となっています。吉田牧場は月寒から大谷地あたりまでの広大な面積を誇り、札幌の東部の開拓に多大な功績を残していることから、吉田川などあちこちに足跡が残されています。さらには、息子の善助の時代に軽種馬生産に乗り出して移転したことから、この場所を栗林元二郎に売却して八紘学園となったわけです。吉田善助の子供善哉、さらにその子供三人によって、現在の社台ファームやノーザンファームなどに発展していったのですから、この場所はまさにその原点の地でもあるのです。
記念館

栗林記念館の一帯は、普段入ることはできませんが、学園に正式に申し込めば許可が出ると思います。元二郎が集めた庭木や石が所狭しと詰め込まれていて、なかなかの見物となっているのです。この水晶なんて、庭に置くものとは違うような気がするのですが…(^^;)
大水晶

庭石もすごいものがたくさんあります。日高系の大きな石はいろんなところにありますが、ここのものは値打ちが全然違っているのです。
巨岩

この石も、今は全く出なくなった貴重なものだとか。「たまころ石」だったかなぁ?
球ころ石

現役の牛舎も由緒正しいマンサード屋根で、れんがのサイロとのコントラストが何ともいえません。昔は人力で牧草をサイロに詰め込んでサイレージを造っていたのですから、大変な手間がかかっていたのです。
牛舎

せっかくなのでハナショウブの写真も。普通のハナショウブ園は水辺に栽培しているけれど、それでは大量に作ることができないので、ここでは「丘作り」と呼んでいる畑栽培が特徴です。もともと水陸両用の植物ですが、連作障害を起こさないために土壌改良と施肥に工夫を重ね、ようやく実現させたものです。
ハナショウブ

ハナショウブが盛りを過ぎた頃にラベンダーが咲き、たくさんの品種があるヘメロカリス類がお盆まで咲き続けます。つばを付けたのは月寒ドームとその周辺の牧草地なんでしょうが、この静かな空間はいつまでも残しておきたいと思います。
ラベンダー

 (参考:「八紘学園七十周年史」  学校法人八紘学園発行、2002 など)

中島公園上空から

  • 2016.11.30 Wednesday
  • 05:56
先日の円山公園上空の写真に続いて、中島公園上空から撮された古い航空写真を紹介しましょう。円山の方は戦後まもなくの米軍によるものでは?としましたが、こちらはよく見るともっと後のもので、中島スポーツセンターが出来たのが1954(S29)年ですから、昭和30年前後のものではないかと推測しています。
中島公園全景

さっぽろ文庫84『中島公園』を見ていくと、アングルが違う別の航空写真があり(p293)、それには昭和29年とあるので、どうもそのあたりが正解なのかもしれません。この本には各年代の変遷図があり、ちょうど1954(S29)年というのが載っていたので、これを元に細部を確認してみることにしました。
絵図
(さっぽろ文庫84『中島公園』  札幌市教育委員会編、北海道新聞社、1998 より)

現在パークホテルが建っているところは、割烹西の宮の支店がまだありました。駐車場の所には中島中学も。リコーによって「ホテル三愛」が建設されたのが1964(S39)なので、この約10年後ということになります。豊水通に面して白く大きな建物があるのがNHK札幌放送局。豊平館が1957(S32)年に中島に移転した後に引っ越すわけですから、まだこの時には現役ということになります。物産展示場として建てられた拓殖館や農業館は、札幌短期大学(現在の札幌学院大学)や道立地下資源調査所として使われていた時代です。
拡大1

現在のKitaraのところにある丸いものが、なんと相撲場だというのはこの絵図で初めて知りました。このまま野外音楽堂になったのでしょうか?岡田花園の跡地の池が、市営釣堀だったというのも初耳です。岡田山も今一つ形がよく分かりません。△の所にウォータースライダーで設置されるのも、1958(S33)年に行われた北海道大博覧会の時のようです。博覧会の後、日本庭園や百花園が整備されるわけですが、まだ影も形もないようです。ただ、日本庭園のところにある方形の整形式花壇のようなものは、絵図では円形になっているし、後の百花園建設に際してこれを再現したということなんでしょうか。このあたりの整備を行った公園課の人達は、もうみなさん亡くなられてしまったので、ちゃんと聞き取っておけばよかったなぁとつくづく思います。でもこういう写真を丹念に見ていけば、いろんなことが分かるものですねぇ。
拡大2

(参考:「中島公園百年」 山崎長吉著、北海タイムス社、1988)

知事公館へ

  • 2016.11.29 Tuesday
  • 05:47
早朝のランニングは、風邪のため四日も休んでいましたが、ようやく再開。やはり朝いちでしっかり体の血液を回しておかないと、一日どよーーんとしてしまいます。昼間も籠もりっきりで全然出かけなかったので、郵便局に出かけたついでに知事公館まで歩いてきました。30日で閉園になるので、ちょうどいいタイミングでした。去年もちょうど今頃に通っていましたねぇ。
知事公館

去年歩いてないところをと、右手の管理事務所の方に歩いて行くと、あちこちに燈籠が立っていました。なんでこんな所に燈籠なんか立てたんだろう?と感覚を疑ってしまいますが、この燈籠はなんじゃい?と考え込んでしまいました。笠がひょろ長いのは蓮華寺型燈籠の特徴ですが、これはなんと四角なのです。軟石で作られているところを見ると、こちらの業者が本歌を見よう見まねでまねしたけれど、六角は面倒なので四角に手抜きしたものでしょうか。今一度こんな燈籠があるのか調べてみようと思います。
燈籠

その奥にかなり大きなイチョウがありました。一度強剪定されているけれど、そこからたくましく復活して大きく育っていました。このサイズでは珍しく、幹から大きな乳が垂れていました。赤れんが庁舎前のイチョウでもこれほど大きな乳にはなっていないので、乳が出やすい系統なのでしょうか。
イチョウ

時折日が差すものの、結構冷え込んでおり、人っ子一人構内を歩いている人はおりませんでしたが、芝生の中にある流正之さんの「サキモリ」まで行くと、たくさんの足跡がありました。観光客がやってくるのでしょうか。
サキモリ

イチイやヨーロッパクロマツ以外に、常緑の葉を持っているのがツルマサキ。ここにはほかの木に捉まって大きく枝を伸ばし、まるで木のようになって株が何本もあります。
ツルマサキ

こちらは10mくらいにもなっている大きなツルマサキですが、その隣にユリノキがありました。ユリノキの花は大きな葉の上に咲くので、歩いていてもまず気付きません。こんな所にもあったんだという木が、この時期には意外とあちこちに見つかるものです。
ユリノキ

旧伊藤邸から旧偕楽園にかけてあったヌップサムメム、植物園から流れ出していたピシクシメムは、今一つ昔の姿を偲ぶのが難しいのですが、このキムクシメムはゆったりとした地形がそのまま残されていて、一番好きなところです。つまらない石組みをすべて取り払い、元の姿に戻してあげたいといつも思ってしまいます。
キムクシメム

帰り道、気象台の裏を歩いていると、マンホールのわずかなすき間に生えていたエノコログサが、ほとんどドライフラワーになっていました。このままそっと持ち帰って飾っておきたいくらいです。
エノコログサ

円山上空から

  • 2016.11.26 Saturday
  • 05:41
資料を探してパソコンの中をあちこち覗いていたら、ある方からいただいた資料ファイルの中に、円山の上空から撮した古い航空写真がでてきました。円山競技場、庭球場、野球場が整備されているので、1935(S10)年以降であることは間違いなく、と言って戦争中にこんな写真撮せるはずもありません。どうやら円山動物園がまだで来ていないようなので、敗戦直後の写真では?という感じがします。同じような感じで中島公園の上空から撮した写真があるのですが、当時はまだ公園課すらなく、都市計画課の中に担当がいたくらいの組織なので、とても飛行機をチャーターできるはずもなさそうです。となるとこれを撮したのは、やはり米軍によるものかもしれません。
航空写真

まずパッと目に入ったのは、札幌神社の参道の正面にある神社山が、こちら側を除いてほとんどはげ山になっていることでした。私の家から正面に見える西斜面には、それでもぽつぽつと植林していることが分かります。今でも葉が落ちてしまうと、山頂に向かってジグザクと上っている道跡が見えるのは、この時の作業道だったのですね。調べてみると、1910(M43)年に盤之沢(現在の円山西町)から出火した山火事によって、十二軒沢、小別沢、盤渓にかけて焼き尽くす大火事になったのだそうです。この時神社山にも延焼したけれど、風向きが変わって北斜面だけが焼け残ったとありました。ここにはカツラの巨木も何本か残っていることが調べられており、円山原始林以外で手つかずの自然が残されている、貴重な樹林ということになります。(赤丸が現在のセイコーマートになります。)
神社山

私の家は、下の写真のちょうど赤丸の所に建っています。この辺りはずっと農地だったものを、昭和40年代頃に北炭が買収して住宅地として分譲したそうで、今はマンションになっていますが、北炭のアパートも建っていました。ここに引っ越した30年ほど前に、タクシーに乗って宮の森2条17丁目と言ったら、そんな所があるのかい?と怪訝そうな顔をされて、とことこ上っていくと、こんなところまで宮の森かい?ここは北炭分譲というんだわ!と言われたことがありました。こんなのどかなところだったのですね。写真中央の右側には、荒井山市民スキー場が広がっているけれど、こんな狭いゲレンデにひしめいて滑っていたのですねぇ。
十二軒沢

表参道は、第二鳥居を通り過ぎて、そのまま競技場の方に上がって行きます。右に伸びる矢印の位置に現在の北1条宮の沢通が出来たのは、札幌オリンピック関連の道路整備に合わせてのはずです。その時は西高のところを通る山麓通までで、西野の方まで繋がったのはそれからずいぶん経ってからでした。こんな馬鹿でかい道路がいるのかい?と思ったほど、だだっ広い空き地が伸びていたのを覚えています。
神宮前
下に伸びる青い矢印のところには、2mほどの小さな崖が今でも切れ切れに残っており、昔は小さな川があった名残です。赤い○はユニークな品を置いてあるので知られている杉原商店で、戦後まもなくの創業なのでちょうど店が出来た頃でしょうか。神宮前は今では高級住宅地になりましたが、道路がメチャクチャ狭いのは、基盤が農地のまんまに住宅が建っていった結果だということがよく分かります。

東皐園

  • 2016.11.18 Friday
  • 06:02
上島(かみじま)正は、信州諏訪郡湖南村の生まれで、信州の名家の出であるという。旧習になずむ郷里の生活に飽き足らず、大阪や東京に出て様々な技術を身に付けるが、「かの北海道のことを聞きしより、北海道に心しばられ」明治10年単身横浜から北海道行きの船に乗って札幌にやって来ます。当初は造田する場所を探していたため、月寒の一角に試験的に水稲を栽培して見事な成績を納め、翌年札幌の町の北郊に一万坪の土地の貸し付けを受けました。妻子を呼び寄せて開墾を始めましたが、東京を発つ時に何かの手慰めにと、堀切村の花屋から花菖蒲の苗170株を持ってきて植えておいたところ、活着して見事な花を咲かせたのです。
由来
 (「花翁、咲き誇る私邸を公開」 荒井宏明著、季刊札幌人、2004 より)

しかし、ただ東京からもってきた花が咲いているだけでは面白くない、自分の手で新しい花を咲かせたいと、交配を始めたところ全然うまく行かない… その時に、開拓使の御雇い外国人で、植物培養方であったルイス・ベーマーが花を見に来た時に、そっと交配のしくみを教えたのだそうです。その結果、新しい品種が次々と出来るようになり、水田のことより花菖蒲の育種に夢中になっていきます。この頃には偕楽園はあったものの、中島遊園地もまだなく、人びとはここの花菖蒲を見に次々と訪れるようになりました。すっかりフラワーパークになってしまい、それで生計を立てることになってしまったのです。
(なお、明治14年に明治天皇の北海道巡幸に際しては、お休み所として偕楽園に清華亭を、宿泊のためには豊平館を建設し、その庭園をルイス・ベーマーが手がけましたが、その助手として上島正が参加しています。また、ベーマーが開拓使の契約を満了して、横浜に日本の優れた花を輸出する会社を設立しますが、上島の育種した花菖蒲が大量に輸出されたそうです。ベーマーが体調を崩してアメリカに帰ったあと、その会社を引き継いだのが、現在の横浜植木です。)
花菖蒲園
 (「花翁、咲き誇る私邸を公開」 荒井宏明著、季刊札幌人、2004 より)

このあたりを字東耕といったので、初めは「東耕園」としていましたが、皐月(五月)の皐という字が、水辺や沢地、気の澄みわたる所という意味を持つことから、「東皐園(とうこうえん)」と改めました。この場所には諏訪神社があり、これも信濃からもたらされた分霊を上島が祭ったものだそうです。今は全く影も形もありませんが、子や孫によって引き継がれて、終戦までやっていました。
大正期の姿

昭和3年の住宅地図で見てみると、ちょうどここが当時の札幌市の、北の外れになっていました。現在の地図と重ねると、ほぼぴったりその位置が特定できます。敷地の中にある斜めの区画によって、現在の建物も影響を受けていました。上島の子孫は、現在新琴似に移られたそうで、ここには何も名残は残っておりませんが、北隣の諏訪神社、東隣のカトリック教会は、当時のままの姿を留めているのでしょう。
今昔

東隣にある天使病院や修道院には、外国から渡ってきたたくさんの修道女が生活していました。彼女らの唯一の楽しみがこの花園を散歩することであり、「少女のようにはしゃいでいる童貞さま(カトリック修道女)たちの姿がはっきりと記憶に残っている。」と、正の孫の手記にあるとのこと。家族が病んだ時には、天使病院に入院して特別やさしい看護を受け、正もあたたかい看取りの中に83歳の生涯を閉じたととあります。

そんな天使病院に入院していた孫2号は、ちょうど一ヶ月目の今日退院できることに。手厚い看護はさすが天使病院と、昨日最後の面会に行ってお礼を述べてきました。そんな日にこれを書いているのも、なんだか不思議な縁を感じてしまいます。

参考・引用
 ・「札幌百年の人びと」  札幌市史編さん委員会編、札幌市、1968
 ・「東区今昔」  札幌市東区総務部総務課、1979
 ・「花翁、咲き誇る私邸を公開」 荒井宏明著、季刊札幌人、2004

古い住宅地図

  • 2016.11.17 Thursday
  • 05:58
手元に札幌の古い住宅地図があります。駅前通整備の時に知り合った、昔から駅前で商店を営んできた方が持っていたもので、お願いしてコピーさせていただきました。昭和三年(1928)の発行なので、その当時の札幌の町並みなどを調べるのに、とても役に立つのです。
  札幌案内圖

表紙の一番下には、札幌駅から発着する国鉄の列車の時刻表と、豊平駅から発着する定山渓鉄道が載っています。国鉄の上りは大半が小樽や手宮行きで、函館行きが5本、その他に余市、黒松内行きが1本ずつあります。これに対して下りの方は本数が少なく、稚内、釧路、網走、滝川、音威子府、岩見沢、旭川など、全道各地に散らばっています。根室稚内というのは、滝川で連結が分かれて、それぞれの目的地に向かうのでしょうか?
定山渓鉄道の方は、上り下りが4本ずつと、ちょっとびっくりな本数でした。途中の乗り降りはあまり関係なく、あくまで湯治客の輸送ということであれば、このくらいでもよかったのでしょう。
時刻表

その先頭には、札幌市の案内が簡潔に印されており、市の沿革の次に遊覧地案内がありました。中島公園、円山公園、そして植物園が来て、最後が大通になっていて、当時の市民の認識度がよく分かります。大通が公園になったのは1980(S55)年なので、まだこの頃は逍遙地といっていた時代でした。
札幌案内

地図の前に、主な官公署や銀行、商店などが、電話番号と住所とともにずらりと索引になっており、当時どんな商店があったのかよく分かって面白いのです。職業の中には売炭所や見番など、時代を映すものがあって面白く、その中でやはり緑・花に関係するものを探してみると二つありました。一つが「種物並びに農園芸」で、もう一つが「花園庭園業」となっています。「種物並びに農園芸」の方は、より農業に近い種苗店で、五番館デパートを作った札幌興農園を筆頭に、たくさんの種苗店があったことが分かります。今も残っているのは、札幌農園と原育種園くらいでしょうか。
種物・園芸

もう一つの「花園庭園業」は、今でいう園芸・造園業で、歴史のある東皐園(とうこうえん)、中島公園にあった岡田花園で修行したのち独立した横山花園(現在は発寒にある横山造園)と、今は円山クラスになった場所にあった小林鉄太郎(現在は北の沢にある小林集楽園)に目が行きます。豊平公園緑のセンターの売店を開館以来ずっとやっており、昔から大変お世話になってきた豊平神社前の高波隆花園もちゃんと載っていました。
花園庭園

東皐園は、石狩街道の東側、諏訪神社の北側にあったフラワーパークで、信州から来た上島正(かみしま ただし)が独力で造りあげたものです。まだこの時代でも残っていたのかと、ちょっとびっくりでした。まだこれを紹介していなかったようなので、乞うご期待。
上島正
  (「東区今昔」  札幌市東区役所総務部総務課発行、1979 より)

イロハモミジ

  • 2016.11.15 Tuesday
  • 05:56
山鼻地区は、屯田兵によって開かれた町で、今も東西の屯田通などの名残を残しています。山鼻屯田兵村は、1874(M7)年の琴似屯田兵村に続き、2番目の兵村として1875(M8)年から翌年にかけて開設されたものです。その本部が置かれたのが今の山鼻公園の周辺で、このあたりに小学校や役場などが集まっていました。1881(M14)年9月1日には、開拓の進捗状況を視察に来た明治天皇が、真駒内牧場見学ののち石山通を通って山鼻小学校で休息しています。それを記念した「明治天皇御駐蹕(ひつ)之碑」という碑石が石山通交差点付近に立っています。
明治天皇

この時明治天皇が、校庭の向こうにある大木を指して、この木はなんの木か?と聞かれたので、以来この木は『お声掛かりの槲(かしわ)』と呼ばれ、大切に守られていました。
お声掛かりの槲
  (『さっぽろ山鼻百年』 山鼻百年記念誌編纂委員会編、さろるん書房、1977 より)

私が札幌に来たのは1972(S47)年ですが、初め半年は大学の目の前の下宿に住んでいたものの、何かと煩わしさがつのって、学生などほとんど住んでいない東屯田通の安アパートに引っ越しました。まだあたりの道はすべて未舗装の砂利道で、すぐ近くには新通市場があり、下町の賑わいを感じるようなところでした。その時に実はこの木に出会っていたのです。もちろんその時にはそんな由来は知る由もなく、でも道路にはみ出て立っている大木にびっくりしました。ちょうどこんな位置に立っていたのです。
行啓通

その後のちの大正天皇が皇太子時代にもここを通ったことから、この道を行啓道路とか行啓通と呼ぶようになりました。その道路にはみ出て立っていた老大木は、私が見た4年後の1976(S51)10月15日に惜しまれながら伐採されたとあるので、少しでも記憶に残っていることは幸いです。
今回確認に行ったのはカシワの木ではなく、ここに植えられているイロハモミジの並木のことでした。いつも通って見ている割には詳しく調べたこともなく、調べても由来などが出てこないので、あらためて現地確認に行って来ました。
イロハモミジ並木

イロハモミジは、道内にも自生のあるヤマモミジより葉が小さく、枝振りも細やかなことから庭木として用いられることの多い木です。月寒公園の中にもまとまって植えられていますが、札幌周辺でもそれほど植えられていることはありません。
イロハモミジ

ここに立っている看板によると、1915(T4)年に京都嵐山から取り寄せた苗木とのことなので、筋金入りの銘木の子孫ということになります。
看板

植えられてからちょうど百年経ち、かなり老木化していますが、回りの木がすっかり寂しくなる頃まで美しい紅葉を付けています。でもこの行啓通はいずれ拡幅されることになっており、はたしてこの木が今のように安泰とは言えなくなるおそれがあります。なので、しっかりと由来を検証し、その価値を記録しておく必要があるのです。

一日じっとり…

  • 2016.07.31 Sunday
  • 06:09
昨日の武市さん、ベニシアさん相手にどこか緊張顔。少年のような顔が微笑ましかったです〜
それにしても蒸し蒸しと湿度が高いです。夏らしい日があるのはいいけれど、せめて夜だけでも涼しくなってくれないかな。

昨日はまず北大へ。どんなに忙しくても、体が空いていれば圃場整備には出かけます。30℃の予報ではありましたが、いつものメンバーがいつも通り参加して、黙々と作業をこなしてくれました。
サンクン

前回出られなかった学生さんも一人参加してくれたので、手分けして作業をお願いし、私はつるバラの整理を。ドロシーパーキンスの枝の整理は、他の人にお願いできないので、あちこち刺されながらなんとか整理ができました。
アーチ

午後からは私が主宰する研究会の夏季研修会。もうまもなく30年を迎えようとしている研究会なのに、設立当初のメンバーが5名も集まりました。毎年いろんな場所に行っており、今回は中島公園の穴場巡り。緑関係の方がほとんどですが、意外と知られていない札幌の歴史も見ていただこうと企画しました。まずは幌平橋駅から護国神社にかけて、札幌の原風景が偲ばれる場所です。これだけのヤナギが残っているのも珍しいでしょう。
ヤナギ

彌彦神社(伊夜日子と書くのは「読み」を漢字にしたもの)の脇にある株立の大ケヤキと、隣に誰が植えたものか分からない、ホウキ立ち品種の‘むさしの1号’。こういうものを見ると、このメンバーは大盛り上がりになってしまいます。
ケヤキ

メンバーが誰も知らなかった木下成太郎(しげたろう)像。これは誰しも驚く存在です。一度しっかり見ていただきたいです。
木下成太郎像

ツアーの最後はパークホテルの中庭。ここがホテル三愛として建てられた時、私の恩師である明道先生をトップにこのデザインを検討する研究会が作られ、藻岩山と中島公園を借景にして作られた滝のラインが本当に美しい庭園です。これもみなさん初めて見た方ばかりでした。公園との連絡通路脇に出入り口があり、いつでも観覧できるようになっています。
パークホテル

ここで一応解散し、夜の部の参加者は道路を渡ってビール園に向かうのですが、ここのところにある緑地帯のような三角形の空間は、「南10条西2丁目」という市内では最も小さな「町」で、1,400屬里Δ疎臧分は道路が占めており、緑地帯になっている部分はわずか300屬靴ありません。ここにはかつて木下成太郎の家があり、父である木下彌八郎の顕彰碑がポツンと建っています。
南10西2

私は一人3時間しゃべり続けたので、完全にパンク状態。冷えたピールがとっても美味しかったです♪この夏一番の暑さになったので、ビール園内は大賑わい。大通も賑わったことでしょう。暑い中みなさんお疲れ様でした〜
ジンギスカン

カッター先生の水飲み場

  • 2016.02.23 Tuesday
  • 06:00
紺野さんの出された「札幌農学校遊戯会・チャチャニレの木」という冊子からは、もう一つ発見がありました。チャチャニレの下に水飲み場があったことは、他の記事でも知っていたのですが、これも「カッター先生の水飲み場」だということを初めて知ったのです。
カッター先生 水飲み台
 (「札幌農学校遊戯会・チャチャニレの木」紺野哲郎氏私家本、2008 より)
これによると、札幌の水道事業が完成した翌年の1937(S13)年に、道の林務部の技師であったH氏が市長にかけ合って設置したもので、余った水がハルニレの足元に供給されるように作っていたとのこと。その翌年に完成した聖恩碑の水飲み場と共に、「カッター先生の水飲み場」として作られたことが、札幌水道局50年誌に書かれていることを突き止められました。

ジョン・C・カッター(John Clarence Cutter)は、マサチューセッツ農科大学を卒業後さらにハーバード大学医学部で学んだ医師でもあり、札幌農学校では生理学、比較解剖学、英文学を担当することになっていましたが、このほか動物学、獣医学、水産学、心理学、さらには経済学、近世史、地理学に至るまで担当するという多才ぶりを発揮して、内村や新渡戸を初めてする生徒たちに多大の影響を与えた教師だったようです。10年近く教鞭を取られ、札幌の町をこよなく愛していたようで、病のため1910(M43)年に亡くなられた時の遺言では、「元の農学校付近に公共水飲み場を設置して、飲料水を供給すること」という条件のもと、1,025円19銭を札幌区に寄付していました。

大通公園西5丁目には、聖恩碑という巨大な石碑が立っています。これは1935(S11)年に行われた陸軍大演習の際に、昭和天皇が行幸されたことを記念し、碑文に『聖恩無彊』とあるように、明治以来三代の天皇の業績を称えて建てられたものです。この時に札幌の水道事業が一通り完成したことも合わせて、この碑を取り囲むように四隅に小さな水飲み台が設けられました。
聖恩碑

これが、カッター先生から遺贈されたお金によって設けられた水飲み場であると聞いていたのです。(豊平川の伏流水の豊富な札幌では、水道の普及が著しく遅れてしまい、結果として27年間もほったらかしになっていたしまいました。) それなりのお金の割には、あまりにもしょぼい水飲み場なので、不思議に思っていたのです。
水飲み場
 (冬囲いした写真しか見つかりませんでした…(>_<))

この碑には、舞楽面蘭陵王が彫刻され、東正面に首領(右側)、両側に家来(左側)が彫り込まれて噴水となっています。この面は、北大のクラーク像の作者として知られる札幌出身の彫刻家田嶼碩郎(たじま せきろう)の手によるもの。総建設費は31,035円で、約1万円は市の持ち出し、残り約2万円は寄付によったとの記録があるので、この端数がカッター先生の遺産に当たるのでしょうか。
蘭陵王

チャチャニレが伐採されたのは仕方ないとしても、カッター先生の水飲み台は一体どこに行ったのでしょう?そんな大切なものであれば捨ててしまうはずはないと思うのですが、どこにも記載は見当たりません。もし残っていれば、市民ホール前のハルニレの足元に据えてあげるのに…

(なお、「札幌農学校遊戯会・チャチャニレの木」の冊子は、時計台閲覧室や道立文書館閲覧室などに置かれているとのことです。)

回想の風景

  • 2016.02.21 Sunday
  • 06:07
先日の「やちだも公園通風致地区」で、鮫島先生の『回想の風景・札幌』を紹介しましたが、この本を取り出したついでにまたあれこれ見入ってしまいました。戦後まもなくから昭和30年代くらいのモノクロ写真が、札幌生まれではない私にとって、あこがれというか、この目で見てみたかったなぁと思い起こさせるのです。
鮫島先生とは豊平公園時代に知り合いました。あそこは元々林業試験場だったので、先生の植えられた白樺試験林とか名残の木があちこちにあり、隣にお住まいということもあってよく遊びに来ていたのです。先生が書かれた本はほとんど持っていますが、なんであんな軽妙なタッチの文章が書けるのか、若い時からいつも目標にさせていただいているわりには、一向にうまくならないものですねぇ…(>_<) 

そんな本から何点か拝借させていただきます。m(__)m
駅前通のニセアカシアは、1886(M19)年に植えられたものが代々植え継がれ、それでも1959(S34)年まで初代の木が残っていたそうです。なのでこの写真にも何本か残っていたのかもしれません。今回の植え替えで随分とニセアカシアが疎まれましたが、我々「外来種」にそんなえらそうなことをいう資格なんかないと思っています。
駅前通
(「回想の風景・札幌 -遙かな日々の記録-」より 鮫島淳一著、富士コンテム、2007、以下同)

駅前通と共にニセアカシアの並木が名物だった北一条通。北原白秋の「この道」は、異論があるものの、ここを舞台に作られたといわれています。割と近年まで真ん中の走行車線と、並木で区切られた緩行車線に区分されていました。それにしてもこの頃の樹形はまるで盆栽みたい。車があんまり走らないから、こんな樹形でも問題が起きなかったのでしょう。
北一条通

この陸橋(おかばし)も懐かしい写真です。正式には西5丁目陸橋とでも言うのでしょうが、みんな‘おかばし’と呼んでました。これは1953(S28)年のものなので、まだ真ん中を路面電車が走っています。その後道路の右側に専用の陸橋ができていて、渡り終わってから道路の真ん中に戻っていました。私が初めて札幌に受験に来た1971(S46)年は、まだ地下鉄が完成していなかったので、新琴似までの路面電車がここを走っており、翌年地下鉄の開通と共に廃線になったのです。80年代半ばの鉄道高架でこの陸橋も姿を消しましたが、後輩に「電車通」とか「おかばし」とか言っても、きょとんとされてしまいました…(^_^;)
陸橋

荒井山のスキー場は、今でも草刈りをしているものの誰も滑る人がいなくなりました。右側■の位置に現在大倉山小学校があり、子供達が通っていた当時はまだリフトもあって、スキー授業もやられていたのです。なにせ平らなグラウンドがなくて、ゲレンデしかない学校として知られていましたので。それにしても広々したゲレンデだなぁと感心するほどで、山の形からすると点線の位置に現在のバス道路があることになります。そんなに広々していたのかと思って、昔の様子を調べてみました。
荒井山2

この図は昭和初期なので家の数はまだまばら、まっすぐ上がる旧道沿いに点々とあるだけです。この点線の位置にある現在のバス道路は、昔あった円山温泉で行き止まりになっています。この温泉跡地には、拓銀の研修所ができ、それがつぶれて今は宗教団体に買収されてしまいました。この地図で見るとそんなに広くなさそうですが、今も少年ジャンプのメッカである荒井山シャンツェの下には、実にたくさんのスキーヤーがゴマ粒のように滑っていたのですねぇ。(赤丸の位置が我が家になります。)
十二軒沢
(「郷土誌 宮の森」 札幌市立宮の森中学校製作、1990)

ちなみに当時の地名は琴似町十二軒。開拓当初に開拓使や東本願寺が呼び寄せた農民達が、現在の中島公園とすすきのの間の地域に「辛未一ノ村(しんびいちのむら)」を作っていました。ところが屯田兵がやってくると、彼らは追い立てられてしまい、西の方に逃れて、あちらに八軒、二十四軒、円山の向こう側の山裾に十二軒と分かれて移り住みました。そのうち十二軒だけは、スキーやジャンプに宮様がよく来るので、1943(S18)年に宮の森と名前を変えてしまったのです。

やちだも公園通

  • 2016.02.18 Thursday
  • 06:00
寒かろうが雪が降ろうが、昼には必ず30分ほど歩くことにしています。だいたい30分歩くと5千歩くらいなので、なんとかぎりぎりの線でしょうか。どちらに向いて行くのかは全く気まぐれで、信号に合わせててきとーに進むことが多く、昨日は何となく北に向かって歩くことに。北7条通まで出て、そうかやちだも公園だったなぁと気付きました。格子状区画の中に、この辺りだけがいびつになっており、マンションの間からヤチダモの木立が見えてきます。
やちだも公園

ここは、鮫島淳一さんの「回想の風景・札幌 -遙かな日々の記録-」に記憶の風景として紹介されています。
鮫島さん
(「回想の風景・札幌 -遙かな日々の記録-」より 鮫島淳一著、富士コンテム、2007)

札幌の都市計画は、1936(S11)年に都市計画街路が、1939(S14)年に風致地区が設定され、全国に例を見ない緑園都市と言える雄大な構想が実現に向かいました。幅員55〜110mの広路(ひろじ)が大通、やちだも公園道路、新川公園道路、創成川通、大学雁木通(北大から東区環状通)、伏籠公園通(パープルロード)、白石平岸通(豊平・白石環状通)の7路線、そのほかの街路などが設定され、放射道路と環状通を組み合わせた壮大なものでした。三年後には風致地区が11箇所が設定され、その中に「やちだも公園通風致地区」がありました。つまり、道路と緑地をセットにした雄大な公園通(ブールヴァール)がまさにこの場所に設定されていたのです。

ちょうど1936(S11)年発行の地図があったので、その風致地区の範囲を落としてみました。当時はまだ琴似も円山も合併前なので、住宅地は元の札幌の範囲までに留まっていたようです。その外側に残されている自然を残すために、風致地区として帯状に取り込み、バッファゾーンとして設定していたわけです。
風致地区

この範囲を今の地図に落としてみると、あれれ…なんとも情けないことになってしまったことがよく分かります。本来の計画では札樽国道と函館本線を結ぶ予定で、将来は環状通の一部になる想定だったようです。ここにあった湿地を中央に取り込んだ、幅員が110mもある雄大な緑園道路になる計画でした。戦後の見直しでこれらの風致地区の多くが姿を消してしまい、たちまち住宅地に呑み込まれていったわけです。「やちだも公園通風致地区」では通りそのものの計画がなくなって、近くの環状通りに移行し、ただの殺風景な6車線道路にしかなりませんでした。
現況

風致地区でもほんの一部だけが、このやちだも公園として残されているものの、そんな謂われを思い起こすよすがも、数本のハルニレやハンノキ、ヤチダモ程度で、他の公園とそんなに変わっているとも思えません。
内部

何度通ってももったいなかったなぁ…と思ってしまう場所ですが、ここをさらに通り過ぎて中央市場の辺りまで行ってしまったのが間違いの元。せっかく古の姿を思い起こしながらしんみり歩いていたのに、ものすごい喧噪と外国人だらけの場外市場の真ん中に入ってしまったのです…(>_<)
場外

札幌は今や全道の4割近くの人口を呑み込み、ますます巨大化してコントロールが効かなくなっていくことでしょう。全国的に例を見ない壮大な都市計画があったこの町も、東京の縮図を見るようにスプロール化が進んでいき、かつての名残は記憶からも消えていこうとしています。そんなことを改めて感じてしまう散歩になりました。

参考:「札幌における1936年決定広幅員街路の計画思想」 越澤 明著、土木史研究第19号、1999年5月

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